蜘蛛の巣の乙女たち

ねこじゃ じぇねこ

◇ 0日目

1.記憶にない世界

 目を覚ましたのが正確にいつだったのか、ぼくには分からない。ただじっと天井を見続けているうちに、次第に意識がはっきりとしてきたことは覚えている。真っ白な天井の橋に半球型の監視カメラらしきものがあって、チカチカと光っていたことも覚えている。

 段々と頭も冴えてきて、身を起こす。身体のぎこちなさに違和感があった。

 清潔なベッド。窓のない小さな部屋。机の上には見慣れぬ端末があって、そのほかには私物もない。その様子をじっと見つめているうちに、壁にかかった鏡を見つけ、その中に映り込む自分の姿を凝視してしまった。

 あれは誰だっけ。

 じっと手を見つめ、違和感の正体を探る。そして、ぼくは理解したのだ。

 ぼくは、人間じゃない。人間というものをどう定義するのかにもよるかもしれないが、少なくとも生身の肉体ではなかった。

 関節、皮膚、そして、鏡から分かる眼球、髪の毛の性質、口の中の状態、あらゆる面において、ぼくの肉体は作り物としか思えなかった。

 その事実だけを突きつけられ、ただただ茫然とすることしかできずにいると、遠くから足音が聞こえてきた。段々と近づいて来るその音に視線を向けると、部屋の扉が勝手に開いた。

 廊下に立っていたのは見知らぬ少女だった。その姿が視界に入った瞬間、ぼくは惚けてしまった。彼女もまた、ぼくと同じような体を持っていたからだ。

「おはよう……入ってもいい?」

 愛らしい声で問いかけられ、ぼくはおずおずと頷いた。すると、その少女は花開くような笑みを浮かべて近寄ってきて、ぼくの横に座り込んだ。

 立ち振る舞い、表情の動き、それらは生きた人間のよう。だけど、やはり違う。ぼくと同じで生身の人間ではないだろう。

 それにしても、綺麗だった。真っ白な髪に、真っ白な肌、身に纏う衣装もまた白く、眼もまた雪のような銀色。白に包まれた彼女は妖精のようだった。

 ぼくと同じ人形のような体だけれど、見た目は全然違う。ぼくの見た目は鏡を見る限り、褐色の髪に褐色の目、同じような色合いの服を着せられていた。彼女に比べてだいぶ落ち着いた部類かもしれない。

 それに、近くで見れば肌に質もだいぶ違うように思えた。ぼくの体はどこか粗さがあって、真っ白な彼女に比べてより作り物らしさがあった。

 分かったのはそれだけだった。ぼくは何者だろう。そして、彼女は何者だろう。一人で考えても答えが分からず不安になるぼくを、真っ白な彼女は覗き込んできた。

「ねえ、気分はどう? 起きられそう?」

 その問いに答える事も出来ず、ぼくは質問を返した。

「……ここは?」

 すると彼女は少し動揺を見せた。

「そっか、憶えていないんだね。ここは『蜘蛛の巣』の中だよ。『蜘蛛の巣』の中の君の部屋。扉と廊下の向こうには、ボクの部屋もある。ボクの事、憶えている?」

 黙って首を振ると、彼女は寂しそうに言った。

「そっか、じゃあまた自己紹介しないとね」

 そしてぴょんとベッドから下りると、丁寧にお辞儀をしてみせた。真っ白なフリルのついた衣装が翅のようにひらひらと舞う。

「ボクの名前は紋白蝶もんしろちょう。ここで暮らす姉妹の中で一番新しい末妹なんだって。君は……自分の名前を憶えている?」

 銀色の目に問いかけられて、ぼくはしばらく考え込んだ。手を見て、鏡に映る自分の顔を見て、そして、彼女──紋白蝶の全身を見つめて、それでも思い出すことは出来ず、ただただ首を横に振った。

「そっか。じゃあ、教えてあげないとね。君の名前は空蝉うつせみ。ここで暮らす姉妹の中で、一番初めに生まれたんだって。つまり、皆のお姉ちゃんってことだね」

「……お姉ちゃん」

 繰り返す自分の言葉がたどたどしい。そんなぼくに、紋白蝶は笑いかけてきた。

「うん。でも、新しく目を覚ましたばかりだから、精神的にはボクの方がお姉ちゃんなのかも。ねえ、空蝉。ここが何の施設なのか思い出せる? この体になる前のこと、どのくらい思い出せる?」

 紋白蝶の問いに、ぼくは困り果ててしまった。

 何も思い出せない。何一つだ。その惨めさを真っすぐ認める事はあまりにも怖くて、黙っている事しか出来なかった。

 そんなぼくの状況を、紋白蝶は察したのだろう。少し屈んでぼくに目を合わせると、ほんの少しだけ温いその手をぼくの頬に添えてきた。

「そっか、それじゃあ、まずはそこから説明しないとだね。びっくりするかも知れないけれど、落ち着いて聞いてね。機械乙女プロジェクトって名前、思い出せるかな。ボクたちはね、そのプロジェクトで生まれ変わった元・人間なんだよ。色々な事情で肉体の死を迎えた人たちの中から選び抜かれた人の記憶を機械乙女という人形に移植して、蘇生させようっていう計画なんだって。それで、無事に目を覚ましたら社会復帰のためのプログラムを受けることになるの。ここ『蜘蛛の巣』はその為の施設。ほら、あそこ、カメラがあるでしょ」

 と、紋白蝶が指差したのは、目を覚ました時から気づいていた、今もチカチカ光り続けている半球型の監視カメラだった。

「あれは『蜘蛛の目』って言われていて、離れた場所からスタッフたちが見守っているんだって。ボクたちの様子を観察して、記録をとって、そして、合格と認められたら生前のように人間として社会に出ていい事になっているの」

「社会復帰のための……」

 言われた言葉を繰り返すも、ぼくは首を傾げてしまった。

「ねえ、空蝉。昔の記憶は思い出せない?」

「分からない。ぼくは……一度死んでしまったの?」

「うん、そのはずだよ。ボクや他の姉妹たちみたいな事情が君にもあるはずなんだけど……そっか、思い出せないってなると困ったね。でも、大丈夫だよ。思い出せなくても、その体のどこかに記憶は眠っているはずだからさ。今は分からなくても、ふとしたきっかけで思い出せるかも。ゆっくり思い出せばいいんだよ。だから安心して」

 にこりと笑いかけてくる紋白蝶の姿は眩かった。ぎこちなく肯くことしか出来ないぼくに、彼女は手を伸ばす。

「さ、具合がいいなら、そろそろここを出よう。施設や姉妹たちのこと、紹介してあげるからさ」

 差し伸ばされたその手を、ぼくは怯えながら握り返した。

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