第8話、動かない社会と彫刻

『待ってるよ。』


なんというか、強引なんだけど、どこか遠慮がちな、いつも通り変わらない呼び出しに苦笑する。


俺を呼び出したこいつとは学生時代にジャズ喫茶で知り合ったのをきっかけにずっとつるんでいる。こいつは、ともかくセンスがいい。その審美眼によるアドバイスで服装を変えたら今までより女にモテた。


俺は知らなかったが、出会った当時からその世界では有名人だったこいつは、その洒脱な雰囲気から、気にはなっていた。しかし、当時の俺は、俺とは別世界の奴だと思っていた。


だが、向こうも俺を気にしていたらしく、いつの日か、向こうから声をかけてきた。人懐っこい笑顔に釣られて話をして見れば非常にわかるやつで、一緒にいるのは刺激的だったし、楽しかった。


『今、電車。つまみ買ったから酒よろしく』


この世界はうるさい。さまざまな音が存在を主張するようにがなり立てる。


耳の悪い奴らは電車の音と簡単にいうが、線路を鉄が転がる音は音階を示すし、風切り音を主旋律とすれば、すれ違う電車がアクセントをつけにドアを鳴らすのがわからないらしい。


電車内はオーケストラを聞くコンサートホール。さまざま主旋律が絡み合い、アラベスクを編むように紡ぎ出される。


観客は各々楽器や足や声で、電車が奏でる音楽に参加してさらに複層にしていく。


一駅一曲の時間芸術。音楽は時間芸術というが、しかし、如何なる芸術とて時間という区切りから解き放たれることはありえるのか。


そんな音まみれな世界で、微かに聞こえてきた音に気がつく。隣の女性のイヤホンから漏れた音は「彼」の旋律か。


この前の録音は俺のテイクが採用されたが、彼が試奏した音楽はプロデューサーの耳に留まり、アイドルへの提供曲となり流行り始めている。


イライラが収まらない。車内を見渡せば、誰彼も下を向いて、イヤホンで世界に背を向けながら、携帯電話をただただ見つめる死んだのと変わらない奴らと「彼」の音楽。


薄寒い恐怖を感じる乾いた、画一的な絵面を彩るのは、電車が奏でる機械音と彼の旋律。


このバックミュージックは、サイバーパンクな、近未来的なビビットな明るさがあって、単なる見たままの光景が、どこか映画のプロモーションビデオのように映った。


呼吸が止まる。一度、目を瞑り、視線をガラス窓に移す。その窓に反射している俺は、確かに疲れていた。眉間に皺も寄っている。下を向いてみれば、すり減った靴が見える。


だが、俺の目はまだ死んでいない。もう一つの自分としっかり目を合わす。このまま未定義で終わってたまるか!


『あ、雪が降るって!気をつけて来てね。こっちはお酒とおでんとおにぎりがあるよ』


ん、ああ、確かに雪が降り始めた。ひらひらとアスファルトに舞い降りては溶けていく。寒いな。思わず、首が引っ込む。早く辿り着きたいと冷たい道を急ぐ。


この世界は美しい。人、自然、動物、空気、水、太陽、星、月。


大地の上には様々な混沌としたエネルギー。我々は与えられた時間でエネルギーを生み出し、消費し、この世界を彩る。


そう、この風景に「主役」はいない。俺ですら、時間を超えられない。しかし、100年、200年先に残るものを作り出すことはできる。人が生きている限り、社会が連続する限り、芸術は残る。


だから、俺は我々も含まれた自然というエネルギーを五線譜に落とす。我々だけの音楽も、我々を含まない音楽も、また自然の中にあると俺は思っている。


俺は芸術を生み出すのであって、俺自身は芸術ではない。俺という人間を知ることで、聞き手に余計な雑念が入り、音色が変わるなら、自分を背景のように未定義にしておきたい気持ちがせめぎ合う。

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