飢えた果樹園

名もなき村

名もなき村①

 「ご老人、」

 声に反応してゆっくりと顔を上げる。その目はどこか虚ろに見える。

 「旅をしている。雨風に追われてここにきた。ここはどこだ。なんという村だ。」

 「この村に名などありませぬ」

 しわがれた声が続ける。

 「この村にも、この村にあるものにも、その全てに名がありませぬ。」

 「なぜだ。名がなければ困ることも多かろう。」

 「我々の生活に名はいりませぬ。流れ着いたお方よ、好きに過ごしてもらって構いませぬ。ただ一つ、我らに名を尋ねるのはご遠慮いただきたい。我らは名を持つに値しませんので」

 そう言い残すと、しわがれた背中はゆっくりと遠ざかっていった。座っていた切り株には生気がなく、すでに枯れ切っている。

 老人が向かう先を見やる。乾いた土地が砂埃をあげる。打ち捨てられた農場からは枯れ草が飛んでいる。人がいなければ廃村だと思っても無理はないだろう。

 遊ぶ子供の声も、商いの喧しい声もここにはない。

 とんでもないところに来てしまったと今更ながら思っていたが、寒さが多少凌げればどこだって構わなかった。早々に立ち去ればいい。

 そもそも食べるものはあるのか、井戸は枯れてやしないか、不安の種は尽きなかったが、後を追うように村に足を踏み入れた。


 風に軋む家々からは、通り過ぎる度に卑しい視線と話し声が聞こえる。

 こちらを覗く目は奇異や恐怖、敵意や興味を訴えてくるが、こちらへの働きかけはなかった。隙をうかがっているのか。

 歩みを阻むものこそないが、粘ついた視線がまとわりつき妙に足取りが重くなる。

 大杖を強くつき、こびりつく邪気を払って足を進めると、遠くに童の姿が見えた。


 こちらが気づいたのを察したか、慌てて向けたその背中に問いを投げる。

 「待たれよ。ここはどうした。なぜこうも荒んでいるのだ。」

 声をかけられたことに驚いたか、足を止め再び向き直る。

 擦り切れた衣にぼさぼさの散切り頭、顔の汚れも目立つ男児だ。裾から覗かせる手足はろくな食べ物も与えられていないことを訴えているようだ。

 「なぜ関わるのです。旅のお方、ここは名無しの流れ着く掃き溜めにございます。どうかそのまま通り過ぎられますよう。我らを捨て置いてくださいませ。」

 声変わりもせぬ甲高い声は、泣きそうな声でそう吐き捨てると足早に村の奥へと消えていった。

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