第2話 ここはどこ?
♦︎ ︎
どうして立っているんだろう?
視野が開けて乃愛が真っ先に頭に過ったのは、自分がいつの間にか立っていたことへの疑問だった。
きちんと椅子に座っていたはずだ。立ち上がった記憶はない。
乃愛はその矛盾したような感覚に思考が囚われてしまい、俯きながらその場に立ち竦んだが、周囲で騒めき出したような音が耳に入り、ハッと顔を上げた。
「どこだここは」
「何が起こったんだ?」
「暗くてよく見えない。…なにあれ…蝋燭?」
「え、地震??」
「揺れてたっけ?なんかさっきすごい眩しかったんだけど…」
囁き程度の声量のはずだが、やけに音が響いて聞こえてくる。この場の空間が広いのか、声が反響しているようだ。
辺りを見回すと、壁際を囲むように設置された燭台から、明かりが灯っている。窓は見当たらない。周囲の壁はごつごつとした感じから、剥き出しの岩にも見え、どことなく空気の湿っぽさや閉塞感もある。洞窟の中にいるようにも感じたが、面前だけは鉄格子になっていて、これではまるでレトロな牢屋だ。
この場には複数の人がいる気配がするが、辺りが薄暗くてよくわからない。
普段からシーリングライトなどの電化製品に囲まれた生活を送っているためか、蝋燭のような原始的な灯りだけでは心許なく感じる。囁きと蠢く人影しか見えない光景に、乃愛は段々と恐怖を抱いていた。
鉄格子の近くにいた誰かが動いた。
乃愛と同じ学校の男子生徒のように見える。まさかつい先ほどまで同じ教室にいた生徒たちなのだろうか。
—-ガシャンッ
乃愛の肩が跳び上がる。
近くで突如、重たい金属音が大きく響いた。
場の空気が瞬時に凍りつき、聞こえていた話し声がピタリと止んだ。
「…開かない。南京錠みたいなのが付いてる。これ、閉じ込められてんじゃねーの」
静寂を破ったのは、先ほど動いた男子の声。
淡々と呟かれたその言葉に、乃愛の心拍数は一気に跳ね上がる。鉄格子を揺らしたのだろう。どうやら扉もあったようだ。
乃愛の心臓はあり得ない早さで鼓動してきていた。
他方では、様々な声音の囁きが再開されていた。
「は…マジかよ」
「…冗談やめてよ。ちょっと今は笑えないんですけど」
声に少し怯えが混じっている。軽く言おうとして失敗したようだ。
「てかここは何なんだ。俺らは何でこんなとこにいる?先生は?」
「いや先生はまだ来ていなかった気がする」
冷静に現状を把握しようとしている者もいるが、視界や音から得られる情報はあまりにも少ない。聞き慣れたクラスメイトたちの声が聞こえることもあって、まだ教室にいる感覚が抜けきれない様子だ。ここで先生の声が上がらないということは、実際にいないのだろう。
その時、乃愛の近くでボソリと気の抜けた女子の声が聞こえた。
「あれ?なんか周りが見えるようになってきた」
聞き馴染みのある声だった。隣の席にいた
乃愛は思わず声の主の方へ顔を向けると、パチリと目が合った。なぜか顔の輪郭がはっきりと見えて、驚きに目を見開く。近くにいたとはいえ、周囲が薄暗い状況は変わっていない。さらに乃愛は軽度近視のため、授業中は眼鏡を掛けるが今は裸眼だった。色調は暗いものの、眼鏡を掛けているときよりも細部が鮮明に見えている気がする。
ただその妙な視界の見え方に、すぐに言いようのない気持ち悪さを感じた。相手も同じなのか、驚きつつも訝しげに目を眇めている。
「あ、志津さんもこっち見えてるのかな?んー、なんか変な感じするよね?」
話しかけられたことで、乃愛の全身からぶわっと一気に変な汗が出てきた。身体が小刻みに震え出す。先ほど感じた緊張から倍増しだ。バクバクと心臓の音がうるさい。
顔は向けているが視線はすぐに外してしまった。早く返事をしなければならないが、言葉がなかなか出てこない。黙っていることで変な間ができた気がする。
「…っ……!…」
結局、乃愛は頷くだけの返事しかできなかった。
新田はそれに苦笑を返すだけで、改めて辺りを見回し出した。先ほどまで声や人影でしか存在を感じなかった、他のクラスメイトたちの顔ぶれを確認するためだろう。
乃愛の胸はチクリと少し傷んだ気がしたが、視線が逸れて会話が終了したことで、緊張状態は次第に治っていった。
心を鎮めることに集中してそのまま顔を俯けていた乃愛だったが、周囲の騒めきが段々と大きくなっていくのに気づいた。
視界が開けたことで始めは弾んだ声が多かったが、次第に啜り泣きや気色ばんだ声が入り混じるようになっていた。なんだか雲行きが怪しい。
「おい!聞いてんのか!?」
突如、誰かの苛立った大きな声と共に、乃愛の肩が軽く揺すられた。
ぼうっとしている間に声をかけられていたらしい。慌てて顔を上げると、鋭い目つきでこちらを睨んでいる男子生徒がすぐ傍にいた。それを見てクラスメイトだという事は分かったが、名前までは思い出せない。
乃愛は色々あって幼少期から対人関係を諦めているので、普段から人の顔をなかなか覚えられないでいた。目線も碌に合わせられず、まともに会話もできないので、顔も名前もすぐに忘れてしまうのだ。
それでも半年以上も同じ教室に通えば、さすがにクラスメイトの顔くらいは覚えたが、全員分の顔と名前を一致させることまでは難しかった。
「…どうした?具合でも悪いのか?」
何を言われていたのかよく分からないが、悪意が向いていたわけでは無さそうだ。彼は乃愛の様子がおかしいことに気づいたのか、眉を顰めて不安げな声をかけている。
しかし乃愛は再び話かけられたことで血の気が引いてきていた。せっかく落ち着き始めていたのに、元の木阿弥になってしまった。
目に怯えが出て一歩後ずさってしまう。堪らず視線を逸らせば、周囲にいるほとんどの人がこちらを見ていることに気づいた。目の前にいる彼の一声で、注目を集めてしまっていたようだ。しかも今では、皆の顔が鮮明に見えてしまっている。
やはりここにいたのは、同じ教室にいた生徒たちであるようだった。
先ほどまでの怪しい雲行きは一時霧散し、乃愛への気遣わしげな雰囲気に包まれ始めた。
あちこちから人が寄ってきて「大丈夫?」などの声をかけられるが、それらが余計に乃愛の焦燥に拍車をかけて、症状がどんどん悪化していく。消えてなくなりたい気持ちも膨れ上がる。
乃愛は普段から学校を休みがちであることや、薄倖そうな風貌も相まって、クラスメイトから身体虚弱なのだと思われていた。このような異常事態なので、何らかの発作でも起こしてしまったのかと、彼らは純粋に心配しているのだ。
実際は乃愛が現状についていけなくなって、勝手に切迫感を引き起こしているだけだった。
それになんだか先ほどから息が苦しい。酸素が足りない。この症状には身に覚えがあった。過呼吸だ。
分かっていても冷や汗が止まらない。息が乱れてうまく呼吸ができない。胸も苦しくなってきて意識が朦朧としてくる。
震えていた足は既に立っていられなくて、乃愛は倒れるように足元から崩れ落ちた。
遠くなった耳に悲鳴が聞こえた気がした。
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