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 混乱が冷めると、怒りよりも寂しさを強く感じた。付き合って一年とはいえ、自分たちは互いを信じ合っていたはずだ。浮気がどうのという話は一度もしたことがなかったが、それは自分も、そして相手にもその可能性を感じていなかったからだ。片方がもう片方を裏切るという発想さえなかった。べたべたと甘えることさえないが、だからこそ強い信頼関係で結ばれていた。黙っていてもそばにいるだけで、安心できる相手だ。

 そう思っていたのに。信じていたのは、自分だけだったのだろうか。

 千宙の言う通り、浮気のつもりはなかったのかもしれない。しかし、自分にはバイトだから会えないと言いつつ、違う男子と並んで帰っているなんて、ひどすぎやしないか。自分という彼氏の存在は、葛西祐司に伝えておくべきではなかったのか。まるで、逢坂陽向の存在を隠したがっているみたいではないか。

 陰鬱とした気持ちで家に帰り、翌日も学校に向かった。千宙に連絡はしなかったし、向こうから何の音沙汰もない。まるで彼女とは思えない不実さに愕然とし、気持ちはひどく深く沈んだ。

 放課後になっても帰る気になれず、学校近くの公園や図書館で時間を潰した。それでも六時を過ぎる頃にはのろのろと帰路に着き、外観も鬱屈とした古い団地に帰り着いた頃には夜の七時を迎えていた。

 玄関ドアを開け、聞き慣れた夜のニュース番組が始まる音声で時刻を知る。同時に、三和土に革靴があることに気付き、更に重い塊が胃の中に沈んだ。玄関脇の自分の部屋に逃げ込もうとしたが、物音で母親に気付かれてしまった。

「陽向、おかえり、遅かったね」

 声を掛けられ舌打ちしそうになるのを堪え、仕方なくキッチンに足を踏み入れる。襖の開いた奥の和室には、座卓に食べかけの晩飯が並んでいた。白飯と味噌汁と焼き魚とコロッケ。向かい合って、二人分。

 そこで母と食事を摂っていた男がこちらを見た。スーツ姿の男は今年で四十三らしい。短い髪には白いものが混じっているが、がっしりとした逞しい体つきをしている。

「おかえり陽向、久しぶりだな」

 葛西かさい将吾しょうごは、そう言ってコップの麦茶を呷った。

 ただいまとは言わず、陽向はこんばんはと呻くように挨拶をした。葛西が来ていると知っていれば、一晩でも外に逃げていたのに。そんな苦々しい陽向の態度を気にも留めず、葛西の意識は部屋の隅のテレビに移動する。

「陽向もお腹空いたでしょ。コロッケ揚げたから」

 母のゆきが立ち上がり、キッチンのシンクに向かう。「いや……」と陽向はその背に声を掛けた。

「俺、別に腹減ってないから」

「そう? 何か食べたの」

 腹はとっくに空いていたが、コンビニのおにぎりを食べたと嘘を吐いた。何が悲しくて、この男と共に食卓を囲まねばならないのだ。夕飯は寝る前に食べると言い残し、そそくさと踵を返そうとする。

「そうだ、陽向」

 背にかかる男の声に振り向いた。

「あとで、ちょっと話したいことがあるんだ」

 母親も不意を突かれた表情で、葛西の方を見る。どうやら彼女もそんな話は聞いていないらしい。

「大したことじゃないんだが、飯を食いながらだと気が散るからな。呼んだら顔出してくれ」

 勝手なことを言うなと吐き捨てたい気持ちを我慢し、頷いて廊下に出た。勝手に家に上がり込んで、勝手に人の母親の飯を食って、勝手に呼びつけやがる。もやもやした憤りは、昔から感じているものだった。

 しかし陽向は、父親に逆らうわけにはいかないことも、充分に理解していた。

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