第492話 ボクはもう、諦めない



 『人間ニンゲン』という生物は、いったいどの程度までの乱暴な扱いに耐え得るものなのだろうか。

 果たして……どの程度まで酷使すれば、ものなのだろうか。



 耐用試験、耐久テスト、反復試験、疲労調査、破壊試験。呼称や手順などは多々あれど、世の工業製品には必ずと言って良いほどに課されるであろうそれら試験。

 それをまさか……使用者たる『人間』である筈の、自分が課されることになろうとは。

 気高い志を抱き、懸命に勉学に勤しんでいた、世の不条理を知りもしなかった学生の頃の自分には……到底想像できなかっただろう。


 あるいは、敢えて目を向けないようにしていたのか。

 ……信じたくなかっただけなのだろうか。




 僕達が住まう日本国においては……厚労省の定める労働基準法において、一日あたりの労働時間は『原則』八時間と定められている。

 欧州等を始めとする他国の例を見てみても解るように、この『八時間』というのが、つまりは『一日に人間が働ける時間の上限』という認識で間違い無いだろう。

 国によっては六時間や……もっと短く設定しているケースも少なくない。



 というのも、労働時間が長引けば長引くほど、仕事の精度も目に見えて低下するためだ。

 人間とは働けば働くほどに疲労が溜まっていくものであり、当初のパフォーマンスを長時間に渡って発揮し続けていられるようには、残念ながら出来ていないのだ。


 陸上短距離走の世界記録保持者が、百メートルを十秒で走り抜けられるからといって。

 同じ人物が……例えば五千メートルの長距離走を五百秒で走れるかといったら、当然そんな理屈は通らないわけだ。



 『原則一日八時間』というものはあくまで『上限』の目安を定めるものであり、決してスタンダードである訳じゃない。

 三六協定で労働時間のあり方や残業の扱いに関する取り決めが示されたとて……そもそも『残業』なんてものはあくまで例外・特例であり、本来なら有り得ない筈の制度なのだ。

 それを前提としてスケジュールを組むことなど、あって良い筈が無い。




 そんな当たり前なことを……わざわざ法律にも示されていることを平然と無視して、貴重な人材を酷使する。


 法律に定められた労働時間の倍以上の仕事を押し付け、二人分以上の仕事を一人一人に押し付ける。


 深夜二時発の送迎バスに駆け込んで、死んだ目の同僚と共に寮に辿り着いて眠れる日は……まだ軽傷で済んだほうで。


 平均九時間の残業だけで仕事が終わらなければ、さも当然のように休日を返上して処理に当たり。


 百パーセント全力のパフォーマンスを十七時間ぶっ通し、週七日間維持し続けることを余儀なくされる。



 ……そんな非人道的なことが、日本国政府の御墨付きで罷り通っているのだから……全くもって救いが無い。

 僕達の現状を、振られている仕事量を知りもしない御上先生方の思い付きで……下らない仕事が来る日も来る日も際限無く湧き出てくる。



 そんな酷すぎる仕打ちを受け続け、身体と心を犠牲にし続け、この国のためにと働き続けても尚、『高給取り』『贅沢過ぎ』『税金の無駄』等と罵声を浴びせられ。


 そんな地獄のような職場に、そんな職場の存在を黙認する国に、そんな国にしか生きられない世界に絶望し。




 自ら命を断とうとする同僚も……実際に断った者も、決して少なくない。




 く言う僕も……そんな『自ら命を断とうとした』者の一人だったわけだが。



 ただ……まぁ、いったい何が何やらさっぱりなのだが……

 僕の場合、それはそれは……とても常識的には考え辛い事態となってしまったわけで。





「……以前の君、『宇多方うたかた鎮彦ふみひこ』は……既にこの世界に存在しない。……身も心も文字通り『生まれ変わった』気分はどうかね? 


「……………これ、が…………ボク……」




 もう全てを投げ出して死んでしまいたいと、死んだように眠り続けていたいと……心行くまで健やかなる眠りを享受していたい、と。


 儚く、か弱く、無垢な幼子であれば……全ての義務から解き放たれ、ずっと微睡んでいても赦されるだろうに、と。



 年の暮れの、とある大嵐の日。

 そんな子どもじみた願いが、まさか叶えられてしまおうとは…………一体、この世の誰が予見出来ようか。



 先に旅立った先輩と交わした『歓迎会』の約束は……まだ当分、果たせそうに無さそうだ。








………………………………



……………………



…………






『よくもまぁ……好き勝手やってくれたものだ。…………残念だよ、ソルムヌフィス』




 釘でも打ちこまれたかのようにズキズキと痛む頭に、直接響く【魔王】の声。

 どこか優しげで、温かみさえ感じさせる……優しい父親のような声色、【魔王】の声。



 好きでもないその名で何度呼ばれようと。怖気さえ感じさせる空っぽな笑みを向けられようと。

 どれだけ睨まれ、凄まれ、苦痛を与え、敵意も露にこの身をさいなんで見せようと。


 ボクの心には、微塵も響くことは無い。

 この国この時代に尚実在する、この世の地獄のような職場で鍛えられたボクにとっては……この程度の苦痛など、朝飯前の目覚め前だ。




『……痩せ我慢を。…………まぁ良い、悪い子へのは……また後にするとしよう』




 ……なるほど。

 ボクの魂を苛むこの苦痛は、まだ全然『お仕置き』なんかでは無かったということか。


 この……身体中の血管に有刺鉄線でも巡らせたかのような、身体を引き裂くような苦痛には…………どうやら、まだまだ上があるということか。



 ボクの身体の制御権は……既に『異世界からの侵略者』たる【魔王】の手へと渡っている。


 この一年近く、【魔王】本人に感付かれぬように色々と工作を施してきた……儚く、か弱く、無垢な幼子そのものの身体。

 元の身体とは何から何まで真逆となってしまったが、少なくない愛着を感じていた可愛らしい身体は……ボクの言うことを聞きやしない。



 今のボクは『山本五郎』の身体から抜け出た【魔王】に寄生され、溜め込んできた魔力もろとも身体を奪われ……そうして弾き出されつつある『残り滓』の意識に過ぎない。


 この(感覚が無い筈の)身体をバラバラに引き裂かれるような痛みに耐え続け、脳髄をドロドロに溶かされるような苦痛を受け続け……それでもこの身体にしがみついて踏み留まらねば、それこそ【魔王】の目的は達せられてしまう。

 ボクが諦め、この身体を完全に【魔王】へ明け渡したときが……【魔王】の目的が達せられるときなのだろう。





 ……上等だ。やってやろうじゃないか。


 異世界からの侵略者が何だ。世界ひとつを滅ぼした【魔王】が何だ。

 『お父様』に恩を売り、弱味につけ込んだ余所者ごときが……この国を好き勝手に出来ると思ったら大間違いだ。




 今や身体を乗っ取られたボクには、もはや打つ手は残されていないけれど。

 この国を……この世界を愛し、人々に笑顔をもたらす『正義の魔法使い』が、きっとなんとかしてくれる。


 この世界を、この国を、そして可愛いボクの義妹いもうとたちを……きっと纏めて救ってくれる。



 だからボクも……僕も。

 この国を、この世界を、今度こそ諦めるわけにはいかないのだ。



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