3.記憶の樹の根元で

 投票先は、今回も迷ったりしなかった。記憶を頼るも何も、ぼくには何も残っていない。思い出せないものは頼れない。だから、聞き出せた情報をもとに選ぶしかない。そんなぼくが選んだのは揚羽だった。

 揚羽もきっと分かっているのだろう。投票が終わって解放されると逃げるように立ち去ってしまった。ぼくもまた足早に部屋に戻ろうとした。だが、その道すがら、ぼくを呼び止める姉妹はいた。

「待って」

 蛍だった。

「ちょっとだけでいい。時間をくれる?」

 振り返り、ぼくは戸惑いつつも頷いた。

 向かったのは記憶の樹の根元だった。ここ最近、彼女がここに座り込んでいる事は知っていた。綺麗に整えられた中庭だけれど、ぼくはここが少し怖かった。壊された紋白蝶の姿が今も頭の隅に焼き付いているせいだろう。それでも、蛍が一緒であれば、少しは勇気が持てた。

 共に中庭を進み、共に記憶の樹の根元に座ると、ぼくは少しだけ懐かしい気持ちに浸った。まただ。じっと蛍の顔を見つめ、ぼくは考え込んだ。ぼくは、蛍を知っている。知っている事を憶えている。でも、知っている事しか思い出せない。そのもどかしさ、歯痒さに、心と体がむずむずした。

「ごめんなさい」

 蛍は言った。

「部屋に早く帰りたいって事は分かっているの。でも、どうしても伝えたくて」

「何を伝えたいの?」

「前回の試験の記憶がわたしにはあるって話をしたでしょう」

「うん。でも、君は、その記憶をあまり信用していないんだよね」

「ええ。そうなんだけど、怖いの」

「怖いって何が?」

「この後の事。今日、吊られる姉妹が犯人ではなかったとして、明日の犠牲者が誰になるのか、それがちょっと怖いの」

「どうして?」

「前回の試験の時、次があなただったから」

 そう告げられ、ぼくは一瞬だけ気が遠くなってしまった。

 襲われる。ぼくが。その可能性がある。

 そう聞いただけでも、急に怖くなった。紋白蝶の、蜉蝣の、稲子の、花虻の、そして七星の姿が頭を過り、寒気のような不快感が体を巡っていった。

「前回と違ったらいい。実際、違った事もあった。前回は蟋蟀が襲われたけれど、今回は違ったもの。でも、同じじゃないとは限らない。だから、怖いの」

「また、ぼくが襲われるかもって?」

 蛍は頷いた。

「だから、用心して欲しいの。明日の朝までは、誰が来ても応対しないで。たとえ、わたしであったとしても」

 それは、心からの忠告だった。

 蛍は、ぼくを信じている。そこにあるのは理屈ではないように思えた。根拠や理由は後回しで、ぼくの事をただただ心配している。そんな彼女の眼差しを一身に受けて、ぼくは惚けつつも訊ねた。

「どうして、ぼくをそんなに信じてくれるの? ぼくが犯人かもしれないのに」

「あなたは違う。違うってわたしには分かるの」

「それって前回の試験の記憶のこと?」

「いいえ、そうじゃない。わたしはね、あなたを疑う事がどうしても出来ないの。自分でも分かっている。不公平だし、感情的だって。けれど、人ってそういうものでしょう。あなたを疑おうとしても、心がそれを拒絶するの」

 蛍の言葉に、ぼくもまた心を揺り動かされた。

 何かを思い出せそうな気がする。だが、やっぱり思い出せなかった。それでも、いくら愚鈍でも、ぼくにだって理解できた。

 蛍は、ぼくの事を知っている。ぼくよりもずっとよく知っている。

「ねえ、蛍。ぼく達はどういう関係だったの? ぼくは、一体誰なの?」

 思い切って訊ねると、蛍はぼくを見上げ、そして悲しそうに俯いた。

「答えるけれど、鵜呑みにしなくてもいい」

 そう言ってから、蛍は語りだした。

「あなたが空蝉としてこの世に再び目覚める前から、わたしはあなたの事を知っていた。あなたはね、このプロジェクトの責任者の姪っ子さんだったの」

「姪っ子……ぼくが?」

「それすら思い出せないのね。だったら、わたしの事も憶えていなくて当然かもね。わたしはあなたの幼馴染だった。あなたとは……仲が良かったの。同じ年頃の女の子たちに比べたら、随分と静かで地味な交流だったけれど、わたしには心地よかった。でも、ある日突然、その日々は終わってしまった。あなたが交通事故に遭ってしまって」

 蛍は淡々と語る。その声が微かに揺れている。その揺らぎに含まれる感情を噛み砕き、ぼくもまた動揺していた。

 それでも、やっぱり思い出せなかった。蛍が語っていることが、本当なのかどうかも確認できなかった。

「事故の後、あなたとまた会えるかもしれないって聞かされた時は、嬉しかった。体は機械乙女だとしても、中身が一緒ならって。実際、目覚めたばかりのあなたはね、わたしの事を憶えていた。嬉しかったし、感動した。また一緒に思い出を作れるんだって。だけど、その後の事は予想外だった。まさか、わたしも同じように事故に遭ってしまうなんて思わなかったから」

 蛍の身に起きた事故は、奇しくもぼくの身に起きた事故によく似ていたらしい。日付もまた同じ。呪いのような偶然だった。そして、その後の事もまた同じ。ぼくと特に親しかったからこそ、彼女は第一シリーズの第一号に選ばれた。

「機械乙女として目を覚ました時、わたしはゾッとしたの。あなたの身に起きたことが、自分の身に起きることで、その不気味さを実感した。おまけに、一度は正常に動いていたはずのあなたは、その頃になると誤作動を繰り返していた。わたしの事を憶えている時と、憶えていない時があって、それが悲しかった」

 そして今、ぼくは何も思い出せなくなっている。

「でも、記憶は消去されていないはず。いつか思い出せるかもしれない。だから、わたしは、あなたの体になるべく負担をかけたくないの。破壊される事も、吊るされる事も。あなたの身に起きて欲しくない。臨時の試験なんてしなければいいのにね」

 そう言って、蛍は俯いた。そんな彼女に、ぼくは何と声をかけていいのかが分からなかった。

 ただ、その横顔を見つめていると、非常に懐かしい気持ちになる。やっぱり、ぼくは蛍を知っている。彼女の言っている事は、本当の事かもしれない。

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