第40話
*
凱泉が素敵な紐をつけて落款印を持ってきてくれたのは翌朝すぐだ。それから莉美は府庫の仕事も絵を描くことも張り切った。
だが、凱泉が言っていたように、楊梅が居なくなった途端、絵の生まれる精度がまばらになった。
絵が生まれ出る時間に、差が生じるようになってしまっている。
これはもう、莉美だけの問題ではないのは確実だ。命を預けているからとか、そういうことでもないだろう。
「楊梅様が、私のことを必要としてくれているんだ。この世の中で、誰よりも強く……」
そう思うと、楊梅に安易に玉座に就けばいいなどと口走ったことが悔やまれた。
(私は莫迦だ。自分のことばっかりで、楊梅様にあたってしまうなんて)
求めてくれていたことにも気づかず、守られていることに安心しきっていたのだろう。
昨晩遅くに、彼が帰ってきているのは知っている。早く謝りたかったのだが、疲れているだろうから今朝は莉美のところに来ないかもしれない。
「駄目よね。自分が悪いのだから、私から謝りに行かなくちゃ」
もうとっくに夜は明けていた。そろそろ、鶏たちも声を上げ始めるだろう。
「急がないと、凱泉様が起きてきたら話ができなくなる」
半分駆けだすようにして楊梅の寝所に向かうと、ちょうど戸が開いて中から楊梅とその横で天天が身体を震わせていた。
大きく伸びをする姿を見た瞬間、莉美はさっと岩陰に隠れてしまった。
「勢いで来たけど、こんな朝っぱらから迷惑かな」
いきなり早朝から押しかけていくのは無礼かもしれない。そもそも、初めのうちは莉美だって、楊梅が早朝に来ると迷惑だと思っていた節があった。
であれば、彼だって同じかもしれないと考え始めたところで、ぐるるるという声が聞こえてくる。
はっとして横を見た時には、助走がついた天天にぴょーんと飛び掛かられて、地面に盛大に尻餅をついていた。
「わ、天天! ちょっ……」
久々に作者に出会って嬉しいのか、天天は大きな口を開けて莉美に甘噛みをし、頭をすり寄せてくる。
「なんか、大きくなってない?」
少し前までは楊梅の両手で抱えあげられるほどだったはずなのに、今の天天は抱えられる許容範囲を超えていた。
そんな巨躯に力いっぱいすり寄られて、莉美は立ち上がることができない。
「……莉美?」
天天を追いかけてきた楊梅は、巨大な神獣に捕まえられている莉美を見るなり目をしばたたかせる。
「楊梅様……おはようございます」
もっときちんとした挨拶をしたかったのだが、ペロンと顔を舐められながら莉美は気まずくて苦笑いになった。
「天天、おいで。莉美が困っている」
楊梅の言葉を理解した天天は、素直に楊梅の足元に下がった。楊梅は地面に倒れっぱなしの莉美に手を伸ばすと、抱え起こしてくれる。
「すみません、こんな登場をするはずじゃなかったんですけど」
「いいんだ。お前に嫌われたかと心配していたから嬉しい」
「嫌うなんて、そんなことありません」
楊梅は、着ていた
「莉美、冷えるから中に……」
「ここで大丈夫です」
莉美は深呼吸をすると、楊梅を思いきり見上げた。
「謝りに来たんです。楊梅様のお気持ちも知らずに、勝手なことを言ってしまい申し訳ありません」
腰を折って深々と礼をすると、楊梅はため息を吐いた。
「楊梅様の背負う重圧は、私の比ではないはずなのに……申し訳ありません」
両肩に楊梅の手が乗せられた。
「それを言いに来てくれたのか?」
謝る以外で、莉美がここに来る理由はない。
「もっと早く謝りたかったんですが、遠征に行ってしまわれたので。ご迷惑でしたよね。朝からお騒がせしました」
帰りますからと羽織を返そうとすると、手を掴まれた。
「風邪を引いてしまう、持っていきなさい。それはお前に施与する」
「このような高級なもの困ります!」
莉美が大慌てになると、楊梅はふふふっと笑い始めた。あまりにも嬉しそうに笑うものだから、莉美のほうがぎょっとしたくらいだ。
その笑顔から、怒っているわけでも嫌がらせでもないのは理解できた。
「これは嫌がらせになってしまうのか。わたしは、莉美を困らせるのが得意なようだ」
「……そうみたいです」
「お前をがっかりさせてしまったかもしれないと、気が気ではなかった」
楊梅がそんなことを言い始めるとは思っていなくて、莉美は少しばかり驚いた。
「ただの臣下に、そこまで肩入れしなくてもよろしいかと」
「違う、莉美だからだ」
答えの意味がわからず莉美は首をかしげる。
「お前は、わたしの右手を否定しなかった」
楊梅が長手甲で覆った右手を出す。
「美しいと言ってくれた。その気持ちが嬉しい」
「本当のことを言っただけです」
「忖度がないことくらいわかっている。だから、本当に救われた。それに、お前の言っていることは正しい。本当なら可能性があるというのなら、宮廷に一人でも向かわせるべきだし、それができないなら一緒に行くか、わたしが玉座を……」
楊梅は莉美を見つめて、ぎゅっと両手を握ってきた。
「意気地がないな、わたしも」
莉美は楊梅の手を握り返した。
「なぜ皇太子だと言わないのかと言われれば、ひとえに怖いからだ。もし皇帝になりたいと望んだら、多くの人間が血を流す」
すんなりと、彼が玉座に就けることはない。太子としての地位もなく、そして今は兄が玉座に就いている。そして、最大の敵は皇太后だ。それぞれを打ち倒さねば、楊梅が王になる道はない。
「そうやって必死でつかんだ玉座にすがり、傲慢になったとしたら……。たとえば、目の前の臣下に腹を斬れと言えば、相手はそうせざるを得ない。そういう力を持つことになるのが怖い」
「それが、皇帝というものなのでしょう」
「そうだ。そういった欲求に打ち勝てた賢帝は、幾人もいない。わたしが力に溺れないと、誰が証明できる? こんなにも……皇太后を捻り潰してやりたいと思っているのに」
皇太后を、順当な法で裁くなど。そんな生ぬるいもので済むものか。そう楊梅の金緑の瞳が怒りと混沌に滲んでいる。
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