第39話 浮津②

 正直、ここまで身近な誰かを苦手に思うのは初めてだった。

 聡いわたしは、人間関係をずっと割り切っていたし、どんな相手ともうまくやっていける自負があった。


 けれど違う。

 目の前の人間は、ここにいるようで、わたしを見てわたしと話しているようで、実はずっと奥にいる妹を見て話しているようなものなのだ。


 佐志路部さしろべ八弥斗ややとといると、勝手に自分を半透明にされているような気分だった。


 知らないし、この人の妹のことなんて。


 と言っても、実際の所はけっこう知っている。


 彼の妹――佐志路部さしろべ波実香はみかは有名人だ。


 公立の中間一貫校で、学年は一つ下だけれど去年までは同じ中等部の生徒だったということもあるけれど、それでも彼の妹の他にわたしが知っている後輩なんていなかった。


 顔が良くて、運動も勉強もできる。兄と同じ評価と言えばそうだ。かなりモテるというのも同じ。

 違うのは、妹の方は兄のことばかり話す――ということもないらしいということくらいか。


 しかし彼があまりにも妹のことばかり話すので、その差は非常に大きい。

 つまり彼の最大の欠点で、もしかしたら唯一かもしれないマイナスポイントがない……というのが妹ということになる。

 それはまあ、人気になるだろう。

 こちらは兄の方と違って不思議でもないし、別に兄が苦手だからといって妹にまで思うところもなかった。


 と、思っていたのだけれども。


「浮津さん、どうやら俺と妹は髪質が違うらしい……」

「そうなんだ? でも、そうかもしれませんね。わたしも母と同じシャンプーは使っていませんから」


 どうも、彼は自分で散々試したシャンプーをやっと妹にも使わせたところ、思った効果が得られなかったらしい。

 わたしのフォローを複雑な顔で聞いている。

 真剣というか、少し深刻な。妹と自分の髪質の違いが、そんなにショックだったのだろうか。


「妹の髪質が近い女子を探すか……」

「……わたし以外の子にもオススメを聞くんですか?」

「そうしたいけど……浮津さん以外だと話したことない女子ばっかで」

「そうなんですか」


 女子からは好かれているくせして、引っ込み思案なのか、ただ妹以外に興味がないのか、彼はわたし以外の女子と交流がないらしい。


「まあ、妹のためだし……聞いてくるよ」

「ま、待ってください!」


 思わず、止めてしまった。


 ほとんど初対面の(といってもクラスメイトだけど)女子に、彼がまたいきなり「髪、綺麗だね。シャンプーどこの使っているの?」と聞くのを想像して、面倒事になるのも想像にかたくない。


 人気のある彼にそんなことを言われたら、勘違いするだろう。

 妹のことまで説明するなら、まだ大丈夫かもしれないけれど――いいや、わたし以外の女子だったら、妹の方が口実で彼が自分と仲良くなろうとしている――と勘違いする可能性の方が高い。


「わ、わたしが代わりに聞いてきてあげます」


 勉強の傍ら、担任やクラスメイト達からの評判を高めておくのも、女子高生の正解として心がけていた。クラスで恋愛沙汰のトラブルが目立つのは避けたい。


「う、浮津さん……っ!!」


 わたしの思いも知らず、彼はなにか感動しているようだった。

 恩を感じたのなら、どうかわたしと距離を取って大人しくしていてほしい。


 わたしだって正解の一環としてクラス委員長をやって、その延長で面倒なクラスメイトとも親しげに接しているだけなのだ。

 それ以上の交友は求めていない。


 適当に、それらしい話をクラスメイトの女子達から聞いて来て、――かと言って、彼から合格が出るシャンプーでないとこの面倒なやり取りが続いてしまうから、そこについては手を抜かなかった。


 噂の妹本人を見に行った。今までも遠目に見たことあったけれど、あまりまじましとは見ていなかった。

 なるほど、たしかに彼とは――わたしとも、髪質が違いそうだ。太めで、固い髪質に見える。それだとあのシャンプーは合わないだろう。


(顔も……二人とも美形ではあるけど、似ているってほどじゃないかも……)


 そう思いながら、わたしは新しいオススメのシャンプーを彼に伝えた。


「ありがとう、浮津さん!! 浮津さんは恩人だよっ! なにかあったら言ってくれ、絶対この恩は返すから」

「あはは、喜んでもらえたならそれで十分ですよ」

「さっそく妹に教えてくるよ」

「……あれ、今度は自分で試さないんですか?」


 妹と自分の髪質の違いがわかったからだろうか、と思ったが。


「いや、だって今回は浮津さんが妹のためにオススメ探してきてくれたんだろ。だったら信頼しているから、妹にもそのまま使ってもらうよ」

「信頼ですか……そういってもらえると嬉しいですね」


 ずいぶんと重い言葉を平気な顔で言う。思わず苦笑いを浮かべた。こんな人間からの信頼なんて――けれど、真っ直ぐと向けられた瞳と感情は不思議と上面の偽物とは思わなかった。


 人に嘘をばかりついていると、次第に相手も自分と同じく嘘ばかりついているように見える……なんてのはよく聞く話だ。

 胸を張って取り繕った偽善者であると言えるわたしが、何の根拠もなく誰かの言葉が本物だと思ったのはどうしてだろう。


 別に、人間不信なんてことはない。

 友人はたくさんいて、家族との仲も良好。

 だけど彼らに信頼という感情を持ったことがあっただろうか。


 なんとなく、自分が一人なんじゃないかって気がした。孤独に悩んだことなんてなかった。一人が好きなのかもしれないし、友達といえる相手もたくさんいて、家族もいて――。


 けれど彼が妹を思うように、誰かがわたしを思うことはあるだろうか。


 そんなことを考えると、自分の人生が――ずっと求めてた正解が、すごく薄っぺらいものに思えた。


 気づけば、彼と話す時間は苦痛ではなくなった。聞いていると頭は痛くなるけれど、悪くない時間だった。

 彼はほとんど考えたままにしゃべるし、妹のことばかり考えているけれど、わたしのことをちゃんと見ている。それがわかったからだろう。


「妹のためならヒグマと戦える」

「……ヒグマは体長二メートル声で、三百キロくらいあるみたいですけど」

「野生の動物を殺めたあとは、その肉は無駄にできない。食べきれるだろうか。味は高級珍味って聞くけど」

「もう勝ったつもりですか」


 本気だ。妹を守るためならヒグマとも戦うし、勝つつもりで、しかもそのあと食べる心配までしている。呆れたけれど、どうしょうもなく本気だった。


 バカだ。


 佐志路部さしろべ八弥斗ややとは間違いだ。いい人間かもしれないけれど、そもそも彼が妹以外に好意を向ける姿が想像できない。


 だからこそ、もしその好意が少しでも自分に向いたら――どんな気持ちがするだろうか。


 妹と同じように彼から思われたら? わたしのために彼はシャンプーを探し回って、ヒグマを倒すだろうか。

 学校中に妹好きだと知られているみたいに、誰からも知られる彼女思いの男になるんだろうか。


「佐志路部君は本当に妹さんが好きですよね」

「へへへっ」

「……」


 その誇らしげな顔はなんだ。


「多分、浮津さんが思う十倍は妹のことが好きだ」

「そうですか」


 どうやったら、彼の気が引けるだろうか。

 簡単ではない。しかし、方法を選ばなければ――彼だって思春期の男子高校生だ。持て余すものもいくらだってあるだろう。


 好意なのか、興味なのか、もしかしたらなにかしらの復讐心なのかもしれない。


 わたしに間違えを選ばせた、罪滅ぼしを与えよう。


 ――わたしは、どうやって彼をものにするか考え出したのだった。

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