107 ヤダ!噛まないで!

 ガチャリ、というドアが開く音で目が覚めた。一瞬自分がどこにいるかわかんなかったけど、すぐに思い出した。

 私、ポメと一緒に逃げ出した先のテレビ局で警備員に捕まっていたんだっけ。


 それだけじゃない。あのミニチュアシュナウザーのカールに「魔王様」と呼ばれていた。昨晩はそのことをぐるぐると考えていたのに、いつのまにか眠っちゃってたんだ。


 誰かが近づいてくる足音。一人は警備員だけど、もう一人は、誰だっけ? 若い男性で、なんだかイケメンっぽい。あ、私は好きな顔じゃないけど、一般的にイケメンかなって感じ。えっと、誰だっけな……?


「こちらに繋いでおります」

「ああ、これなら逃げ出せませんね。すみません、お手数お掛けいたしました」


 警備員が部屋の外に出ていったあと、若い男はこちらに近づいてくる。


「こんなとこまで来ていたなんて、正直驚きましたよ」


 あ、思い出した。確かペットショップに出入りしていた獣医だ。ヒゲタ先生とか言ってたっけ。ヒゲはないけどね。


 髭田は私の紐が結ばれていた紐をほどき、プラスチックの持ち歩き用ペットケージを開けると、私をその中に入れた。逃げ出そうかなって一瞬考えたけど、たぶん無理。今は大人しくペットショップに戻った方が賢明だと思う。


「上の指示で、私が今回は同行させていただきます。魔王様、窮屈ですがしばらくこちらで我慢なさってください」


 まただ。この髭田も、私のことを「魔王」と呼ぶのか。


「ちょっと、何で私が魔王なのよ!」


 ペットケージの中から話しかけるが、髭田は私を見て首を振った。


「ああ、申し訳ございません。わたくし、動物語を解さないもので」


 あ、そうか。そういえば人間で私たちの言葉がわかる人はいないんだ。髭田にはさっきの私の言葉は「ワンワン!」としか聞こえていないんだね。


 そのまま髭田は駐車場に停めてあったワゴン車の後部座席にケージを積み込み、車を走らせた。


 車だったらペットショップまで10分ぐらいかな? なんて考えていたけど、車はなかなか目的地に着かない。ねえちょっと、どこまで行くつもりなんだろ?

 ワンワン! と吠えてみるけど、当然返答はない。

 そのうち車のヒーターの暖かさと心地よい揺れ、さらに寝不足もあって私は再び眠ってしまったみたい。


 気がついたら、車のエンジンが止まっていた。

 ドアが開く音がして、髭田がペットケージを持ち上げる。


「魔王様、長旅お疲れ様でした。まもなく目的地に到着いたします」


 おっと、危ない、もう少しちゃんと持ってよ、揺れるじゃない! なんて思っていたら、すぐにガラスの自動ドアを通り抜け、室内に入った。その途端、私の鼻に様々なニオイが飛び込んでくる。これは……犬のニオイだ。


 ということは、ここは六本木のペットショップなのかな。ずいぶん長く車に乗っていたような気もするけど。


「店長、こんにちは」

「ああ、髭田先生。それが例のプードルですか?」

「そうです。では、念のため受け取りのサインをいただけますか?」


 なんて会話が私の上で行われている。あれ、ワンニャン王国の店長の声とちょっと違う気がするけど……


 サインを終えたのか、床に置かれた私のペットケージを髭田が覗き込む。


「魔王様、こちらが新しいお住まいになります。しばらくはこちらでお過ごしくださいませ。では私はこれにて失礼します」


 言うと、店長に別れの挨拶をして髭田は店を出ていった。次にケージを覗き込んだのは、くたびれた中年男だった。制服らしきエプロンに付けられた名札には「店長 高橋」とある。高橋? あれ、たしか店長はもっと小太りの「犬飼」さんだったよね?


「……なんだこの犬。パーマかけてるみたいな毛だ。くっそ、売れそうにない犬だなぁ」


 ひ、ヒドイ! あのね、私は可愛いトイプードル様なんだからねっ! 令和では人気ナンバーワンなんだから!


「かー、うるせえ犬だな!」


 店長はいきなりケージの上を手のひらでバン! と叩く。その音と勢いに私はびっくりして「キャン!」と吠えた。


「お前、大人しくしてろよ? 本部から押し付けられちゃった不人気犬なんだからな、お前は! かー、仕方ねぇ、安くして早く売っぱらうか。大損害だよ」


 どうやらここは、ワンニャン王国の六本木店ではないらしいことに今更ながら気づいた。店は広く、見渡すとたくさんの犬が私を見つめている。なんだか、怖い……


 と、私の脳裏にいきなり様々な感情や映像が流れ込んできた。


 ーーなんだよあの犬。変な毛だなぁーー


 ーー可愛いくない奴がきたわ。いじめてやろうかなーー


 ーーキャンキャンうるせぇなあーー


 ああ、これってアレだよね。動物の感情がわかる私の「チカラ」だよね……

 なんだか私、すごく歓迎されてないみたい……


 ◇◇◇


 私がこの店に連れてこられて、はや1ヶ月が経った。この1ヶ月でわかったことは、この店は「ワンニャン王国・八王子店」だということぐらいだ。


 それにはっきりいって、この1ヶ月は地獄の日々だった。


 店に来るお客さんには「何このくるくるパーマの犬? 変なの」と連日笑われる。他のケージの子犬は次々に売れていくのに、私だけ、誰も見てくれない。これはかなり凹む。


 それだけじゃない。

 1日のうち2時間、私は運動場に他の子犬たちと一緒に入れられる。すると他の子犬たちは、こぞって私を無視したり、イジメたりするのだ。


 私が話しかけると「うるせぇ、あっちに行け!」と不快そうに吠える紀州犬。一人でおもちゃで遊んでいると「それを寄越せ」とおもちゃを奪い取るシーズー。他にもワザとぶつかってきたり、とにかくみんな乱暴に私を扱うのだ。そしてイジメてくるのは、主にオス犬たちだった。


 でもメス犬はもっと底意地が悪かった。店員が餌を入れると、メス犬たちは結託して私を押し出し、ドッグフードの一粒も食べさせてもらえない。

 私が諦めてケージの端でお腹を空かせて伏せていると、遠くから聞こえよがしにヒソヒソ話をする。


「あのクルクル、なんだか気持ち悪いよね」

「色もなんだか赤っぽくて変な色」

「オス犬にいっつも色目使ってるよね」


 なんで、こんな言われ方しないとダメなんだろ? 私、結構可愛いはずなんだけど、この昭和時代じゃ人気ないのかな……?

 それとも嫌われるのに何か原因があるのかな……?


 ふと見上げると、カレンダーが見えた。確かこの前まで「昭和64年」のカレンダーが貼ってあった場所だけど、今は見慣れないカレンダーが貼られてある。

 よくみると、年号が「平成元年」になっていた。


 え!? いつの間にか、時代が変わっちゃったの? そっか、私とポメが逃げ出したのは昭和63年の12月だった。あれから1ヶ月経って、平成になっちゃったんだ。


 あと15年もすれば、人間だった私が生まれてくる……考えると、変な気分だよ。今の私は、昭和生まれのトイプードルなんだよね。


 そういえば、あの夜以来、ミニチュアシュナウザーのカールの姿も一切見ない。「では続きは店で」みたいなこと言ってたくせに、この店にいないんだよ?

 アイツ、六本木店にいるのかなぁ。アイツも予想外の展開で、私が別の店に来ちゃったのかなぁ。


 ふと、目の前の光景が滲んだように見えてきた。これは、涙だよね。


 ポメくん、寂しいよ。キミは今、どこにいるんだろ? 六本木のペットショップにまだいるのかな。それともキミは可愛いから、もう売れちゃったかもね。


 どっちにしても、ポメくんにはもう2度と会えないんだろうな……そう考えると、涙が止まらない。あのミニチュアシュナウザー、カールさえいなければこんなことにはならなかったのに……


「おいお前、メソメソして目障りだ。あっち行ってろ!」


 目の前に、大きなモフモフした犬がいる。これはたぶん、雑種犬(令和ではミックス犬っていうけどね)だ。かわいそうだけど売れ残っている犬で、生後半年ぐらいになっている。そのぶん体が大きく、この店の犬の中ではボス格だった。


 いつもはこの犬に目をつけられないようにしている私だけど、この時はちょっとイラっときた。あっち行ってろって言われたって、いったいどこに行けっていうのよ?


 それでも私はのろのろと立ち上がり、他のところに移動しようとした。だけどその時、ボス犬は私の足に自分の足を引っ掛け、私はバランスを崩して転んでしまった。


「キャン!」


 私は頭からつんのめって転び、顔を床にしたたかに打ちつけた。おでこの辺りがジンジンする。


「お前トロくせぇなぁ、なに転んでんだよ? バカじゃねーの?」


 その言葉を聞いた途端、頭に血が登っていくのを感じ、思わず言い返してしまった。


「なによ、アンタが足を引っ掛けたんじゃない! 売れ残りの雑種のくせに!」


 言ってからしまった、と思った。一瞬ポカンとしたように見えたボス犬だが、やがて歯をむき出し、思い切り吠えた。


「なんだと、クルクルバカ犬のくせに!」


 言うなり、私の首を目掛けて噛みついて来ようとするのが見えた。


「ヤダ!噛まないで!」


 しまった! と思う間もなく、ボス犬の牙が私の首にガッチリと食い込む、かのように見え、私は思わず目を閉じてしまった。


 でも、いつまで経ってもその瞬間はやってこない。


 恐る恐る目を開けると、ボス犬は目と口を開いたまま、私の首筋近くで固まっている。そして小さく唸り声を上げている。


「ガ……ガ……」


 私はゆっくりとボス犬から離れるが、ボス犬は動かないまま。口からはよだれを垂らしているが、体勢はそのままなのが不思議だった。


「……どうしたの? まさか急に良心が咎めちゃった、とか?」

「ガ……ガ……」


 相変わらずボス犬は動かない。もしかしたら動かないんじゃなくて……動けないのかな?


「私のこと、もう噛まない?」


 私が聞くと、ボス犬は小さくコクコクと頷いた。目は見開き、必死の形相になっている。これってもしかして……


「じゃ、動いていいよ」


 試しに言ってみたら、ボス犬はバタリ、とその場に倒れた。そのまま荒い息をして、上目遣いで私を見つめている。


 その時、急にボス犬の頭の中の映像が私に流れ込んできた。


 これ、面白い。なんだか鏡を見ているみたい。私が映っていて、怒ったように何かを話している。これ、私が「売れ残りのくせに!」って言った時の映像だ。


 そして映像の中のボス犬は、私を噛もうとした。その瞬間、身動きができなくなった。怖がっていた映像の中の私は目を開ける。


 すると、私の体からユラユラと何かオーラのようなものが湧き出してきた。

 何、これ……


「お嬢様、大変、失礼いたしました」


 急に声が聞こえて、頭の中の映像が途切れた。見ると、ボス犬が私の前にひれ伏している。


「あなた様がまさかそのような力をお持ちだとはつゆ知らず、大変失礼なことを……申し訳ございません!」


 ボス犬は震える声で、床に頭をめり込ませるように謝罪してきた。


 ちょ、ちょっと待ってよ。

 なに、この状況……

 私、どうしちゃったんだろ?

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