第3話 TS転生おじさん、自立する。
「ヌエ、来客2名だ。茶を頼む」
「了解です」
13歳になった私は孤児院を出て、本格的にイカルガ親方の楽器工房で働くようになった。といっても楽器作りに関してはちんぷんかんぷんなので、それこそパートのおばちゃん的な立場だが扱いは正社員のそれである。
既に1年半ほど親方の工房で働いてきた私にとって、日頃の業務は慣れたものだった。朝は掃除、午前中は買い物に行って大量の賄い飯を作り、午後からは事務作業をする。お客さんが来た時はその相手を。
9時5時どころか10時から始まって4時には終わる職場は実にホワイトである。これで給料がよく休日もちゃんとあって、祝日も休みな上にボーナスも出るのだからイカルガ楽器工房は最高の職場だ。
「ヌエちゃん、可愛いなあ」
「ほんと、嫁になってくんねえかなあ」
「バカ言え。なるなら俺の嫁にだ」
「お前ら! 色ボケこいてんじゃねえぞ!」
すんませーん! と親方にどやされた職人たちの合唱が響き渡るのもいつものことだった。イカルガ楽器工房で働く職人さんたちは、自ら親方に弟子入りを志願した者もいれば、親方が拾ってきた跳ねっ返りもいる。
ほっとけなかったから、と犬猫のように拾われてきた後者は、親方のことをオヤジ、オヤジと父親のように慕っており、職人というよりはその筋の下っ端のようだった。
まあ、職人は荒っぽい男が多いので、よくも悪くも義理と人情の世界ではあるのだろう。そんないかつい男たちに囲まれるのは少々落ち着かなかったが、最後に物を言うのは慣れである。
13歳になり、身長だけでなく胸や尻までもが成長してきた私の体は、とても女性らしいものへと変わりつつあった。中には露骨に私にいやらしい視線を向けてくる男もいる。
そういった視線を減らすために、働く時はいつも髪を結い、胸にさらしを巻いて、分厚い伊達眼鏡をかけオーバーオールを着込んでいるため、私が女の色気を放つことは皆無なのだが、それでも女というだけで注目の的だ。
なるほどこうなることを見越していたのならば、確かに学院に行けと追い出されそうになるのも納得かもしれない。この世界にはセクハラ・パワハラ・モラハラを咎める法律は存在しないからだ。
むさ苦しい男所帯であれば、必然的に紅一点である私にいやらしい目を向けてくる男はそれなりにおり、親方や既婚の先輩職人さんたちが睨みを利かせてくれなかったらと思うと、末恐ろしいものがあった。
「ったく! あいつらと来たら!」
「いつもすみません、私のせいで」
「あ? お前さんが謝るこたあねえよ! 気にすんな!」
孤児院を出た当初は、適当な安いアパートでも借りて独り暮らしを始めるつもりだったのだが、下町ならともかく貧民街でそんなことをすれば襲ってくださいと言ってるようなもんだぞ、と親方に忠告されてしまった。
そのため今は工房のすぐ裏手にある親方の家に下宿させてもらっている。家賃は給料から天引きだが、かなり良心的な価格である上に水道光熱費は親方持ちであるためかなりありがたい。
前世風に言うのであれば、都内駅前築三十年、日当たり良好トイレ風呂ベランダ完備のアパートに家賃3万円、水道光熱費無料といった感じだ。どれだけ破格の待遇かは言うまでもあるまい。
お陰様でそこそこの貯金も貯まってきたため、将来的にはちゃんとしたアパートに引っ越せそうである。とはいえ現状、引っ越す予定はまだないのだが、いつまでも親方の厚意に甘え続けているというのは申し訳ない。
「失礼。イカルガ殿はいらっしゃるだろうか」
「おお! 公爵様! お待ちしておりやしたぜ!」
午後の仕事に励んでいると、工房の前に1台の馬車が停まった。降りてきたのはなんとノイズ公爵家の当主、ソニック・ノイズ様であるという。さすがは楽器作りの人間国宝が開いた工房。客層も凄まじい。
「紹介しよう。娘のマンダリンだ」
「おお! お嬢さんが入学試験で史上初の満点を叩き出したと噂の! お会いできて光栄だ!」
「お初にお目にかかります。ノイズ公爵家が長女、マンダリン・ノイズと申します。こちらこそ、人間国宝のイカルガ様にお会いできて光栄ですわ。わたくしのことはどうぞリンリンとお呼びください」
なんでも今年の国立音楽学院の入試では、公爵家の御令嬢がぶっちぎりの歌声を披露し見事に主席入学を果たしたということで、国中で噂になっている。
あの歌声は天使だ! 伝説だ! 新たな歌姫の誕生だ! 女神だ! と方々で話題になっているそうで、その当事者が父親と共に現れたのだから、工房の中は騒然となった。
「マンダリン、イカルガ殿は世界最高の楽器職人だ。必ずやお前に相応しい最高の逸品を作ってくれるだろう」
「まあ!」
「なんのなんの! 儂なんぞただの偏屈な老いぼれにすぎませぬ!」
音楽の国では優れた楽器職人は貴族からも一目置かれるようだった。言い方は悪いが、下町のこんな平凡な工房でそれほどまでに優れた職人が働いているとは思わなかったのだろう。
マンダリンお嬢様は目を丸くしながら、親方と握手する。親方もその気になれば高級住宅地に大きな工房を構えられるだけの名声も貯えもあるのだから、それなりの工房を作ればいいのに。
とはいえもしそうなったら私のような得体の知れない孤児の娘を雇い入れることもなかっただろうから、私としては親方が下町好きでよかったと思うのだけれど。
「実は娘が春の新入生歓迎会で1年生代表として独唱をすることになってね。その舞台で使うピアノを新たに用立てて頂きたいのだ」
公爵様いわく、春の演奏会というのは国立音楽学院の主催するイベントの中でもかなり大事なものであるらしかった。言わば新入生たちの顔見世の場なのだ。
世界各国から来賓を招いて、今年も素晴らしい人材が集まりましたよ、と披露するための場であり、新入生が己の実力を売り込むための場でもある。
なるほど王子様の婚約者である貴族のお嬢様が、王子様の演奏で歌を披露するとなれば、気合いの入った特注品を、となるのも当然だろう。
楽器ってそんなに簡単に短時間でできるものなの? と日本人的には思うのだが、そこは異世界。親方であれば1か月もあればどんな楽器もパパっと仕上げてしまうのだから驚きだ。
「であれば、是非もなく承りましょうぞ! 噂の天使様の歌声に華を添えることができるのであれば、儂も本望ですからな!」
「ありがとうございます!」
イカルガ親方は偏屈な頑固職人としても有名だった。どれだけ金を積もうが相手が貴族だろうが王族だろうが、気に入らないと判断した輩には決して楽器を作ってやることはない。
過去にはそれが原因で貴族とトラブルに発展したこともあったそうで、人間国宝の肩書きと圧倒的ネームバリュー、それから伝手やコネを頼りにそういったトラブルを潰していった結果、今ではそういった困った客もいなくなったとかなんとか。
恐らく親方が下町に居着いているのも、そういった過去のいざこざがあって上流階級の世界に嫌気が差したからなのかもしれない。そんな親方が笑顔で安請け合いするぐらいだから、公爵様とは仲がよいのだろう。
「ヌエ! 茶と菓子を頼む!」
「かしこまりました」
「ご紹介します。彼女はメヌエット。うちの工房の手伝いをしております。信用できる人物ですので、どうぞご安心くだされ」
「なっ!?」
私が顔を出すと、マンダリンお嬢様が目を剥いた。なんだろう、そんな顔をされる理由はないはずだが、何か失礼があっただろうか。それとも、貴族のお嬢様はこんな男みたいな格好をしている女性を見るのが初めてで驚いたのだろうか。
「初めまして、公爵様、お嬢様。従業員のメヌエットと申します」
「初めまして、お嬢さん。イカルガ殿がそこまで仰るのであれば、私も君を信用するとしよう」
「ご期待に副えるよう努力致します」
手を差し出されたので、公爵と握手する。その間もマンダリンお嬢様は固まったままだ。
「なんで!? どうしてあなたがここにいるの!?」
「何故、と申されましても。従業員ですので」
「学院は!? どうして入試に来なかったの!?」
「私ごときには身に余る分不相応かと」
「失礼、馬車に忘れ物をしたようだ。取りに行ってくる」
「ちょ!? お父様! 待って! 今大事なところだから!」
錯乱しながら私に詰め寄ろうとする娘さんの手を笑顔で引いて、公爵が工房を出ていく。
「公爵家のお嬢様と知り合いだったのか? ヌエ」
「いえ、初対面ですが」
残された私たちはキョトンと顔を見合わせ、首を傾げるよりなかった。
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