第147話 【収録完了】あにまるせらぴー



 おーけー。落ち着いて状況を整理してみよう。



 おれたちは先程、一番風呂を譲った霧衣きりえちゃんと入れ違いになる形で浴室へと移った。

 時刻はもう真夜中なので、当然玄関ドアはカギもチェーンも掛けてあるし、まだまだ寒い季節だから窓もキッチリ施錠している。


 お風呂場でおれたちはスキンシップを図っていたため、正直そこそこ入浴時間が掛かってしまっていたとは思う。なのでこの間に霧衣きりえちゃんがお出かけしてしまい、開けっ放しになっていた玄関から見知らぬわんこが侵入してしまった……という線も、考えられるといえば考えられなくもないのだろう。

 だが……大人しくて超が付くほど良い子である霧衣きりえちゃんが、家主おれに何の断りもなく深夜外出を試みる、ましてやセキュリティの要である玄関を開けっぱなしにするなんてことは……恐らくまずもって有り得ない。

 加えて、周りが大自然なド田舎というわけでも無く……むしろ都会に分類されるこの浪越市南区において、首輪のついていないわんこがペット禁止マンションの共用スペースを突破し、居室に侵入を果たすなんて……こちらも割と有り得ない。



 つまりは『わんこ外部から侵入説』は、信憑性に欠ける。


 他に考えられる選択肢……おれが今まで見聞きしてきた情報をもとに導き出される『お風呂から上がったら見知らぬわんこに出迎えられた事件』の真相とは。





「………………」


『…………きゅーん……』


「……………………霧衣きりえ……ちゃん?」


『!! わふっ! くぅん』


「っと待っ……! いま夜! 夜だから……うん、いい子。…………じゃなくって!!」


「え? なぁにノワ、どうし……………………え?」



 いつもの服……というか布を身体に纏うことすら忘れ、小さな天色の瞳を真ん丸に見開いて、ぽかんとした顔で硬直する相棒。

 うんうん、わかる。その気持ちめっちゃ解る。理解出来ないってことが理解できる。



「え? 犬…………え?」


「あのねラニ。落ち着いて聞いてね」


「えっ? 何……ねぇノワ、あの……いぬ……」


「うん、そう。この犬……わんこ、ね…………霧衣きりえちゃん」


『わふっ!』


「……………………は!?」




 突如現れたわんこと、突如姿を眩ませた霧衣きりえちゃん。感情を表すようにぱたぱたと動く三角形の耳と艶やかな毛並みは、両者とも穢れのない真っ白……よくよく考えるまでもなく、全くもって同じ色だ。


 そもそも、彼女が仕えていた鶴城神宮の神使の面々。霧衣きりえちゃんの先輩にあたるのだろう彼らの特技を、おれたちは目の当たりにしていたではないか。

 で、あれば。あそこまであからさまな狗耳イヌミミを備えている彼女が、同様の特技を備えていたとしても……何らおかしくない。



「いやほら、マガラさんさ? 最初でっかいオオカミだったじゃん? ……たぶんだけど、そういうことなんだと思う」


「…………この世界のカミサマとそのつかいって…………なんていうか、自由だね」


「この世界っていうか……この国、かなぁ? わかんないけど」


『くーん……』



 なにはともあれ……謎のわんこが霧衣きりえちゃんだということは、とりあえずわかった。ペット禁止のこの物件だが、この子はペットではなく……えっと、うん。同居人だ。なのでつまりはセーフなのだ。たぶん。

 …………いや、アウトか。やっぱアウトか。そういえば入居のときルームシェア禁止って言われたな。やっぱダメだ。


 まあ良いや。良くはないけどとりあえずは保留で良いや。いま問題なのはそこじゃない。


 今問題なのは……なぜ霧衣きりえちゃんが突然、こんな奇行に走ったのか……というところだ。




「えーっと…………霧衣きりえちゃん? どうしたの、いきなり」


『…………きゅーん』


「わ……わっ、と…………おぉぉ」



 動機を問いただそうとしたおれの足元に……ずずいっとその身を寄せてくる、ふわっふわの真っ白なわんこ。

 かつてのおれの愛犬・太郎左衛門とは異なり、その面構えはマズルの張った見事な日本犬。柴犬のようにも見えるが柴よりも毛足は長く、それでいて細く柔らかそうで。愛らしい中にも凛々しさを秘めたその佇まいは、どこかオオカミっぽい雰囲気も感じさせる。……なんだか神秘的なお犬様だ。

 人語を発することが出来ないのか、それとも発するつもりがないのか。彼女の気持ちと動機を言葉で聞くことは出来ないが……確かなことは、この子は今おれにすり寄ってきているということ。


 すぐ目の前にある見事な毛並みに、自然と喉が『ごくり』と鳴る。かつて夢中になった感触を思い出してしまい、おれは欲望に抗いきれず……震える手がおずおずと伸びていく。

 つぶらな瞳は相変わらずこちらを見つめたまま。可愛らしく小首を傾げるその所作から拒絶の意は窺えず、それどころか細く弱々しく鳴らされる喉は『何か』を心待ちにしているようで。




「……わ…………わぁ、うわ……っ」


『はふっ、わふ』


「おぉ………………うおぉぉぉ……!」



 ついに届いたおれの指が、その暖かさと柔らかさに一瞬で虜にされる。

 たまらず手を伸ばし、埋め……身を屈めて抱きつくように腕を回す。


 風呂上がりのおれよりも更に高い体温。滑らかでいて柔らか、それでいてしっかりと弾力を感じさせるすべすべの毛並み。天日干しされたお布団のような、鼻腔をくすぐる独特な香気。



 あたたかい。きもちいい。……



 ……あっ、だめこれ。…………むりだ。




「…………っ、ぅあ……あ、っ……ぁぁ……ぅあぁ……っ!」


「あ、あの……ノワ? 大丈夫…………じゃないねこれ。どう見ても大丈夫じゃないよこれ。…………ねえ、ちょっとノワ? ……ちょっ!? ねぇノワ!?」


「ぅうう……ぅうぅぅ………! …………タロ……っ、たろぉ……ううぅぅぅぅ…………っ!」


『…………くぅん』


「あー…………ごめんね、キリちゃん。もう少し…………泣かせたげて」


『…………わふっ』


「ぅうううぅぅぅぅ…………ッ!」




 いい年した大人の男が……なさけない。


 遠い遠い空の彼方へ旅立ってしまった、二度と会えない愛犬のぬくもりを久しぶりに思いだし……おれはしばらくの間、恥も外聞もなく身体を震わせることしかできなかった。



 霧衣きりえちゃんは何も言わず、拒みもせず……なさけないおれの傍にいてくれた。



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