君の手なら
おくとりょう
ミドリの手
窓を開けると、まぶしい朝日。同時に流れ込む青い香りが、鼻をくすぐる。しょぼしょぼする視界に飛び込むのは鮮やかな赤。深い緑の葉の下、丸々と実ったそれはガラス玉みたいに艶々で、ついつい頬が緩んでしまう。
「おはよ。おっ、採れたてトマト?大好きー!」
爽やかに笑って、コーヒーを注ごうとする妻、ミドリ。「あっ」と珍しく慌てた声に振り向くと、カップが落ちそうになっていて、慌てて掴む。
「もう、また?無理しちゃ駄目だよ」
「ごめん」と哀しげな笑みを浮かべる彼女に僕はもう何も言えない。
容姿端麗、春風みたいに明るく社交的、仕事はいつも早くてとても正確。みんなが憧れる君だけど、ひとつ問題がある。それはひとつ、手首がたまに取れること。特に疲労やストレスが溜まったときにポロッととれる。一応、自分の意志でも取れるらしくて、初めて見たのは夜のバー。僕が驚くより先に、いつもクールなマスターが腰を抜かしたのが可笑しくて、二人で腹を抱えて笑ったことを覚えている。
「ちょっと最近寝れてないんだ。まだ今の仕事に慣れなくてさ」
コーヒーカップに口をつける彼女のファンデがいつもより、ほんの少し厚い気がした。
「まぁ、管理職になったんだから、しょうがないよね。お給料も増えてるんだし」
手首の残った左手でフォークをつかむと大ぶりに切ったトマトを刺した。おぼつかない様子で口に運ぶと一口かじって、力なく微笑んだ。
「情けない妻でごめんね」
もっと小さく切ればよかった。僕は心の中で反省した。
洗い物をしていると、トントンと肩を叩かれた。そのままふいっと振り向くと、妻の長い指が頬に刺さる。
「朝ごはん食べたら、すぐに生えてきちゃった」
嬉しそうに目を細める彼女。やっぱり僕は君の笑顔が好きだ。
「そういえば、取れた右手はどうしたの?」
「食べちゃった!」
「え」
びっくりして、お皿を落としそうになる僕。
「嘘、うそ。食べないよ!子どもじゃないんだから。いつも通り、勝手口のバケツに入れた」
いたずらっぽく笑って、「いってきます」と出ていく彼女。台所を片づけた僕は生ゴミを持って、勝手口に出る。コンポストにまとわりつくハエを払って、さっと捨てた。家に戻りかけたとき、バケツから漂う甘い香りに足を止める。
彼女の手を入れるための青いバケツ。もうずいぶん溜まっているはずだ。バケツの蓋をそっと開けると、甘い香りが辺りにあふれた。中には大福のように白い手が積み重なるように詰まっている。彼女から離れた彼女の肉。
僕はそのバケツを持ち上げて、生ゴミとは別のコンポストに注いだ。春にかなり使ったので、ちょうど中身が減っていた。来年にはまたきっと良い土になるだろう。そして、また美味しい野菜を育てるのだ。だって、彼女の手なのだから。
窓の外で可憐に咲く黄色い花を横目に、朝食のトマトを思い出し僕はついつい頬が緩んだ。
君の手なら おくとりょう @n8osoeuta
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