第22話 ここが花より

「あ、お風呂から出たの?」


 リビングに戻る途中で、トイレから出てきた日高さんと出くわした。


 日高さんは上下黒のスウェットを着ている。ずいぶんラフな格好だが、


「これは目立たないようにするためだからね。趣味ってわけじゃないからね」


 と、彼女の風呂上がりに焦ったように弁明された。別に弁明しなくても似合ってると思うけど。


 一緒にリビングに向かう。ドアを開けた瞬間に拍手が耳を貫いた。


 生徒会の4人がテレビの前に体育座りで集結している。テレビを見るときは部屋を明るくして離れてみてね、と子どもに教えるには悪い例として挙げられそうだ。


「何してるの?」


 ただ1人、ダイニングテーブルに肘をついて遠くから眺めている音月ねるなに訊いた。


阿井あいが見たいって言ってた音楽番組が始まったの」


 すると拍手は、番組が始まったことに対する喜びの拍手か。


「目当てのアーティストでも出るの?」

「うん。が見たいんだって」


 音月が聞き覚えのない単語を発したとき、隣に立つ日高さんがビクッと体を反応させた──ような気がしたが、特に気に留めなかった。


「ココハナ?」

「『ここが花より』っていう……知らないの? 去年デビューした9人組の女性アイドルグループ」

「そういうのには疎くて」

「あっそ。じゃあ君ヒロも見てなかったのね」

「え……君ヒロって……」

「君ヒロは知ってるの? あのオーディション番組から誕生したアイドルグループよ」


 ようやく日高さんが反応を示した理由がわかった。


『オープニングを飾るのは、ここが花よりです』


 テレビではMCらしき女性が紹介をし、今にも曲が始まりそうな雰囲気を見せている。


『今夜披露していただくのは、SNSで話題沸騰中の曲。サビのしなやかなダンスにご注目ください。ここが花よりで「シンデレラ・コード」』


 画面が切り替わって、ボブカットの少女がアップで映し出される。イントロなしでいきなり彼女の歌声から曲が始まった。


 そこからカメラが引いていき、淡い水色のワンピースを纏う大人数の女性が踊りはじめた。


 もし日高さんが合格していたら、今頃、この画面の向こうにいたのだろうか。


 もしかしたら、最初にアップで映るのは日高さんだったかもしれない。最初の歌声で視聴者を釘付けにするのは彼女だったかもしれない。


 ボブカットの少女も愛くるしい顔をしているが、日高さんと比べると劣って見える。歌声も踊りも日高さんのほうが上手だ。


 曲が始まってすぐ、日高さんは静かにリビングを出ていった。


 秋人あきとたちはテレビに夢中で、音月もじっとテレビに視線を送っている。誰も気づいていない。


 俺は彼女の後を追った。



 日高さんは廊下で蹲っていた。背中を丸め、膝を抱えている。顔は膝と膝の間に埋めていて見えない。


「…………」


 俺は無言で隣に腰を落とした。壁に背をつけて見上げる。


 こうしていると脳裏を過る記憶がある。小4のときにもこういうことがあった。


 友達と喧嘩して分校の納屋で蹲っている春ちゃんを見つけた。近寄ったはいいが、なんて声をかけたらいいかわからなくて隣に座ることしかできなかった。


 地縛霊のようにただそこにいるだけ。何もできない自分が、とにかく情けなかったのを覚えている。


 しかし、今はあえて何も話しかけない。そのときに春ちゃんから言われた言葉があるからだ。


かおるくんは何も言わないで傍にいてくれるから安心する』


 春ちゃんは、落ち込んでいるときは声をかけてほしくないのだと学んだ。


「今日、楽しかった」


 しばらくすると、日高さんが雫を垂らすようにぽつんと言葉を落とした。


 見上げていた視線を下ろして日高さんに向けると、彼女は埋めていた顔を少し上げて床の模様を一心に見つめている。


 楽しいと言うものの、その表情はとても楽しそうに見えなかった。


「駅で待ち合わせして音月ちゃんの家に向かう間も、馨くんの話をみんなで食い入るように聞いてる間も」


 食い入るように聞いていたのは日高さんと音月だけだったけど。


「それから、みんなでご飯を作るのも楽しかった。櫛木島くしきじまにいたときはよくキャンプとかピクニックとかしてたけど、中学ではあんま友達がいなかったし遠足もろくに参加できなかったから、みんなで何かをするって久しぶりだった」


 そうだったのか。東京と島の往復生活をしていたときは俺たちが春ちゃんの生活に合わせて遊んでいたが、中学生になるとそうもいかないもんな。


 ましてや東京の中学校で心細さもあっただろう。仕事と学業を両立させないといけない胸中は安易に想像できないが、かなりの苦労があっただろうことはわかる。


 日高さんは頬を膝につけるようにしてこっちを向いた。わずかだが表情にいつもの穏やかさが戻っている。


「本当はね、ご飯も一緒に食べたかった。声が届かないように彗星くんが2階の部屋に案内してくれたけど、静かな部屋で1人で食べるのは寂しかった」

「俺も一緒に食べればよかったな」


 日高さんは首を振った。


「ううん、馨くんがわたしに合わせる必要はないよ。わたしがマスクを取って素顔を晒せばいいの。本当のことを話せばいいだけなんだよ」

「でも、嫌なんだよね?」


 俺の問いかけに対し、彼女はうんとは答えなかった。


「目立って、また誰かの根も葉もない噂に利用されるのはこりごり……その気持ちは今もある。けど、今日はマスクをしているのが苦しかった。わたしも一緒にご飯を食べて、一緒にお風呂に入りたかった。みんなと同じように過ごしたかった」


 まくし立てるように想いを吐き出した日高さんはしかし、再び膝の間に顔を埋めてしまった。


「でも、ダメなんだ」


 急に弱くなった声に、心臓をぐっと握りつぶされるような感じがした。


「ダメって?」

「わたし、デビュー組を見られないの」


 デビュー組とは、君ヒロからデビューした「ここが花より」を指しているのだろう。つまり、オーディションで選ばれた人間。


 その言い方からして、彼女の中では「ここが花より」が隔絶された存在にあるのだとわかる。


「こんなことを言うとださいかもしれないけど、デビュー組の活躍を見たくない。もしかしたらわたしもあそこにいたかもしれないって思うと、悔しくて黒い感情に押しつぶされそうになる」


 日高さんは依然として俯いている。


「最後まで本当の自分を見てもらって、それでもデビューできなかったらこんなことは思わなかったのかな。納得できる理由で落ちていたら、潔く諦められたのかな。でもそうじゃないから、素直に応援できない。活躍を耳にするたびに目を背けて、いっそ失敗してくれたらって嫌みなことを思っちゃう……そんな自分も嫌だ。みんなが好きだって言ってくれる小暮那菜が、実際はこんな人物だなんて知られたくない」


 震える声で絞り出すと、彼女は押し黙ってしまった。


 俺は小暮那菜を知らない。先生とすいねるが作ったPR動画は見たが、たった十数秒の動画だけでは何も知らないのと同じだ。


 だから、俺にとって日高さんは日高春奈でしかない。

 しかし、日高さんには日高春奈と小暮那菜の2つの顔がある。


 小暮那菜として活動していた期間はたった2、3年だけど、彼女にとってはもう1つの顔であり、切っても切れない人生そのものだ。それを捨てて日高春奈として生きていく、と簡単に割り切れるものではないのだろう。


 デビューできなかった悔しさは小暮那菜の人生だ。イメージを崩したくないと思うのも小暮那菜として。とても俺には立ち入れない。


 もどかしいけど、相手にしているのはまったく知らない人物なのだ。

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