5

 制服を着替える気にもなれず、畳に直に寝転んで本を眺めていたが、三十分ほどでお呼びがかかった。それまでも耳を澄ませていたが、特に気になる話題は聞こえてこなかった。全ての言葉を耳にしたわけではないが、少なくとも母親が驚くような声や物音はしなかった。いつも通りだ。

 這うような気分で部屋を出て、キッチンに戻る。母が、シンクに下げた食器を水の張ったたらいにつけている。何も口を挟んでくれないから、陽向は渋々和室に入る。テレビでは興味のない野球中継が流れていて、葛西はこちらに気付くと胡坐をかいたまま手招きした。座卓につけということらしい。

 三十分前からずっと嫌な予感がしていた。大体この男が持ってくる話、それも改まった話など、いいものであった試しがない。気分が悪い。黙って、向かいに腰を下ろした。

「最近、学校はどうだ」

 呼びつけたくせに、葛西の意識は半分テレビに向いている。

「……まあまあ」

「勉強はしておけよ。将来いい仕事に就けないぞ」

 余計なお世話だという言葉を飲み込む。わかってると、辛うじて言葉にする。

「学校以外はどんな感じだ」

 質問の意図が図れず、陽向はすぐに答えられなかった。学生で部活もしていない自分には、学校生活が人生の大半だ。

 疑問を投げかける前に、葛西は続けた。

「そういえば、陽向には彼女がいるんだったよな」

 その話題は、自ら逃れようとしていた。あの事件から、葛西が家を訪れる理由といえば一つしかない。僅かながらの可能性は頭の隅に鎮座していた。自分が都合よく無視しようとしていただけで。

 陽向は黙ったまま答えなかった。答える義理などないというささやかな抵抗のつもりだったが、そんなものに気付くこともなく、葛西は彼の態度を肯定だと受け取った。

「月ノ原の同い年の子だよな。望月千宙という名前で間違いないか」

 心臓の鼓動が速くなる。

「なんで、知ってるの」

「そりゃあ、名前ぐらい知ってるよ。おまえは一応、俺の息子だからな」

 かっとなる頭を必死に宥める。こんな時だけ息子呼ばわりしやがって。こぶしを正座の膝で固める様子を、洗い物をしながら母が心配そうに覗っているのが葛西の肩越しに見えた。

「付き合ってどれくらいだ。同じ中学だったのか」

「中学の時から、一年くらい……」

「そうか、一年か。それならまだ傷は浅い。若い時の恋愛経験は、もっと積んでいった方がいいぞ」

 何を言われるか、容易に想像できた。

「その子とは、別れた方がいい」

 意識の割合を野球三割、陽向七割に変えて葛西は言った。

「中学が同じだった偶然で付き合っているだけだろ。そろそろ別の女の子にいった方がおまえのためだ。な?」

 呼吸を浅くしながら、陽向は何も言えず首を横に振る。それは嫌だ。絶対に嫌だ。

 頷かない陽向の様子を見て、仕方なさそうにリモコンでテレビの電源を落とし、宥めるように言う。

「一年付き合えば情も移っているのかもしれないが、それなら尚更次に行った方がいい。ずるずる付き合うよりも、色んな相手を知った方が将来のためだぞ」

 察しろと、その目が語っている。

「女の子は星の数ほどいる。貴重な若い時期に、一人だけに時間を割くのはもったいない。おまえのためを思って言ってるんだ」

「……それは、俺のためなんかじゃない」

 陽向が滅多に口にしない反論に、葛西は驚いた表情を見せた。その向こうで、シンクを水が流れる音も止む。

「あいつの……葛西祐司のためだ」

 少しの間をおいて、葛西将吾はため息をついた。聞き分けの悪い子どもにうんざりしている吐息だった。

「それを言うとおまえが嫌な思いをすると思って、名前を出さなかったんだぞ。人の気持ちがわからないやつだな」

「俺は、千宙とは別れない」

 葛西はシャツの胸ポケットから煙草の箱とライターを取り出した。煙草の一本を指に挟み、口にくわえたその先端へライターで火を点ける。家には、この男しか使わない灰皿が一つ常備されていて、それは今、座卓の隅に置かれていた。

「おまえのために、俺は色々としてやってるだろ」

 その灰皿に、とんとんと煙草の灰を落とす。

「一生女を作るなと言ってるわけじゃない。その子とだけ別れればいい話なんだ」

「俺が息子なら、応援するべきなんじゃないの」

「陽向!」

 反抗的な態度を見かね、母親がキッチンから名前を呼ぶ。だが陽向はそちらを見ようともせず、代わりに振り向いた葛西が手を振り、まあまあという仕草をした。

「息子だから、学費も出してやってるんだろ」

「そんなのバイトすればいいだけだし、奨学金だって申し込む」

「みっともない真似しなくてすむようにしてやってるんだよ。本当にわからないやつだな」

「今の方が、よっぽどみっともない」

 葛西の表情が僅かに歪んだ。歯牙にもかける必要のない陽向を思い通りに動かせないのは、彼のプライドが許さなかった。

「おまえな、陽向。ここまで大きくなれたのは誰のおかげかわかってるのか」

「わかってる。けど、俺はその分我慢してきた。学校だって諦めた。部活もバイトも、言う通りにしてきた」

 陽向の成績は、千宙と同じ月ノ原高校を目指せるレベルに達していた。しかし、彼の進学先など微塵も気にかけていなかった葛西が、直前になって辞めろと言ったのだ。理由は、そこが葛西祐司の通う高校だったからだ。不運な偶然から、陽向はワンランク下の葵川中央高校を受けることになってしまった。

 理系の特別コースのある月ノ原を諦めたのなら、せめて何か部活に入りたかった。アルバイトをして自分で金を稼いでみたかった。だが、それも全て葛西に却下された。理由は、目立ってしまうからだ。

 陽向の母である雪が年若い頃、葛西は既婚者であることを隠したまま近づいた。そして運悪く雪は彼の子を身籠ってしまい、堕ろすことなく産んだ。それが陽向だった。

 葛西が雪と陽向から行方をくらまさなかったのは、客観的には誠実な行為ともとれる。だがそれは実際のところ、誠実さではなく、利己的な感情に起因していた。もし捨てられた雪が逆上し、妻子に自分との関係を暴露したら。破滅とまではいかずとも、人生の歯車を大きく狂わされるに違いない。葛西はそう考え、二人に僅かながら金を与えつつ、目の届く場所に置くことにした。陽向には妻との間の子である祐司の情報を伝え、万が一にも彼と接触することがないよう言い聞かせた。中学三年時、陽向は千宙の志望校が月ノ原だと聞いて戸惑ったが、入ってしまえばこっちのものだと打算的に考えるようになった。しかし最後の段階で、母との生活、それ以上に母が拠り所を失うことに怯えてしまったのだ。

 部活やバイトなどとんでもない。これまで通り目立たないよう息を殺し、俺に感謝して精々生きろ。葛西将吾の思惑を、陽向は充分に理解していた。

「俺は選んでこうなったわけじゃない。ずっとずっと言うことを聞いてきたんだ。千宙まで譲りたくない」

 陽向は懸命に絞り出した。千宙に付きまとう相手が葛西祐司でなければ、線路に突き落として殺そうとまで考えなかった。彼女と同じ高校に進学し、高校生活を楽しむ未来を捨てたのだ。そのうえ大事な彼女まで奪われるなんて、耐えられない。

「嫌だ嫌だって、子どもじゃないんだぞ」

「子どもなのはどっちだよ! 葛西祐司は父親に泣きついたんだろ。気になる女子が彼氏持ちだから落とせないって、名前まで言いつけて。子どもなのはそっちじゃないか!」

 葛西父子の実際のやり取りは知らないが、息子が父親に愚痴ったに違いない。そして千宙から聞いたであろう逢坂陽向の名前を聞き、厄介な恋敵の正体を知った葛西将吾がこうしてやって来たのだ。大事な方の息子のお膳立てをするために。

 図星だったのか、葛西の顔が赤くなる。彼は大事な方の息子に対し、過干渉なきらいがあった。煙草を灰皿に押し付ける。

「何偉そうなことを言ってるんだ。今すぐにでも学校を辞めさせたっていいんたぞ」

「そしたらバイトでもして自力で通う。ふざけんなよ、俺のため俺のためだとか言いやがって、全部自分のためなくせに!」

 陽向は膝立ちになり、座卓に身を乗り出していた。

「いつまでも俺が言いなりになってると思うな!」

「今までいくらの金を落としてきたと思ってるんだ、恩知らずが」

「代わりに俺はたくさん捨ててきた。それでも返してほしけりゃ、金なんて死ぬ気で返してやるよ! これでみじめな思いせずに済むんなら、安いもん……」

 パシンと音がしたと同時に、左頬が熱を持った。不意の力によろけ、畳に手をついた。頬をぶたれたのだと気づき、その相手を見上げる。

「謝りなさい!」

 母が息を切らして立っていた。

「謝りなさい、陽向!」

 視線を下ろした先にある葛西の表情には、憐憫が貼りついていた。きゃんきゃん吠えるだけの小型犬の弱々しさを憐れんでいるような視線だった。そのくせ、唇の端には満足げな笑いも滲んでいた。

 呆然としつつ、なんとか事態を飲み込むと、視界が歪んだ。母にはこれまで幾度と叱られたが、手を上げられたのは初めてだった。この無茶苦茶な提案に対し、母が葛西ではなく自分を叩いたことが、悲しくて仕方なかった。

 俯くと、溢れる涙がぽたぽたと畳に落ちる。陽向は嗚咽を噛み締めた。


 その後、葛西が帰ってからも、散々母に説得された。悔しいのは分かってる、だけどよく考えてほしい。陽向が悪いのではなく、これはただ運が悪かっただけ、巡り合わせが悪かったのだと。

 陽向にとって母の雪は、人質だった。雪の両親は若くして亡くなり、頼りは葛西将吾しかいない。その葛西に歯向かうということは、母を苦しめるということでもある。葛西など父親として考えていない陽向は、唯一の肉親として母の雪を愛していた。だからこれまで、雪のためだと思うことで、全てを耐えてこられたのだ。

 それでも、千宙は諦められなかった。学校は他にもたくさんある、だが千宙の代わりはどこにもいない。息子に彼女ができたことを嘗て母は喜んでくれたから、少しはその気持ちを理解してくれているのだと思っていた。少なくとも、葛西将吾の不条理に対し、自分を叩くとは想像しなかった。

 陽向は翌日の七月十八日、葵川駅の正面口に向かった。

 十七時に再会した凪は、誘ったくせに驚いた表情を見せた。本当にいいのかと問いかけるのに、陽向は頷いた。もうこんな場所にいたくない。全部捨てて、消えてしまいたい。母は葛西の方が大事らしいし、千宙もあれから一度も連絡をくれない。自分は一生、葛西の言いなりとして、隠れて生きていくしかない。

「逃げたいんだ……」

 ぽつりと呟くと、不意に喉の奥がかっと熱くなった。こんな言葉を口に出したのは初めてで、涙が出そうになっているのに驚いた。しかし込み上げるものを飲み下し、泣くことを我慢する。

 凪は、わかったと言った。

「歓迎するよ」

 微笑む顔に、陽向はただ頷いた。

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