第50話
*
――莉美、もうあきらめたほうがいいよ。
(いいえ若様、まだ試していないことがあります)
――生命を生み出すなど、妖魔が宿っているに違いない!
(当主様、でしたらすでにこの右手は国を滅ぼしているでしょう)
――こんなに絵の才能があるのに……莉美……。
(母さん、今やっと私の絵が人を助けています)
構えを促す味方の太鼓の音によって、ふと懐古の念の中から莉美は現実に戻った。はっとして慌てて桟に近寄って、下を見る。
自身の描いた大量の兵たちがまだまだ城郭内から溢れて出てきている。それはまるで、鉄砲水が飛び出してくる勢いにも似ていた。
そしてその前方、先ほどまで二列になって城郭前に横に長く展開していた皇太后軍の兵たちは、じわりじわりと後ろに下がることを余儀なくされていた。
ひゅん、と風を切る音とともに、敵の大将の横にいた人物が地面に転がった。
横を見ると、背丈の倍はあるような大弓を持った楊梅が敵を見据えている。
矢筒からもう一本、黒塗りの矢を取り出し番えて放つ。右手にいた馬上の人物が転げた。
(目に、この目に焼き付けなくては……!)
莉美の隣に立っているのは、ただの城主代理ではない。未来の皇帝だ。楊梅は三本目の矢を番えて、ゆったりと構えを取る。
「終わりだ。亜吾」
キリキリと引き絞った弦の音が途切れ、風を切るように矢が放たれる。一番立派な馬に乗っていた、金色の甲冑を着た人物の左手が吹き飛んだ。
次の瞬間、敵陣営に動揺が走る。
負けを想定していなかったせいで、指令が行き届かず退却命令が出ない。しかし、彼らは次の瞬間、わっと声を上げた。
左右にあった岩陰が急に溶けたかと思うと、凱泉率いる騎馬隊が両側から挟み撃ちしてきた。
退却だと誰かが叫ぶと同時に、儀杖兵たちが散り散りになって敗走し始めた。
前方と両側から挟まれてしまったせいで、皇太后軍は後ろに逃げていくしかない。凱泉たちが背面を封鎖しなかったのは、彼らを逃がすためだ。
勢いのまま敵兵たちを凱泉は追いかけていく。だいぶ遠くまで追いやったかと思うと、凱泉は数名の騎馬兵を引き連れて左に走り抜けていった。
「凱泉はこのまま西に向かって、避難している市民たちを連れ戻す。誰か、西の門の見張りに行け」
「是!」
近くにいた二人の兵士がそのまま城壁を駆けていく。
「さてと、次は……燕青」
呼ばれた燕青は神経質そうな細眉をぴくっと持ち上げた。
「お前は漣芙まで先回りだ。幽閉されている
「おいおいおいおい、人使いが荒いな! ほんとにやるつもりかよ。俺がこの二日間で、どれだけ漣芙とここを往復したと思ってんだよ!」
今散っていった皇太后軍は、漣芙に戻って行くしかない。そうなれば、体勢を立て直して再度楽芙を攻めて来かねない。
漣芙を奪還して反朝廷軍の城郭として再起するならば、皇太后軍が手薄かつ敗走中の今しかない。
「あちらはお前に任せるよ」
「俺はどう見たって戦闘に向かないっていうのに……」
「だから莉美の絵を漣芙に秘密裏に運んでおいたんじゃないか。それに、燕青はこの国で一番早く飛べる」
あきらめたように燕青は息を吐いた。莉美に向き直ると、きっと睨みつけてくる。
「莉美、俺の着物を丁重に畳んでおけ。くそ、久々に一張羅を着たと思ったのに……!」
意味がわからないでいると、燕青は紫紺の瞳を閉じる。風に長い裾がたなびいたと思った瞬間、それらが地面に落ちて燕青の姿が消えた。
「えっ!? 燕青様!?」
突然居なくなってしまった燕青を探そうとした時、「ここだ」と楊梅が籠手のついた手を伸ばしてくる。
そこには、手のひらよりも大きい燕が乗っていた。
「皺の無いように畳んでおけよ!」
燕の口から燕青の声が聞こえてきて、莉美は口をぽかんと開けてしまった。
「燕青、任せた」
楊梅が弾みをつけて腕を天に向けて伸ばすと、
風を掴まえるなり、目にも止まらない速さで北に飛んで行った。
「だから、神出鬼没だったんだ……」
「昔、わたしがまだ弓の腕がそれほどまでではなかった時、打ち落としてしまって……以来、燕青は馬よりも矢よりも早くなった」
燕青がいつか、楊梅の弓が上達したのは鳥を打ち落としたことに起因すると言っていたが、まさかその鳥が燕青本人のことだったとは。
「ひどい怪我をさせてしまったものだから、燕青はわたしに対してあんなだ。助かるけどな」
莉美は燕青の着物をすべて回収する。
「それを皺ひとつなく畳んだら、手伝いを頼めるか?」
「もちろんです。楊梅様は、今からは……?」
「生き残っている皇太后軍の兵たちを救い出してくる。味方になりたいと志願する者がいれば、快く迎え入れよう」
それは慈愛に満ちた勝者の余裕の笑みだ。
「ただし、調練は凱泉につけてもらう。本当の意味で血反吐を吐くのはこれからだ」
莉美は楊梅が本気で言っているのがわかる。
楊梅は国を獲りに行くのだ。
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