魔術のような1日
夏目海
第1話
昨夜、大森での出来事が夢の中の出来事ではないと悟ったのは翌朝になってからのことだった。
私は親友のリサと旅行に来ていた。熱海へと向かう東海道線の車両の中で、私は朝刊を広げた。一面に、大物政治家の訃報が載っている。死因は急性心不全。確かにそう書いてある。時に新聞は真実を書かないものだと私は思った。昨夜、確かに私は彼を殺した。魔術を使って、完全に秘密裏に。
彼の死こそ公表されたものの、その理由までは伏せられている。そこには隠すべき事情というものがある。もし殺害されたことがバレ、誰がなぜ殺すに至ったのかの詳細が明るみに出れば、彼の所属する政党とその取り巻きにとって、不都合な真実が明かされることになりかねない。
でもそんなこと私に取ってはどうでもいい。私は殺すべきだと思ったから殺した。そして、そのために魔術を用いた。できれば捕まりたくない。それだけのことだ。
リサは白いワンピースに、麦わら帽子とサングラスをつけていた。まるでパリジュンヌのように美しかった。リサは外国育ちで、私よりずっと大人びて見える。
「プレゼントあげる」とリサは言うと、黄色い小さな袋を取り出した。
「プレゼント?」
「うん、誕生日プレゼント」
「私の誕生日、11月なんだけど」
「いいの、渡したい気分なの」
「ありがとう」
魔術を扱う者は基本電車など乗らない。しかし、リサは驚くほど電車になれているかのようで、戸惑う様子も動じる様子も見られなかった。
そういえば私はリサのことを何も知らない。いつ日本に来たのか、休日は何をしているのか、何に興味があって、将来どうなりたいのか、そういった話を何もしたことがない。
2時間もすると、熱海駅へと到着した。時計の針は12時を回っていた。
「お昼食べない?」とリサは言った。
「うん」
人で溢れる駅前のロータリーを抜ける。人々の圧力にやられそうになりながら、私とリサは小さな食堂に入った。
私は魚のひらき定食を、リサはマグロの刺身定食を頼んだ。心のなしか、他の客がちらちらとこちらを見ている気がする。店員の表情がどこか曇っている。殺人をすると、全てが疑わしく見えることだけが難点だ。皆が私の秘密を知っていて、そして責めているような気がしてくる。
「おいしい」と私はつぶやいた。
「昨夜さ……」とリサ。
私は胸騒ぎがした。昨夜のこと、リサに見透かされているのではないか。全てがバレていて、旅行から帰れば、そこには全く違う世界が広がってしまっているのではないだろうか。
考えても、もうどうしようもないことであることはわかっていても、私の頭はそのことでいっぱいだった。
「あ、いや、昨夜ね、東京駅近くのホテルに泊まったんだ」とリサ。
「私もだよ」
私はそっと胸を撫で下ろした。そうか、リサも東京駅のホテルに泊まっていたのか。それなら一緒に泊まればよかった。そうすれば、もしかしたらもう少し、気持ちが落ち着いていたかもしれない。
「どうだった?」と私が聞くと、「まぁ別に、普通かな」とリサは返した。
リサは食べるのが遅かった。私がさっと食べ終えると、リサの様子を観察しながら、ひたすらに待った。それは、あまりにも長い時間に思えた。
もし警察が来たらどうしよう。
私は殺害現場に居合わせただけです、そう言えばいい。実際、魔術を使って殺しました、なんて言っても、警察は取り合ったりしないだろう。万が一捜査されても、証拠不十分になるのは確実だ。
でもその事実を目の前にいるリサに知られるかどうかはまた別の話。彼女は私の真実を知れば、おそらく蔑み、そして私から離れていくだろう。私はまたも孤立する。リサは私にとって、やっとの思いでできた、唯一の友人。失いたくない。
私は頭を抱えた。
「大丈夫?」とリサが言った。
「う、うん」と私は頭を抑えながら言った。
リサはまだ半分も食べていない。
そもそもなぜ計画に参加しようと思ったのだろう。どうしても事件以前のことが思い出せない。面白そう、と思ったのかもしれない。協力してあげたい、と思ったのかもしれない。もう私の人生なんてどうにでもなれ、そう思ったのかもしれない。しかし、そのどれもがハリボテに思え、確かな答えではない気がする。ただ一つ言えるのは、取返しのつかないことになってしまった、今確かにそう思っているということだ。
「腕、痛むの?」
リサに言われて、私は右腕を抑えていることに気が付いた。
「うん、昨日から」
「右腕か……」
「何か?」
「いや、私はその道の専門ではないし、かじったことがあるだけだから何か言える立場ではないけど」
「え、なに?」
「それに検査には時間がかかる」
「検査?私、病気なの?」
「そういえばそうだし、そうじゃないと言えばそうじゃない。もし、生活に支障が出だしたら、病院に行ってみるといいと思う」
「病院……」私は戸惑った。
リサはやっとのことで食べ終わった。私は代金を支払うと店を出た。
リサは商店街の道をくだっていった。私はそれについていった。
商店街の人たちはしきりに何かを売っている。温泉まんじゅうに、揚げ物。食べていきな、という店主の声が行きかい、熱気が空気に溶けこんでいく。
リサはその中を無言で進んでいった。
しばらくすると、プリン屋が目の前に見えた。多くの人が並んでいる。子供や孫に買ってあげる家族、プリンカップを片手に写真を撮るカップル、学生の集団。そこには、普通の幸せを持ち得ている人たちで溢れている。私は徐々に息が荒くなった。
リサはくるりと向きを変えると、坂道をくだっていった。私も急いでついていく。地面のコンクリートから湯気が出ているのがわかった。温泉だ。
顔をあげた。目の前に海が広がっている。美しく、ダイヤモンドのように輝く海。何かが今日を境に変わる、それも良い方向に。なんだかそうはっきりと思えるような海だ。
しばらく歩くと、大きなホテルが見えた。
「ここだよ」とリサは言った。
受付で私はチェックインをした。
「こちらの浴衣ご自由にお持ちください」
受付員はにこりと笑顔を向けた。
受付の近くに、色とりどりの浴衣が並んでいる。
「浴衣もっていっていいって」と私はリサに言った。
リサは緑色、私はピンクの浴衣を選んだ。
エレベーターに乗って3階で降りた。
部屋は和室だった。古びておりカビのにおいのする、2人部屋にしては狭い部屋だ。
リサは白い小さなキャリーを取り出すと、それを開けた。中から青いクレンジングオイルを取り出すと、洗面台の方へ行った。そして丁寧に化粧を落として戻ってくると、押し入れから布団を出し、「少し寝るね」と言って寝てしまった。
私はその様子をじっと見ていた。自由な人だな、と思ったが、それがまた心地よかった。気が付くと私も寝てしまっていた。
私はリサより早く起きた。すでに日は落ちようとしており、オレンジ色の空をしていた。
ふと、リサからもらったプレゼントに目がいった。なぜ突然渡すつもりになったのか、私にはさっぱりわからなかった。
袋を開けると、薄い黄色の箱が出てきた。黒字で何やら文字が書いてある。どういう意味か、私にはさっぱりわからない。
箱を開けると、小さな瓶が出てきた。取り扱い説明書をよく読むと、perfumeと書かれている。香水だ。私は香水というものを始めて手にした。
私は早速手に香水をつけてみた。金木製のようなさわやかな香りがふわっと漂う。リサと同じ香り。私はふとリサを見ると、とても幸せそうに穏やかな寝顔をしていた。常に胃がキリキリとしている私とは正反対だ。
しばらくするとリサは大きく伸びをして起きた。
「お風呂入ろうか」とリサ。
いつも唐突なリサの発言に、この人は、どこまでも自由な人だな、と思った。でもそれがまた、常に気の張っている私を少しだけ楽な気持ちにする。
私は人前で服を脱ぐことには抵抗があった。リサはそんなこと気にもとめずさっと温泉へと入りにいった。
私は温泉どころか大衆浴場に来たのも初めてだった。リサや他の客がそうしているように、私はシャワーで体を洗うと、大きな浴槽に、ゆっくりと体を沈めた。海外育ちのリサの方が手慣れていて、ずっと日本にいる私が温泉を知らないなんて、皮肉なものだなと思った。私には正直、温泉と普通の湯船の何が違うのかさっぱりわからなかった。暖かいし、体を思いっきり伸ばせるし、これまでの疲れが吹き飛ぶ感覚は確かにある。でもそれは、温泉である必要はあるんだろうか。
「私は、忘却の魔術が得意なんだよね」とリサは言った。
「忘却の魔術?」
「人から記憶を消すの。それもミリ単位で調整できる」
「例えば、私の記憶から、リサを消せる?」
「できるよ。それも違和感ないように。あなたの得意な魔術は何?」とリサ。
「私の得意な魔術……」
私が考えると、リサはクスリと笑って、温泉を出て行った。私も追いかけるように浴槽から上がった。
夕食はホテル内のレストランを予約をしていた。魚の刺身、鍋、漬物とたくさんの料理が目の前に並ぶ。こんなご馳走は私には初めてだった。リサはお昼の時、食べるスピードがゆっくりだったのが嘘のように、次々と口に運んでいく。
「やっぱり最高だわ」とリサ。
「え、何が?」
「温泉に決まってるでしょ」とリサは笑顔で言った。
「温泉の良さって、なに?」と私がいうと、リサはクスッと笑った。
「肌触ってみなよ。ツルツルだよ。私やっぱり熱海の湯が1番好きだなぁ」
私はおそるおそる腕を触ってみた。確かに、ざらりとした感触がなくなり、もっちりと若返ったような肌になっている。
部屋に帰るとキャリーからリサが日本酒とおちょこ2つを取り出した。獺祭だった。
「地酒もいいけど、やっぱり獺祭が1番好きなんだよね」とリサは言った。リサは私にお猪口を渡すと、日本酒を注いだ。それから、自分のお猪口にもそそいだ。2人は乾杯をして、一口飲んだ。
口の中で、お米の甘味が広がる。今まで飲んだ日本酒の中で1番おいしかった。
「ねぇ、将来の夢って何?」とリサは言った。
「え?」
「将来の夢。だってあなた最強すぎて、夢なんてないんじゃないかなって最近思ってきたの。何を目指してそんなに頑張れるの?」
「特に夢はないかな」と私は言った。しかしどちらかというと夢が持てない、と言った方が正しい。私がしていることは違法行為で、夢なんて語れる職業じゃない。
「夢無くしてどう生きてくの」とリサ。
「じゃあリサは?」
「えっ?」
「リサの夢は?」
「世界征服」リサは重量のある声で言うと、にこりと笑った。
私は内心引いていた。作り笑いをするのが精一杯だった。
「なんてね」とリサは言った。
「最強の魔術師になることかな」とリサは言った。
「私を倒したら最強?」と私は冗談で言ってみた。
「そんなわけないでしょ」とリサは冷たい声で言った。まるで地雷を踏んだ瞬間かのような静かな怒りを感じた。
「強さってなんだろうね。最強の定義って曖昧」と私は日本酒を一気に飲み干して言った。
「あなたは、なんだと思う?強さって」
「さぁね。住む世界によるんじゃない?学校なら勉強ができる人、魔術師なら魔法を使いこなせる人、政治家ならたくさん投票してもらえる人、かな。でもその3つってどれも違う能力」
「あなたはそのどれも持ってる」とリサは言った。
「ありがとう。でも私は政治家ではない」
「そうだった。でも、1つでも持ってるのは羨ましいよ」
「そうかな。例えば、100万人に一人の存在になりたいとする。それなら、10万人に一人の能力を3つ持てば、100万人に一人の存在になれる」
「10万人に一人ってどれくらいよ」とリサは言った。
「魔術師がそれくらいじゃない?」
「そんなにいるかな」
「いるよ。もっといるかも。ただ皆、魔術を使ったことがないだけで」
「あなたはいつ魔術に出会ったの?」
「いつだったかな、大森に魔術を習いに行ったのは5年くらい前。欲を捨てろと言われたけど、欲を捨てなくても魔術は今でも使えている」
「魔術のために欲を捨てるって変な話よね」とリサは言った。「だって、魔術こそが、欲そのものでしょ。欲なくして、魔術を習得する必要性ってどこにあるの?」
「人のため、とか?」
「人のためね。でも、それも人を助けたいという自分の欲よね。究極、魔術は、人の欲望から生まれたものだと私は思っている。だから、私は日本人の、能力を持つものは他人を助けなくてはならない、という考えが理解できない。もっと自分のために使っていいと思うし、自分の能力を出していいと思うの」
「つまりあなたが言いたいのは、魔術師の存在を世に知らせるべきってこと?」と私は言った。
「ええそうよ」とリサ。「能力を隠して生きるってつらくない?だから、それが私の夢」
「夢を叶えられるのは10万人に1人らしい」と私は呟いた。
「最強になるには、あと一つね。非術師を皆殺しにした魔術師、とかはどうかな?」とリサ。
「そうしたら、ヒトが100万人も存在しなくなってしまうから、定義そのものが壊れるんじゃないかな。特別な存在でいたいなら、特別でない存在が必要」
宿の窓からは夜空に煌めく綺麗な月が見えた。
私はリサと語る時間が好きだった。この時間が永遠に続けばいいとさえも思った。それは私の無意識が、この時間が永遠に続くわけがないことに気がついていたからかもしれない。月はまるでその私の本心を見透かしたかのように揺らめいていた。
リサと出会ったのは学校だった。私はなぜか生徒会長を務めていた。私はリサが苦手だった。不幸なんてまるで知らない、圧倒的な幸福感。他人の孤独や苦悩にまるで気づかない強さ。
私は入学式でスピーチをした。
その途中、転校生のリサは講堂へと走って入るとニコニコと笑いながら、髪を耳にかけた。遅刻して許されるとでも思っていそうなのが気に入らなかった。
「皆さんが今日ここにいられるのは周りの環境があったからこそのことです。」
その瞬間、講堂の奥で立ち見していたリサがクスッと笑ったのを壇上の私は見逃さなかった。
私はリサが好きだった。こんな自分を友人として受け入れてくれる懐の広さ。世の中を丁寧に観察し多くの人が幸せに生きられる未来を思い描ける圧倒的な優しさ。
入学式で私はスピーチした。
「数ある学校の中から我が校を選んでいただきありがとうございます。皆さんにまず知ってほしいことがあります。今回の試験の倍率は8倍。あなたが合格した代わりに、落ちた人がその8倍いるということです。まずはそのことに目を向け、忘れず、希望かなって入学できたことに感謝しましょう」
この一文をリサは覚えていた。そしてある日このことを持ち出し私を絶賛した。
「校長の挨拶なんて、我が校に入るものは選ばれし者です、とか言ってたでしょ。この学校もそんなもんかって思っていたけど、あなたのスピーチを聞いて感動して、仲良くしたいって思ったんだよね」
リサは私に笑顔で語った。
初めてできた友人。押し寄せる矛盾した感情が説明できず、私は戸惑った。
熱海の月は綺麗だった。
「人殺したことある?」と唐突にリサが聞いた。私は動揺した。
「いや、ないと思うけど」
「思うって」とリサは笑った。
「なんでそう思うの?」
「あなたの魂が損傷されているから」
「魂が損傷されている?」
「傷ついているってことかな」とリサ。
「それくらいわかる」
「私わかるんだよね、そういうの感覚的に」
「繊細な人じゃないと人の魂なんて覗けない。私も、できない」
「できないの?」とリサ。
「完璧にはできないよ。誰もができる技術じゃない」
「そっか。じゃあ、これは私の10万人に一人の能力ってわけだ」とリサは笑った。
「私はその、昔色々ありすぎて、正直、何が原因で魂が傷ついているのかわからない。傷つくと何かいけないことはあるの?」
「魂が傷つく時ってどういう時が知ってる?」とリサは言った。
「知らない」
「自分の信条に反することをしたとき。魂が傷つきすぎると、魔術を使えなくなることもある。あと人としての機能が低下していく。例えば記憶障害とか」
「例えば、殺人に意義を見いだしていれば、殺人をしても魂は傷つかない?」
「少し違う。意義ではない。殺人を良しとしていれば、魂は傷つかない」
「なるほどね。私何も知らないみたいだね」
「おそらく魔術の中でも、医療知識だからだと思う。日本では秘匿事項」とリサは言った。
「だから知らなかったんだ。大森のミスラさんは知ってるかしら?」
「むしろミスラさんだけが知ってるのでしょうね。うっかり漏らしたとしても、あなたから記憶を消したでしょうね」とリサは言った。
「じゃあ私に話してしまったからには、リサはこの事実を私の記憶から消す?」と私は聞いてみた。
リサはにこりと笑うと首を横に張った。
「それはない。1つにこれは海外で知った知識だから。そして2つ目にあなたは私の親友だから」
私はいつの間にか眠りについていた。私は夢を見た。珍しく、家族の夢だ。そこにいるのは両親と私。3人で仲良く何かを話している。一通り話したところで、私のつける香水の香りを褒めた。ああこれは、昨日リサにもらって、と私が言うと、リサって誰だ?と父親は言った。だんだんと目の前に真っ暗になっていく。突然大雨が降り出した。
傘を持ってなかった3人は、走ってどこか雨宿りができるところを探した。目の前を川が流れている。その向こうに、家が見えた。
私は川を渡っていった。渡りきると、急いで家へと向かおうとした。そこで気がついた。私は二人をおいてきたことに。きっと両親は後ろからついてくる。ベタベタで重い足のまま、2人を信じて家の中へと入った。
その瞬間私は起きた。窓からは光が差し込んでいた。私はすぐに違和感に気がついた。
リサがいない
あの性格だ、先に朝食を取りにいったのかもしれない、と私は必死に言い訳した。しかし、そこにはリサの荷物1つさえなかった。それどこか、布団も日本酒も、グラスもない。
押し入れ、冷蔵庫、金庫、手掛かりになりそうなものを私は全てあけた。しかし、そこには何もなかった。何一つだ。朝食券を見ると、1名様、と書かれている。私は混乱した。
朝食のビュッフェを急いで食べると、部屋に戻って荷物をまとめ、受付へと行った。
「1名様分ですね。追加料金はございません。ご利用ありがとうございました」
私は何も言うことはできなかった。ホテルを出ると、目の前には綺麗に輝く海が見えた。
坂をのぼりながら私は考えた。昨日確かに、この坂をリサと下った。そしてとても幸せな気持ちになったのだ。全てきっとうまくいく、確かにそう思った。
唐突に誕生日プレゼントを思い出して私は鞄の中を見た。そこにはリサからもらった香水が確かにあった。
私は2つのことに気がついた。1つはなぜ私の記憶を消さなかったのかということだ。何かまずいことでもあったのなら記憶を消せばいい。それくらい簡単にできる人だ。そしてもう1つは、私自身がものすごく怒っているということだ。突然何も言わず、何も相談せず、私の前から去ったリサに形容しがたい怒りを感じている。
ふと、腕がズキズキと痛み始めた。腕から血が流れ出している。止まりそうもないくらい、血で溢れ返り出す。私は呆然としたまま、血の流れる腕を見ることしかできなかった。しばらくすると、あたりがくらくらとぼやけだし、そして気を失ってその場に倒れ込んだ。
気がつくと、私は大森の館の中にいた。豪華なお屋敷の一室。目の前に倒れ込んだ大物政治家。そうか私は今ここで、彼を殺したのだ。
返り討ちにあった私は右腕を怪我している。ふと腕を見ると、血で溢れている。その血を視覚で確認した瞬間、猛烈な痛みを覚えた。震える手で杖を取り出すと、魔術を用いて、その溢れ出る血をなんとか抑え込んだ。
屋敷の掛け時計を見た。5時を指している。窓からは夕日が差し込む。随分長い時間意識を失っていたようだった。そうだ、思い出した。彼は、政敵であった私の両親を殺したんだ。その彼が魔術とやらを使って証拠を残さないように殺したと知り、私はこの近くに住むミスラという人を訪ねた。しかし彼に言われたのは欲を出すなということだった。私はそのあたりが非常に上手だった。いやむしろ、両親が死んでからは感情がなかったという方が正しいかもしれない。魔術を学び、それから、暗殺集団に雇われ、ロボットのように、言われるがまま人を殺し続けた。稼いだ金は学費に充てた。
ある時、敵を討たないか、と脳内に囁く声が聞こえ始めた。私は彼女に、リサ、という名を与えた。リサは私に何度も親の敵討ちを提案した。学生のころ。リサによる脳内への囁きは、いつしか私を蝕んでいった。
リサはいつも突然現れる。現れると私を何時間も弄ぶ。私にも対処法はある。魔術を使って幻想を作り出し、その景色を自らに見せるのだ。それが、自らの欲望を抑え込み方だった。
しかし、今日ばかりは目の前で人が死んでいる。現状を見る限り、どうやら幻想を見せる作戦は、ほんの少しのずれによって失敗したようだった。取り返しのつかないことになってしまった。
足元を見ると、絨毯が血の跡がこぼれ落ちていた。私は杖を絨毯に向けた。腕にグッと力を込め、残る力で魔術を捻り出す。しかし、なかなかその重々しい真っ赤な血痕は、まったくもって消えようとしない。
なるほど、魔術が使えなくなったというわけか。私は妙に納得し、急に笑いが込み上げてきた。
アハハハハハハ
声をあげて笑ってみた。私の声が大きな館に響いて消える。
体に疲れがどっと出た。その場にバタリと座り込むと、ふーっと、ため息をついた。脳内に電気回路を走らせ、あちこち考えを巡らせてみたが、良い案は何も思いつかない。詰みだ。
温泉にでもいこうかな
私は、いずれくる警察に見せつけるかのように血痕を放置したまま、大きな館を出て行った。
魔術のような1日 夏目海 @alicenatsuho
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます