32 くーちゃんの正体

 周囲の犬たちが知らないという『くーちゃん』を俺がこの場で探すのは、いまは無理そうだ。そうなれば俺が今なすべきことは、佐藤家の子供達と全力で遊ぶことのみ。よし、たまには飼い犬として最大限の努力をしてやろうじゃないか!


 俺は中学生の姉、友梨奈ちゃんの足に飛び跳ねて甘える素振りをする。

 キャン!という精一杯の可愛い声を出しながら、尻尾を振りながらだ。


「どうしたのモフちゃん? 遊びたいのー?」

「ワンワン!」


 ――ほんと可愛い、この子!!――


 ふふふ、ラブリー子犬あまえんぼ作成は成功のようだ。さあ出すが良い、俺の大好きなあのカラフルなスポンジボールを。吾輩が全力で取ってきてやろうではないか!


 ◇◇◇


 20分後、息が上がった俺はママの青葉さんの隣まで最後の力を振り絞って逃げ出した。


「モフちゃんダメだよ、もう一回取ってきて。ほらっ!」


 友梨奈ちゃんがスポンジボールを渾身の力で遠くに投げる。

 いや、もう勘弁してくれ。俺、もう30回は取りに行ったよね? まだやる気なの? こちとら体力のない子犬だってば、これ以上走ったら死んじゃうよ?


 本能に任せてダッシュ&ボールピックアップを繰り返していた俺の体は悲鳴をあげていた。俺の意思と裏腹に、犬の本能のまま動くこともあるポメラニアンの体だが、さすがに疲れ切っているらしく、俺はもう1ミリも動けなかった。


「友梨奈、モフちゃんはもう疲れちゃったみたいよ。ちょっと休ませてあげよ?」


 ああ、青葉ママ。ちょっとふくよかだが愛嬌のある顔が、今はまるで聖母のように見える。好きだ。その膝下で俺を休ませて欲しい。


 青葉ママは水筒から自分の左手に水を入れ、俺の顔の前に差し出してくれた。おお、命の水だ。まさに甘露、体の隅々まで水分が行き渡るぜ。

 ハッハッハッと止まらなかった俺の呼吸は徐々に落ち着き、座っている青葉ママの太ももにくっついて伏せていると、今度は急激に眠気が襲ってきた。


 ◇◇◇


 急激な体の震えに襲われ、俺は飛び起きた。いつのまにか眠ってしまっていたらしい。見回すと、サンドイッチケースの中身はほとんど空になっている。日もだいぶ傾いてきているし、結構時間が経ったことがわかった。


 すると、川沿いでバドミントンをしていたらしきパパさんと風太くんがラケットを持って戻ってきた。


「ママ、寒くなってきたしそろそろ帰らない?」

「えー! パパ、僕もっと遊びたい!」

「そうだよ、次は私もパパとバドミントンしたい!」


 ほんと子供の体力って無限よね……パパさんは40代前半くらいか? さすがに顔に疲れが見えているな。お父さん、ご苦労様。俺も元は子供がいたから、その苦労はわかるぜ、うんうん。


「ほら、パパだって疲れているし、もう寒くなってきたから帰りましょ? 風太、パパにファミコンで遊んでもらえばいいじゃない!」

「ファミコン、やる!」


 説明しよう。

 ファミコンとは1983年に発売された「ファミリーコンピュータ」の略で、言わずと知れた家庭用ゲーム期の名作である。ちなみに平成元年時点ではまだ後継機である「スーパーファミコン」も発売されていない。つまり令和の現行機Switchの六世代前の任天堂機で、親がゲームに偏見がなく小中学生がいる家には、一家に一台あるのが当時は普通だったのである。


 友梨奈ちゃんも風太くんもファミコンに釣られ、ママの帰り支度を手伝い始めた。俺は伏せながらその様子を眺める。


 パパと友梨奈ちゃんがレジャーシートと椅子を片付け、風太くんがサンドイッチケースを片付け始めた時、風太くんがバランスを崩してケースが落っこちてしまった。誰かの食べかけのハムサンドが地面に落ちてしまう。


「あらま、風太、大丈夫?」


 ママの青葉さんがケースを持ち上げた時。

 遠くからものすごい勢いで走ってくる小さな影を俺は見つけた。

 ん?あれは何だ……子犬、か?


 その子犬は落っこちたハムサンドに向かって突進しているようだ。そして、その犬とサンドイッチを結ぶ線上には、伏せてじっと子犬を見つめているポメラニアンの子犬、つまり俺がいる。


 ちょ、突っ込んできてるよ。何だあの犬? そう思った次の瞬間、俺の耳に聞き覚えのあるセリフが飛び込んできた。


「お前のものは、俺のものー!」


 はっ!? と思った時にはすでに時遅し。突進してきた子犬は、俺の横腹に激突していた。


 ぐうう、と俺は鳴いたのだろうか? 無意識にそんな音が出た俺は、脇腹がえぐれるかのような激痛と同時に2メートルほどぶっ飛び、遠くの草っ原に転がっていた。


 うおおお、痛い。激突された横腹も痛いし、草っ原に投げ出された時にぶつけた背中も痛い。

 そんな俺には目もくれず、激突してきた子犬は地面に落ちたサンドイッチを一心不乱に噛み砕いている。


「あらあら、白いワンちゃん、ごめんなさいね、ウチの子がぶつかっちゃって」


 ふわり、と俺は誰かに抱き抱えられた。顔を見ると、見たこともないおばあちゃんの顔、その隣には、これまた知らないおじいちゃんの姿。


「怪我はない? ほんと、ウチのくーちゃんがごめんなさいね」


 くーちゃん、だと? 俺は急いで子犬の方を振り向く。

 間違いない、アイツだ。黒と白が混じった体、傍若無人ぼうじゃくぶじんなセリフ、そして震える体。

 六本木のペットショップにいた、いじめっ子のチワワだ。


 マジか、この小さいチワワが『くーちゃん』の正体かよ?

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