第11話 かつての天真爛漫な姿
畳に叩き落とされた俺は、しばし動けなかった。
寝転びながら天井を見上げる。何が起きたかはわかるけど、あまりに不意のできごとで理解が追いつかない。呆然と天井のライトだけが視界に映る。
すると、ライトを遮るように日高さんの顔がひょこっと出てきた。
「大丈夫?」
眉1つ動かさずに訊いてくる。俺は、はっとして上半身を叩き起こした。
「え? 日高さん?」
なぜここに?
彼女は俺から
そして、とても現在の姿からは想像もできないような甘い声を出したのだ。
「先輩。素人相手に一本背負いなんてやっていいんですか?」
それは、俺の知る春ちゃんの声とも少し違っていた。
「なに?」
「彼が怪我してたらどうするんですか? 受け身を取ったからよかったものの、危険性は先輩のほうがご存じですよね。謹慎……あるいは、柔道部全体の責任になりかねなかったかも」
彼女の頭に赤い角が見えた。黒い翼と尻尾が見えた。目をこすって気のせいだとわかったけど、一瞬、男を甘い声で惑わす小悪魔のように見えた。
林藤先輩を見ると、顔が真っ青になっている。何も考えずに俺を投げたのか。
「生徒会も見てたし、このことが柔道部の顧問に知れたら──」
日高さんの視線に誘導されて、林藤先輩もこちらを心配そうに覗いている生徒会諸君を見た。唇をきつく結び、やってしまったと言わんばかりに表情を苦くする。
彼は柔道部を盛り上げようとしている。俺を見るなり咄嗟に勧誘の言葉が出るくらいだからな。
そんな彼にとって柔道部の活動停止は生きた心地がしないだろう。しかも、自分のせいでなんて。
俺は彼に同情する。だって──。
「なあんて、冗談です」
「へ?」
「冗談です。生徒会はそこまで酷な人たちじゃないですよ」
彼女の手のひらで転がされる彼が哀れでならなかった。
俺はすぐに本気じゃないとわかったが、彼女を知らない彼には、マスクで表情が隠れているのが余計に奇妙に感じたことだろう。
まあしかし、日高さんは何も間違ったことは言ってないんだけど。
「今回も、本気で悪いと思って謝りに来てます。協力してもらいたくて、本気でお願いに来ました。インタビュー映像を不注意から消してしまったことは、本当に申し訳ありませんでした」
彼女はきれいなお辞儀を見せた。
「もう一度、インタビューに答えていただけないでしょうか? 次は受験生としてではなく、柔道部の部長として」
「柔道部の部長として?」
「はい」
「……それなら、まあ」
「ほんとですか? ありがとうございます」
あっさり林藤先輩から受諾を引き出した日高さん。つい拍手を送りそうになった。
入り口で事の成りゆきを見守っている生徒会に日高さんが手招きすると、彼らは心配そうに歩み寄ってきた。
「しょうがないからインタビュー受けてやる」と林藤先輩が応えたことで、固かった彼らの表情に笑顔が戻った。
わいわいやいやい子どものようにはしゃぐ姿を、俺は他人事のように見つめながら呟いた。
「すごいね」
「慣れてるからね」
彼女はただひと言、そう答えるだけだった。
芸能界で揉まれて培ったのだろう経験値は、俺の計り知れるところではない。
『慣れてる』の裏側には思い出したくもない壮絶な教えがあるのか、はたまた自然と身についていった程度のニュアンスしか含まれていないのか。彼女の表情だけでは窺い知れなかった。
ただ、ふと思った。
彼女は慣れるしかなかったのではないだろうか、と。
君ヒロではトークスキルも評価の対象だったらしい。14やそこらの年齢で大人と同じようなスキルを求められて、生きていくために大人になるしかなかった。そうして今の日高春奈が作られたのなら──。
俺と同じように生徒会を他人事のように眺めている彼女を見て、寂しさを覚えた。
林藤先輩のインタビューは日を改めて撮影することになった。
3日後、再び格技場を訪れ、日高さんが提案したとおり柔道部の部長としていくつかの質問に答えてもらった。
1回目のときよりスムーズな受け答えだったとは生徒会長評。俺は撮影には参加しなかったが、後から確認した映像は、たしかに林藤先輩の生き生きした表情が伝わるものだった。
そうして1週間、動画は完成した。
「すごい! 八重桜くん、君すごいよ」
「パチパチ」
「どうなるかと思ったけど、想像以上の出来だ」
「桜ちゃんにこんな特技があったとは」
生徒会長、副会長、奥見先輩、
そういえば、自分が作った動画の感想を直接聞くのは初めてかもしれない。今までは、メールで受けたクライアントの感想を先生伝いに聞くだけだったから。
考えが甘いくせにこだわりが強くて面倒な部分もあったけど、喜ぶ姿を見たら引き受けてよかったなと思う。
「そうそう。日高さんもありがとね」
日高さんの手を取って、ぶんぶん振る生徒会長。
「自分の尻拭いをしていただきありがとうございました」
ギャグのような90度越えの礼をかます奥見先輩。
「日高さんにあんな度胸があるなんて知らなかったよ。クラスだと静かだし」
腰に手を当てて、慣れ慣れしく喋りかける秋人。
「さくティーが林藤と話しているとき、いってくると言って本当に行ったのはびっくりした」
いつの間にか俺に変なあだ名をつけている副会長。
生徒会のみんなに囲まれて、日高さんはあせあせしている。助けを乞うような視線がときどき俺のほうを向くが、放っておいた。
問題ない。戸惑ってはいるようだけど──。
「ねえ、生徒会に入らない? 八重桜くんも」
「その場合、役職はどうするんですか?」
「副会長を2人にして、会計の奥見をクビにする」
「ええ!? 勘弁してください。自分、生徒会のために簿記の勉強まで始めたんですよ」
「知らんわ。奥見はやらかしすぎなんだよ」
「そんなあ……」
笑っている。マスクの動きで口を開けて笑っているのがわかる。この場の雰囲気にふさわしい表情をして溶け込んでいるから、助ける必要はない。
島にいた頃は、目尻を下げて笑う彼女の顔を横から見ることが多かった。俺と彼女は対面で話す機会が、ほかの幼なじみに比べて極端に少なかったから。
なぜかと訊かれると、単に俺が憧れの春ちゃんと話すのを意識しすぎていただけなんだけど。
笑っている彼女を見るのは集団の中にいるとき。大抵、横や斜めからだった。だから、記憶に染みついている彼女の笑顔は横顔。
今、生徒会に囲まれて笑っている彼女の笑顔が、かつて俺が憧れた春ちゃんの笑顔と重なった。
どうしても思ってしまう。
マスクを取ってありのままの笑顔を見せてほしい、と。
笑顔の半分を見て欲張りになってしまったらしい。目立たないよう協力すると言ったけど、俺は、彼女を昔のような天真爛漫な姿に戻したい。
***
完成したPR動画はサイトに上げる前に、翌朝、掲示板のモニターで流された。
昇降口の近くにある掲示板だ。登校したらまず目に入る目立つ場所で繰り返し流れていて、足を止めて見入る生徒の群衆ができていた。
こんなにも多くの人の目に触れて少し恥ずかしくなったが、足を止めるほどの興味を引けたようなので成功と言っていいだろう。
「おはよう」
群衆の後方から眺めていると、たった今登校してきたらしい日高さんから声をかけられた。
「すごいね。みんな見入ってる」
「多くの人にインタビューしたし、知り合いが出ていて気になっただけかも」
「謙虚だなあ」
クスクスと笑い声を立てる日高さん。相変わらず彼女の口元には不織布のマスクがあって、笑い声がくぐもって聞こえる。あたりまえなのに少し残念に思った。
そんな彼女から目を逸らし、再びみんなの反応を窺おうとしたとき、ふと男女入り乱れる群衆の中をかき分けていく女子生徒が見えた。
その女子生徒は適当なところで立ち止まると、声を荒らげて叫んだ。
「この動画を作ったのは誰?」
それが嵐を告げる始まりだった。
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