第一章~① 殺人事件発生

 須依すえは警視庁内の記者クラブ席に座り、与えられたブースの壁に白杖を立てかけ待機していた。耳をそばだて、慌ただしく出入りする他の記者達の会話を聞きながら眉間に皺を寄せていた。

 じっとしているのは性に合わない。しかし今回は以前の職場でもある東朝とうちょう新聞社から、取材の応援依頼を受けている身だ。また視覚障害者でほぼフリーの記者である須依がうろつけば、邪険に扱われる事も明らかだ。

 さらにここ二年余りは、街を普通に歩いていただけなのにどけと怒鳴られ、舌打ちされるなど珍しくなくなった。下手をすれば白杖が邪魔だと蹴られたり、自転車にぶつかられたりもする。どさくさ紛れに胸やお尻を触る輩もまた増え始めた。コロナ過以降、見えない人がわざわざ買い物に来るなんて、と心無い言葉を投げかけられもした。

 通常の障害者ならじっと神妙にし、恐怖に怯えるしかないだろう。だが気の強い須依は違う。舌打ちされたら同じく舌打ちし、怒鳴られれば怒鳴り返す。また白杖を蹴ろうとしても気配を察知するのですっと引き、自転車とはぶつかる前に脇へ避けられるからだ。

 まだ障害者に成りたてで痴漢に遭った時は、初めて味わう経験に体が硬直した覚えがある。けれど財務官僚によるセクハラ問題で知られた通り、意外と女性の政治記者は昔から多い。

 一昔前の官僚幹部は言うまでもなく、現在でも圧倒的に男性ばかりだ。よって女性記者の方が口を滑らせやすく、重要な情報が取れる場合が少なくないと考えられていたからだろう。馬鹿な話だと思われるかもしれないが、今現在もその風潮はあまり変わらない。

 かつて財務官僚を告発した女性記者のように、須依自身も政治家や官僚達から夜遅く呼び出され、食事をした経験など当たり前のようにあった。もちろん今でいうセクハラだってよく受けたものだ。 

 そのような体験と持ち前の負けん気から、須依は直ぐに対策を練った。胸ポケットと白杖に、いつも小型のカメラ付きボイスレコーダーを装備し、いつ酷い目に遭っても通報して逮捕できるよう備えたこともある。

 だがそうした受け身の姿勢はやはり性に合っていなかった。そこで感覚を研ぎ澄ませ、事前に対処できるよう特訓までしたのだ。

 若気の至りでもあった。実際、胸を触ろうとしてきた同業者を組み伏せた事がある。そいつは須依が健常者だった頃から、やたら突っかかってくる男だった。

「お前、目が見えないくせにまだ記者の真似事をやっているのか」

 かつて彼らを出し抜きスクープを得たからだろう。だが須依は引き下がらず言い返した。

「じゃあ、その真似事にも及ばないあなたは素人以下の給与泥棒ね」

「なんだと」

 そう言って真正面から須依の胸に手を伸ばしてきた為、半身でかわし、腕と手首を捻りながら体重をかけて地面に叩きつけたのだ。

「い、痛い、や、辞めろ、離せ」

 手応えから、少なくとも打撲もしくは脱臼させた感触があった。近くにいた烏森を含め、周囲の人達の仲介もあり事なきを得たが、その後病院で診断を受けた彼が骨折していた事が広まった。おかげでそれ以来、須依におかしな真似を仕掛ける同業者はいなくなった。

 須依が視力を失う病気に罹っていると知ったのは、新聞社に入社し政治記者として七年目に入った二十九歳の時だ。

 精密検査による診断で徐々に視力が衰えると告げられた時、大いに戸惑った。それでも記者の仕事が好きだった為に出来る限り続けたい、と考え思い切って退職し、障害者の為のリハビリテーション施設に集中して通うと決めたのだ。

 何故ならそうした施設は入居しない限り、土日や祝日は休みのところばかりだったからである。通うにしても、朝九時から夕方四時までなど限られた時間しかやっていなかったりした。

 そうなると不規則な勤務時間である記者、または会社員として縛られた生活の中、施設に通う時間の確保は実情かなり困難だ。白杖を使って道を歩いたり、家の中などをスムーズに移動したりといった様々なトレーニングを受ける必要にも迫られていた。

 そこで須依は基本的な行動から学び始め、今まで通り健常者との会話を、どうやってスムーズにできるか試行錯誤しながら苦心し懸命に努力した。

 点字やパソコンなどにソフトを導入し、文字を読み取る機能の習得も行った。記者として仕事を続ける為、まさしくブラインドタッチでパソコンを使い、記事を書く練習もした。さらにソフトで読み込み、間違いがないかを確認するなどの特殊な訓練もしたのだ。

 そうしたリハビリ兼職種訓練を続けた結果、フリー記者としてやっていける自信が付くまで成長した。するとかつての職場の先輩で、今回の仕事を回してくれた烏森からすもり哲司てつじを中心に、声をかけて貰えるようになったのである。

 新聞社に在籍していた頃、いくつもの大きなスクープをものにし、若手では滅多に貰えない社長賞も何度か獲得した実績もあったからだろう。だがそれだけではない。視覚を失った分、元々敏感だった須依の聴覚等が人一倍研ぎ澄まされたからだ。

 例えば言葉のトーンや会話で相手の感情を察したり、話した内容を暗記したりできるまでになった。さらに人の歩く音を区別できるなど、特殊な能力も得た。他に嗅覚や触覚も鋭くなった。

 そうして鍛え上げた能力と勘の鋭さに加え、烏森のような目の見えるパートナーの補助を受けたことで、フリーになってからも十年以上活躍できているのだ。

 須依は今でも日々進歩する、視覚障害者用の新しいアプリや機器を使って仕事等に活用している。中には日常生活でも有効なものが増え、IT化の発達は須依達にとりとても有難かった。

 例えばパソコンによる読み上げ機能がそうだ。利用できる範囲が広がったおかげでホームページを閲覧し、ネットショッピングも出来るようになった。最近ではネットバンキングまで可能だ。

 そうした環境変化も影響しているのだろう。意外に思うかもしれないが統計を取ると、視覚障害者の半数近くは一人暮らしを経験しているらしい。様々な壁があるとはいえ、自ら望む人も多いそうだ。

 さらにここ数年はスマートグラスが発達した。そうしたものを使った仕事に就き、経済的に自立できる障害者も増えたと聞く。

 これは眼鏡等に着いたカメラを嵌めてパソコンやスマホと繋げれば、別の場所にいる健常者が障害者の見ているパソコン画面等の表示を同時に把握し、声で教えられる便利な道具だ。

 須依はそれで読み上げ機能が使えない写真等の画面を見て貰い、記事を書く参考にするといった使い方をしていた。烏森が近くにおらず、また同じ画面を見られない状態の場合に役立ったからだ。

 ここまでに至る道のりは今考えても相当険しいものだった。須依自身のたゆまぬ努力は当然ながら、周囲の多大なる協力があったからこそ辿り着けたのだと今でも感謝している。

 そうして年齢を重ね、以前のように直ぐ反発し歯向かえば、時に余計なトラブルを招くと学んだ。よって今では余程でない限り、クレームをつけないよう心掛け、出来るだけ大人しくしている。

 それでもコロナ禍になってから、濃厚接触を理由に店や施設でのサポートを断られた時は困った。その上入店自体を拒否されてしまう場合もあったのだ。

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