季節の変わり目

 花冷えの季節もそこそこに、だんだんと日差しも穏やかになってきた。

 庭に出て桃矢様のお勤めを眺めている中、彼方さんが怪訝な顔で私を見下ろす日が増えてきた。


「あの……奥様?」


 彼方さんの言葉に、内心ギクリとする。

 まだ彼に、桃矢様との交流のためにお茶会をしようという話はしていない。私は連日女中さんに習ってワッフルを焼き、できる限りいい時間に焼けるよう練習を重ねていたのだ。そのワッフルも桃矢様に持って帰ったら計画がばれてしまうからと、女中さんたちのおやつにしてもらっている。

 桃矢様には代わりに浅底鍋で焼ける桂皮を混ぜたビスケットを持って帰っているから不審に思われていないものの、彼方さんはそんなこと知らず、私の匂いをくんくんと鼻を動かして嗅ぐ。


「奥様、この匂いはもしや桂皮で?」

「た、体調が優れないときに胃薬を処方してもらっているから、その関係ですかね?」


 うすらとぼけるが、彼方さんは納得いってない顔をする。


「いえ、奥様は日頃から桃矢様の倍は食べるでしょうし、胃薬なんか必要なんですかね」

「桃矢様が小食ですから、健常な方でしたら大概は倍の食事になるかと思いますよ!」

「そりゃそうなんですがね。あー。これは俺は知らない振りしていたほうがいいやつで?」


 そう尋ねられて、私は困る。

 まさか兄嫁から兄弟仲を心配していると告げられても、本人だって困ってしまうだろう。考えあぐねた結果、「お願いします」と頭を下げた。


「まあ、わかりました。やあ、それにしても日差しが強くなってきましたね。もうしばらくしたらつつじも咲くでしょうよ」


 そう言われて、私ははっとした。


「つつじはどこで見られますか?」

「あちらですかねえ」


 そう言って彼方さんが指差した方角は、やや本邸に近い。本邸の窓からも眺められる場所に、茂みがあり、そこにはたしかに見覚えのある蕾が見えた。


「今度、つつじを見ながらお茶を飲みたいんですけど、いかがですか?」


 私の言葉に、彼方さんは困惑したように太い首を捻った。


「いかがですかって……桃矢様放置するおつもりで?」

「そんなことはしません。ただ、エゲレスでは、昼下がりにティータイムがあるそうです。せっかくの花の見頃ですから、桃矢様と彼方さんと一緒にお茶会をしたいというだけで」

「んんんんんん……念のためお伺いしますけれど、それは桃矢様もご存じで?」

「それはもう」


 大きく頷いたら、彼方さんは喉を詰まらせたような声を何度も何度も上げてから、ようやっとこちらを見た。


「……わかりました。まあ、つつじの咲いた頃に」

「ありがとうございます!」

「もうそろそろ桃矢様もお勤めが終わりますね」

「はいっ。彼方さん。お待ちしておりますから」


 私は一礼をしてから、急いで桃矢様の元に向かった。

 焼いてきたビスケットの包みを開くと、倒れかけた桃矢様を抱き留めて、ゆっくりと私の膝に寝かしつけた。春が深まるにつれ、桃矢様も元気になってきたというのに、倒れるのは相変わらずだ。

 私は「本日のお菓子はビスケットです」と差し出すと、桃矢様はゆっくりと食べはじめた。桂皮を入れたビスケットを桃矢様はお気に召したらしく、このところはずっと桂皮入りビスケットを持ってきている。


「あのう、前々から思っていましたけど、桃矢様」

「……どうかしましたか?」

「桃矢様、もしかしてもうひとりで離れまで歩いて帰れるようになってませんか?」

「さすがに休憩してからでないと無理ですよ……もっとも、気絶はしなくなりましたから、去年の今頃を思えば嘘みたいなんですけどね」


 桃矢様はそう内緒話でもするみたいに囁いた。これはどっちなんだろうな。桃矢様は嫉妬深いしやきもち焼きだとは伺ったものの、嘘ついて膝枕する謂われもないもんな。


「だといいんですけれど」

「はい。彼方とお話しましたか?」

「あ、はい。お茶会できるといいんですが」

「そうですねえ……」


 桃矢様はビスケットを一枚サクサクと食べ終えると、不意に私にも一枚差し出してきた。


「あのう?」

「いつも食べさせてもらってばかりですから、たまには。いろりさんも、はい。あぁん」


 そう言われて、私はおずおずと口を開くと、ビスケットを差し入れられる。それをサクサクと食べると、最終的に桃矢様の指先が私の口の中に入ってきた。その指の感触に、私は目を瞬かせた。

 前はもっと乾いて荒れていたはずの指先が、今はしっとりとしていて、爪の縦筋もささくれも綺麗に消えていた。おやつから少しずつ食べて、一緒に散歩する時間が増えた影響かもしれない。

 私を見上げながら、桃矢様はくすりと笑った。


「小動物みたいで愛らしかったです」

「……っ、桃矢様。普段私がいただいてもらっているじゃないですか」

「愛らしいですか?」


 ……元気になったせいなのか、いちいち桃矢様の知らない一面ばかりする。私は顔を火照らせながら、なんとか桃矢様を立たせた。


「もう帰りましょう。まだ日差しは出ていますけれど、風が出てきたら冷えますから」

「そうですね……」


 桃矢様は立ち上がったとき、空を見上げた。


「そろそろ季節の変わり目ですし」

「はい?」


 そのとき、私は桃矢様の空を見上げるときの表情が見えなかった。


****


 もうすぐつつじが咲く。そう思って庭を散策していたら、どんどん蕾が膨らんでいく。その頃にはお茶会ができる……そう思っていたのに。


「ああ、雨……」


 そろそろつつじが咲くという頃になった途端、雨が降りはじめた。

 これじゃお茶会ができない。桃矢様は空を見上げてわかっていた様子で、特に驚くこともない。


「季節の変わり目はどうしても空が荒れますからね……それじゃあ行かないと」

「行くって……」

「雨が降っているからと言って、休む訳にはいきませんから」


 そう言って桃矢様は、着流しの上に外套を羽織る。雨避けだ。

 私は慌てて傘を持って追いかける。


「こ、こんな雨の中でもですか!?」

「気の流れは天候の荒れているときのほうが淀みますから。天気が荒れていたら、農村では雨避けをしますし、洗濯物は中で干すでしょう? それと同じですよ」

「そうかもしれませんけど……でも桃矢様のお体が」


 せっかくこのところ体の調子がよかったというのに、ここで雨に当たったら不調がぶり返すかもしれない。

 私が慌ててついていこうとするものの、桃矢様は私に振り返って首を振った。


「いけません。いろりさんが濡れてしまいますから」

「今から桃矢様が濡れるんじゃないですか……」

「いつものことですから。庭にはもう彼方も出ているかと思いますから、大丈夫ですよ」

「でも……」

「なら、そうだ。離れで待っていてください。風呂を沸かして温かい飲み物を用意して」


 そう言われ、私は困る。

 毎年しているからと言っても……。私は観念して「どうかお体に気を付けて」と言って見送ると、桃矢様はにこりと笑った。


「善処します」


 その言い方は、きっと倒れるという意味だろう。

 私は慌てて風呂場の外に出ると、ポイポイと薪を入れて火を熾した。

 続いて台所に向かい、薪を入れる。いい加減離れにも瓦斯を導入して欲しいと本邸に頼むべきだろうか。

 お湯を沸かして迷うのは、なにを出すかだ。普通にお茶を出すんだったら、冷えた体ではすぐに冷めてしまうような気がする。できる限り体が温まるもの。

 床下を探して出てきたのは、飴湯だった。これなら。水飴に生姜の絞り汁を混ぜたこれは、お湯で割るとちょうどいいとろみになって全身が温まる。

 私はお湯を沸かして、はらはらしながら庭を気にしていたところで、離れの戸が開いた。桃矢様と同じく、雨避けの外套を着た彼方さんだった。


「すみません、なにか拭くものを」

「はい、手拭いならそちらにたくさん」

「ありがとうございます。はい、桃矢様、ちょっと脱がしますよ、いいですね」

「お風呂は沸かしてあります」

「ありがとうございます。ちょっと連れて行きますんで」


 冷え込んだ桃矢様は、彼方さんに担がれて浴場まで出て行った。

 私は慌てて湯飲みに飴湯の元を入れると、沸かしたお湯を注いで混ぜた。生姜のすっとする匂いが漂ってきたところで、浴衣姿の桃矢様が彼方さんに担がれて出てきた。


「あまりにも烏の行水じゃありませんでしたか?」

「桃矢様、あまり長いこと風呂に入れていたら、沈んでしまいますので」

「それは……たしかにすぐ入れるしかないですね。はい、桃矢様。飴湯です」

「……ありがとうございます」


 体は蒸気し、少しは湯で温まっていただろうに、雨に打たれて少し疲労が面に出てしまったのだろう。久し振りに疲れた顔をしていた。熱々の飴湯を、おそるおそる口にしはじめた。

 その隣で見ている彼方さんにも、飴湯を差し出す。


「彼方さんもお疲れ様です。よろしかったらどうぞ」

「おや奥様、自分もいいんですか?」

「ここまでずっと桃矢様の看病してくださったじゃないですか。私ひとりでは手も力も足りませんでした。ですから」

「いやあ……ありがとうございます」


 彼方さんは私の差し出した飴湯をちびちびと飲み始める。

 ふたりの様子を眺めながら、私はひとまず桃矢様のほうに近付いた。


「お加減は?」

「……久しぶりに雨に当たりましたからね。少々疲れました。布団で眠ってよろしいですか?」

「わかりました。夕餉はどうしますか?」

「……起きられたらいいんですが、もしそのまま寝てしまったら、いろりさんは自分のことは気にせずにいただいてください」

「わかりました。彼方さんはどうなさいますか?」

「え、俺?」


 熱々なのに、もう飴湯を飲み干してしまった彼方さんに、私は思わず噴き出したけれど、それはさておき。

 彼方さんは奉公人として、普段は本邸の奉公人室でいただいているとは聞いていた。なにをいただいているまでは、私も聞いていない。


「いやあ……さすがに俺が夫婦水入らずのところで食事をいただくのも……ちょっと」

「いいじゃありませんか。明日も雨でしたら、またしても桃矢様を連れ帰ってもらわなければいけませんし。私が抱えることができたらいいですが、さすがにそこまで力はありませんし」


 桃矢様も同年代の男性よりは軽いだろうけれど、私よりは充分重い。筋肉のない私では、桃矢様を抱えて離れまで連れ帰るのは無理がある。

 彼方さんは困った顔をしたあと、ようやっと観念したように声を上げた。


「いいですよ。ただ、できれば桃矢様が寝ている近くで食べさせてください。してもいない不貞を疑われたくはありません」

「私は桃矢様の妻ですから、そんなことしませんよ!?」

「世の中悪く解釈する人間はいくらでもいるって話ですよ」


 そう肩を竦ませられたため、私は「まあ……!」とだけ言った。

 本邸の台所に出かけると、私と彼方さんの分の食事と、桃矢様が久々に倒れた旨を伝えたら、女中さんたちは「あらぁ」という顔になった。


「彼方さん、ようやく折れたんですねえ……」

「はい?」


 意味がわからず尋ねると、女中さんのひとりが言う。


「昔は一緒に離れで暮らしていた関係で、坊ちゃまと一緒に食事することもありましたが、庭師の修行に入ってからは本邸に坊ちゃまを連れ帰る以外では私用ではまず入りませんでしたから。互いに嫌ってもいませんから、傍からは歯がゆく思っていました」

「まあ……そうだったんですか」


 ここで働いている女中さんたちは、比較的幼少期から鎮目邸で働いていた人たちが多いから、本当に鎮目邸の事情に精通している。

 女中さんのひとりが言った。


「どうか、仲良くしてくださいませ」


 その日はドリアとサラダ、コンソメスープで、それを持って帰り、ゆっくりと食べた。

 次はできれば桃矢様も一緒に。できればつつじが咲いている内に。そう思わずにはいられなかった。

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