5

 七月最後の日の未明、目が覚めた。時計を見ると、午前三時半だ。

 揺れは長く、暗い中でぶら下がる電灯がぐらぐらと揺れているのが見えた。落ちる物のない部屋であることが幸いだった。

 随分と大きな揺れだったが、これが余震だったら更に大きな本震がくる。

「陽向、大丈夫か?」

 廊下から凪の声が聞こえる。怖気つつ部屋を出ると、ほっとした表情の凪がいた。共に居間に入ると、不安げな顔の律が座卓についている。

「地震、大きかったな」

 陽向の台詞に頷き、「目え覚めちゃった」と彼女は目元を拭って伸びをした。

 その後は温かな茶を入れて飲み、少しだけ話をして、再び各々の部屋に戻った。しかし律のように陽向もすっかり目が覚めてしまい、少しまどろんだだけで夜は明けた。幸い、二度目の揺れは感じなかった。

 小学生の頃、比較的大きな地震を体験したことがある。あれと同じなら、震度五ぐらいだなと予想したが、スマートフォンが使えないのなら状況を調べる手立てがない。

 目を擦りながら朝食を摂っていると、島民が家を訪れた。その後も続々と集まってくる。

 地震自体は珍しいことではないらしく、怪我人や家屋の倒壊等もないという。しかし、地震の後は全員がこの家に集合し、情報を交換する決まりとなっていた。なるほど、この広い家は集合場所としてぴったりだ。

 被害がないならよかった。陽向はそう思ったが、彼らはそれぞれ神妙な面持ちをしている。陽向が顔を合わせる度にガハハと大きな声で笑っていた白樫も、今日は何か考え込んでいる風だ。異様に空気が重たく、不安を覚えてしまう。

「陽向ちゃんがビビっちゃうじゃん」

 律がそう言ってからかい、ようやく島民の顔に笑顔が浮かんだ。だが、やはりこの時も、陽向は壬春の笑顔を見ることはなかった。不機嫌そうに自分を睨む目線に舌ぐらい出してやりたかったが、あまりに子どもじみているのでやめた。

 午前の内に解散となり、島民たちがそれぞれの家や仕事場に帰っていく。

「陽向」

 そんな中、店に出ようとする凪に呼びかけられた。

「ちょっと頼まれごとをしてくれないか」

「なに」

「大したことじゃないんだが、見回りに行ってほしいんだ」

 暝島の中心は、大きな山となっている。陽向はまだ周囲を散策したことしかないが、山の中にも小屋が点在しているらしい。それらが崩れていないか様子を見てきてほしいと言う。

 もちろん、二つ返事で了承した。雑用をこなすために島に来たのだから、これぐらいはお安いものだ。

「無理に中に入らなくてもいいからな。もし崩れたりすれば大事だ」

 そうして、大まかな地図を書いてくれる。方角と、大体の距離と、小屋の場所を三か所。

「行けそうか」

 普段あらゆる面倒をみてもらっているのだ。少しぐらい役立たなければばちが当たる。

「行ってくる」

 凪が礼を言い、陽向は歩き出した。坂道を上がって振り向くと、彼はまだじっとこちらを見ていた。その唇が小さく動いたが、なんと言ったのかはもう聞き取れなかった。



 頭上には鬱蒼と木々が茂り、足元には辛うじて獣道があるだけだ。暝島は一時間も歩けば外周を一周できる大きさだが、中心は大きく膨れている。ぽっこりと山が飛び出しているのだ。勾配は次第に大きくなり、山道を一心に辿る息が弾む。汗を拭い、地図を見て、ようやく一軒の小屋に辿り着いた。

 既に朽ちて傾き、自然に帰りかけた小屋だった。よく地震で崩れなかったなと感心する一方で、崩れてしまっても問題ないような気もする。そばに小川が流れていたので、腰に下げたタオルを濡らし、首元や手足に当てた。ひんやりとして気持ちが良い。少しの間休憩し、折り畳んだ地図をポケットから取り出した。更に奥まった場所に、次の小屋はあるようだった。

 見回しても、既に海は木々の幹に阻まれて見ることができない。見上げても、空は枝葉に遮られている。隙間を縫って降ってくる木漏れ日が、風と共にゆらゆら揺れる。

 心細さを感じるが、やはり小さな島には違いない。仮に道がわからなくなっても、戻れないことはないだろう。そう自分を奮い立たせ、ようやくそれらしいものを見つけた。

 残っているのは、崩れた屋根と幾本かの柱だけだった。近寄ると苔むした柱の中からリスが飛び出し、思わず尻もちをつきそうになる。これはもうずっと前から倒れていたのではないか。少なからず木の葉を被っているのがその証だ。小屋が既に倒壊していたことを、凪は知らなかったのだろうか。

 ここでも少しだけ休憩し、陽向は最後の一軒を目指すことにした。

 地図上で、それは更に山の中心部にあった。島の真ん中と言ってもいい。平坦な道ならすぐだろうが、斜面を登り木々を避けて行かねばならず、歩みは遅々として進まない。耳を澄まし、既に蝉の音も聞こえなくなっていることに気が付いた。薄暗い木立の中はしんと静まり返り、異様な静寂に包まれている。意図的に音を排除したのではなく、自然に音の消えた静けさ。気味の悪さに背筋が寒くなり、陽向は無理矢理足を早めた。早く確認して、さっさと下に戻りたい。その一心で、ひたすらに山道を登った。

 低い音が聞こえることに気が付く。聞いたことのない奇妙な音だ。ごおおお。低く唸るよう。獣かと思い心臓が跳ねたが、その音は四方から自分を包み込んでいた。前を後ろを、右を左を見渡すが、音源がわからない。足元が小さく振動している。下だ。足の下から、山の中からこの音はしている。山が鳴っている。鳴き声のように、山が轟音で満たされている。

 逃げなきゃ。その思いに包まれた。疲れて重たい足を必死に動かして走る。既に振動はずっと大きくなり、全身で揺れを感じていた。地震だ。これは地鳴りというやつだ。

 細かな枝葉が周囲に落ちる。不安と恐怖に胸が満たされる。どうすればいい。うずくまってやり過ごすべきか。

 だが、人っ子一人いない薄暗い山の中にいることを、身体は本能で拒んでいた。誰かに会いたい。知っている誰かの居る場所に行きたい。じっとしてなんていられない。

 無我夢中の心の中が何かに覆われるのを感じた。足元からぞくぞくと寒気が頭に上ってくるような感触。


 寂しい。悲しい。苦しい。憎らしい――。


 切ない思いに胸がいっぱいになる。それは地震に対する恐怖とは一線を画したもので、瞬く間に陽向はその想いに囚われた。寂しい悲しい。そうした地を這うような、海底に取り残されるような孤独が、頭のてっぺんからつま先まで全身に満ちる。寂しさに溺れてしまいそう。

 息を切らしながら太い枝を掴み、ごうごうと揺れる斜面を滑るように下りながら、振り向いた。

 猛然と黒の塊が飛び込んでくる。あっという間に黒一色に塗り潰される視界を、白い光が包み込むのが見えた。

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