第3話 マスクの下の素顔

 教室に戻ると、日高春奈は自席でバッグから弁当箱を出していた。スリムなシルエットの水筒も取り出し、誰とも言葉を交わすことなく教室を出ていく。


 俺は秋人に「用事があるから先に食べてて」とひと言を残し、彼女の後を追った。


 彼女を見失ったのは一瞬のこと。後をつけているのがバレないよう一定の距離を保ちながら階段を下り、1階にたどり着くと、もうそこに彼女の姿はなかった。


 もしや、バレて逃げられた?

 とりあえず、途中で折り曲がる廊下の先も見てみよう。


 廊下を曲がった先には昇降口がある。まさか外に出てないよな、と思いつつ靴箱を覗いてみる。ローファーがあることを確認。ということは、どこかの教室に入ったのか。


 階段からここまで来るのにいくつか部屋を通り過ぎた。和室、カウンセラールーム、職員用トイレ、用務室、応接室、校長室。廊下を曲がって保健室、事務室、昇降口だ。


 和室以外は廊下から中が覗けないようになっている。1つずつ開けて確認していくには、どれも難易度が高い部屋なんだよなあ。


 逃げ込みやすそうなのはカウンセラールームだけど。果たしてスクールカウンセラーの先生が休みの今日、カウンセラールームが開いているのか。


 何気なしにカウンセラールームのノブを下げてみた。なぜかノブは引っかかることなく最後まで下がり、簡単にドアが開いた。


 まさかの当たり?


 開いたなら開けるしかない。ドアには「入室の際はノックをしてください」のマグネット標識が貼ってあるが、この際、無視無視。勢いでドアを押した。


 中の人間は、ノックしてもらえるものだと安心に浸りきっていたのだろう。ガタガタと焦るように物を動かす音が聞こえた。


 仮にノックをしていたら、中の人間にマスクをする時間を与えていた。ノックせずにドアを開けたことで、中の人間の素顔を見るのに成功したのだ。


「やっぱりそうじゃん」


 無意識に呟いていた。中の人間は苦虫を噛み潰したような表情を見せる。


「なんでノックしないかな。着替えてたらどうするの」

「いやうん、それはごめん」


 彼女はマスクをつけ直すことはしなかった。素顔を見られて観念したらしい。


 やはり、マスクの下は美人だった。

 それも、飛びきりの。


 老いるくらいならこのままの姿でいてほしいと失礼なことを言ったジジイに教えてあげたい。日高春奈はもっと美人になっているよ、と──。


 俺は中に踏み込み、ドアを閉めた。


「ところで、なんでカウンセラールームが開いてるの?」

「昼休みの間だけ保健室の先生が開けてくれてるの」

「なるほど」


 ぼっち飯を見られるのが嫌な生徒のための逃げ込み部屋みたいなものか。


「向かいに座ってもいい?」

「ダメ」

「なんで?」

「話が終わったらすぐに出ていって」


 睨みつけてくる。顔は櫛木島くしきじまの春ちゃんなのに、口調のきつさや目つきの悪さは陰キャの日高春奈だ。二重人格かと疑ってしまうくらいに違和感がある。


 まあ、話をする時間を取ってくれるだけマシなのかもしれないけど。


 俺は入り口付近で立ち止まったまま話を進めることにした。


「俺のこと憶えてる?」

八重桜やえざくらかおる。そう簡単に忘れられる名前じゃない」


 憶えてもらえていて嬉しいけど、素直に喜べない。印象に残っているのは名前だけか。


「最初から気づいてた?」

「まあ。見た目もあんま変わってないし」

「そう」


 俺に気づいていて声をかけなかったのだから、自分は気づかれたくなかったということだろう。


 今度は日高春奈が質問してきた。


「いつ東京に来たの?」

「この春」

「どうしてこっちに?」

「じいちゃんが倒れて介護のために」

「そうなんだ……」


 ずっと睨みつけていた目つきが、不意に悲しみに沈んだ気がした。


「はる──」


 名残でつい春ちゃんと呼びそうになったのを、口を結んで呑み込む。


「日高さんは島を出た後どうしてたの?」


 聞きたいことは山ほどあるけれど。たとえば、どうして櫛木島の春ちゃんかと訊いたときに嘘をついたのかとか、どうして誰とも関わろうとしないのかとか。


 だけど、距離を詰めるには空白の期間を埋めるほうがいいと思い、その質問を繰り出した。


 春ちゃんが島を出た後のことを知りたければ、同郷の幼なじみに訊けばわかる。雑誌の掲載回数が減ったタイミングで話題にするのをやめたとはいえ、中には密かに彼女の活動を追い続けたやつもいただろうから。


 ただ、せっかく本人を前にしているのだから、本人に訊いたほうが早い。


 なぜか日高春奈は「え?」と驚きをあらわにした。大きなまなこがこれでもかってほど開かれている。


「知らないの?」

「知らないって何が?」

「わたしの芸能活動のこと。本当に知らないの? 何も?」

「ごめん。最初は雑誌とか買って追ってたんだけど、途中からいろいろ忙しくなって」

「でも、ネット環境はあったよね?」

「あったけど、櫛木島じゃあまり使わないし」


 日高春奈は「そう……」と呟くと、俯いてしまった。


 上京後の活動を知らないのはまずかっただろうか。同郷のくせになんで応援してくれないのかって。


 いやでも、彼女の反応から察するに、むしろ知らなくてよかった……?


 少しの沈黙を置いて、日高春奈が落としていた視線を上げた。


「わたしのことはネットで検索しないで。それと、もう話しかけてこないで」

「なんで?」

「なんでも。話はこれで終わり。出ていって」


 冷たく言い放つと、彼女はマスクをつけた。まるで、もうこれ以上は口を閉ざすと体現しているみたいだ。


 これはいくら質問を続けたところで聞いてくれそうにない。仕方ないので言われたとおり出ていくことにする。


「はあー……」


 カウンセラールームのドアを閉めて息を深く吐き出すと、張りつめた空気から少しだけ解放された。



 芸能人になって上京していった幼なじみ。3年ぶりに会えたのに、そこにかつての面影はなくなっていた。


 記憶の中の彼女は笑顔が似合う子だった。今の彼女は厳しい口調と目つきで人を拒絶する。


 それだけなら芸能界を知って変わってしまったのだろうと思えた。しかし、カウンセラールームのドアを閉めるときにちらっと見えた彼女は、俯いて体を震わせていた。


 まるで感情を抑えているみたいに。


 一体、どれが彼女の本当の顔なんだ。

 一体、彼女に何があったというのだ。

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