第51話
メリーサが立ち去ってから、どれくらい経ったのだろう。
窓から空を見上げても、今夜は月も星もなく、時間の経過を推測することはできなかった。
きっと彼女のことだから、自らの計画を成功させるべく、大袈裟に動くだろうと、アデラは予想していた。クリスのもとを訪れて、彼がいないと騒ぎ立てることくらいはするだろう。
それがローレンの耳に入れば、きっとこの建物を特定することは簡単だ。
彼の側近がメリーサの元に密偵を忍ばせていたので、それよりも早く助けが来る可能性もある。
(もしかしたら、地方への視察も……)
敵方の動きを探るために、わざと帝城を留守にしたのかもしれない。
だとしたら、頻繁に彼のもとを訪れていたテレンスも、すべて知っていたのだろうか。
それなら教えてほしかったと思うが、イントリア王国でのことならまだしも、ティガ帝国の皇族が関わることだ。
たとえ婚約者が相手でも、迂闊に話すわけにはいかなかったのだろう。
アデラは窓の外に向けていた視線を、目の前に立つクリスに戻した。
彼は何をしようとして、こんな騒動を引き起こしたのか。
それを知らなくてはならない。
「もしこの一連の騒動が、ローレン皇太子殿下の采配が原因だとしたら、大変なことになりますね」
そう言って、クリスの反応を確かめる。
「そうだね。もしかしたら、皇太子交代という話も出るかもしれないね」
彼は、憂い顔でそう呟く。
嘆いているように見えるが、きっと見せかけだ。
「けれどティガ帝国の皇族は、数が少ないと聞いております。クリス殿下は、皇太子になることをお望みですか?」
きっとそうだろうと、アデラは思っていた。
ローレンに変わって皇太子になりたいからこそ、こんなことをしたのだと。
けれど彼は、首を横に振る。
「そんなことは、望まないよ。もし皇太子になったとしても、何をしてもローレンと比べられるに決まっている」
予想外の言葉だった。
でも自嘲気味に告げられたその言葉に、彼に感じる闇の原因が表れている気がした。
ローレンは賢明で人望もあり、さらに容姿端麗だ。
高貴な身分であるにも関わらず、人当たりも良く、誰かと会話をすることを好む。
だから彼の周囲にはいつも人が集まっている。アデラは会ったことはないが、皇太子妃にふさわしい、美しい婚約者もいるという。
そんなローレンと、従兄弟であるクリスはずっと比べられてきたのだろう。
たしかにアデラもクリスと初めて対面したとき、ティガ帝国の皇族らしくない人だと思った。
気が弱そうで、婚約者の行動を制御することもできず、簡単に頭を下げて謝罪する。
容姿は少し似ているが、ローレンとクリスは正反対の人間だと。
年も同じくらいの、従兄弟同士。
ずっとクリスはローレンと比べられて、負の感情を何年も積み重ねてきたのか。
「では、クリス殿下は何をお望みですか?」
「この国を、出たい」
どこかぼんやりとした表情のクリスにそう尋ねると、彼はぽつりとこう言った。
「ローレンと比べて、劣化版だと嘲笑う人も。利用しやすそうだと近付く者も。何をしても馬鹿にしてくる婚約者も。ローレンには直接言えないくせに、他国の人間に販売許可を与えるなんて、と私に文句を言う人もいない場所で、静かに暮らしたい……」
そう言うと、急に動き出した。
「……っ」
そのまま窓辺にいたアデラに詰め寄り、その両腕を掴む。
突然のことに、避ける暇もなかった。
「君と婚約すれば、それが叶う。三度目の婚約者を事故で失い、罠に嵌められたとはいえ、男性と一晩同じ部屋で過ごしてしまった君に、新しい縁談などもう望めないだろう?」
アデラの腕を掴んだクリスの手には、恐ろしいほどの力が込められていた。
「痛……」
何とか逃れようとするけれど、ますます強く握りしめられて、悲鳴を押し殺す。
クリスは正気ではない。落ち着かせなければと、痛みに耐えながら声を振り絞る。
「ですが、ティガ帝国の皇族が他国に婿入りするなんて、無理です。皇太子の座も不在になってしまいます」
「心配はいらないよ。今回の事件の犯人は、メリーサだ。たしかに経歴には傷が付いたかもしれないけれど、ローレンの地位はきっと揺るがない」
そう言いながらクリスは、楽しげに笑う。
皇太子の座から引きずり下ろすのではなく、その傷を付けるのが目的だったとでも言うように。
「婚約者を止められなかった私も、きっと罰を受ける。スリーダ王国の元王太子のように、皇族の資格を失って追放されるのが、妥当かな」
そうして、この事件で婚約者を失ったアデラと、婚約しようというのか。
たしかに罠に嵌められたとはいえ、一晩同じ部屋で過ごしてしまったのなら、そうするのが一番良いと考えるかもしれない。
「私は、クリス殿下と婚約しません」
けれどアデラは、きっぱりとそう告げた。
まさか断られると思っていなかったのか、クリスが驚いたようにアデラを見る。
「婚約、しない?」
「はい。もしテレンスに何かあったとしても、他の誰かと婚約するつもりはありません」
テレンスほど、アデラの意志を尊重してくれる人はいない。彼としあわせな未来を夢見てしまった後では、どんな人でも彼の代わりにはなれない。
「それに……」
アデラは言葉を続けた。
窓の外が騒がしかった。
複数の人の気配がする。
きっとローレンとテレンスが、ここを突き止めたのだろう。
「テレンスは無事だと信じています。そして、私を迎えに来てくれる。だから」
扉をこじ開けろ、という怒鳴り声がした。
助けが来たのだと確信する。
クリスも、はっとして扉の外に視線を向ける。
「どうしてここが」
時間的にも、メリーサの手配した者ではないと察したのだろう。
「ローレン殿下は、最初からメリーサ様の背後に誰かがいると気付いていらっしゃいました。それが誰なのか、確信を得たのでしょう。私も、これまでのお話でわかりました」
そう告げると、彼は悲しげな顔をして笑い出す。
「そうか。やはり私のような人間は、何をしても上手くいかないのか」
「クリス殿下……」
彼のしたことは、許されないことだ。けれど、その苦しみは本物で。
アデラはどう声を掛けたらいいのか、迷う。
その瞬間、大きな音がして扉が開かれた。
複数の人間が部屋に飛び込んでくる。その中心には、悲痛な顔をしたローレンがいた。
彼が来てくれた。
そして、テレンスは無事だろうか。
そのことに気を取られ、咄嗟に彼の姿を探したアデラは、クリスから離れる瞬間を逃してしまった。
ローレンの登場に驚いていたクリスは、緩めていた腕に再び力を込めて、アデラを拘束する。
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