第36話 絵を描くことは、わたしの全部なんだから

「立て!城ヶ崎!」

 ハルユキの声が、城ヶ崎の鼓膜を震わせた。

 高校生男子にはあるまじき凛とした声が、グラウンドに満ちた喚声を割って城ヶ崎の耳に届く。

 ハルユキの周囲にいた生徒たちが一斉に息を呑んだ。

 すぐ近くで鐘を鳴らされたかのように、耳の中の空気が自ら震えている。そんな感覚が生徒たちを襲った。

——コイツ、なんて声してるんだ……。

 目を見開き、ハルユキを見る。

 その視線を振り切るようにしてハルユキは両の拳を握りしめ、大きく息を吸い込むとふたたび叫んだ。

「立てぇ!城ヶ崎!」

 野山の蝉が一斉に鳴き止んだときを思わせる一瞬の静寂のあと、堤防を乗り越える洪水のように声援が応援席からあふれ出した。

「立って!城ヶ崎さん!」

「がんばれ!」

「まだいける!」

 誰もが城ヶ崎のために声を振り絞っていた。

 その背後には、クラスみんなで懸命に仕上げた白い女神の絵があった。

 それを見て歯を食いしばり、城ヶ崎は立ち上がった。

 胸元から腰のあたりまで、湿り気を帯びた土がこびりついていた。膝からは、血も流れている。

——だけど……。

 いまは立ち上がらなくちゃダメだ。いまだけは、走らなくちゃダメだ。

 あの絵は、みんながわたしに描かせてくれた。わたしに描いていいっていってくれた。

 そしてみんなで完成させた。

 そのみんなが走れっていってる。

 諦めるなっていってる。

 城ヶ崎は転がったバトンを拾い上げると、手をついて立ち上がった。

 すぐ横を2位のランナーが駆け抜けていく。

 その背中がみるみる小さくなっていく。

「行け!城ヶ崎!」

 巨大なうねりのような声援の中、ハルユキの声がピンと張った糸のようにまっすぐに城ヶ崎に届いた。

 その声に背中を押され、城ヶ崎はふたたび走り始めた。

 視界をチラリとかすめただけで思考のすべてを奪ってしまった母親の姿は、もう気にならなかった。

——あの絵は、わたしたちのものなんだから。

 少し足首もひねったかも知れない。

 足の裏が地面につくたびに、右足に鈍い痛みが走った。

 それでも、城ヶ崎は全力で前に進み続けた。

——絵を描くことは、わたしの全部なんだから。

 ようやくアンカーにバトンをパスする頃には、3位のランナーに追いつかれかけていた。

 胸が、焼けるように痛い。

「ごめん」といいたかったが、絞り出した息は声にならなかった。

 しかしバトンを受け取りざま、アンカーの彼は「まかせろ!」というと、弾かれるように加速していった。

 コース外に出た城ヶ崎はその場に仰向けになり、それ以上は彼の姿を目で追うことも出来なかった。

 胸がいつまでも上下し、動悸がおさまらなかった。

——吐きそう……。

 始まる前にこうだったら、走らずにすんだかも知れない。

 しかしいまは、後悔していなかった。

 走ったことも、転んだことも、絵を描いたことも、母親がその絵を見たことも、全部後悔していなかった。

 寝ころんだまま見上げるといつの間にか雲が切れ始め、わずかな青空が顔をのぞかせていた。

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