第25話

 それから数日後。


 莉美は休みの日だが早起きしていた。府庫番の仕事は休んだとしても、やらなくてはならないことは多い。約束の期限まで、あと一ヶ月だ。

 朝靄が立ち込める中、小屋の外に出て伸びをする。寒さで頭の中がしゃきんとしてきたところで、大柄な人物がこちらに向かって歩いてくるのが見える。


「楊梅様」


 莉美の声に気がついたのか、人影は一瞬立ち止まった。楊梅に間違いないと確信して、莉美は駆け出して彼の元に向かう。顔を見るのは数日ぶりだ。


「おはようございます。こんな早朝に、どうされました?」

「おはよう、莉美」


 楊梅は挨拶すると小屋に向かってしまう。


「あ、あの楊梅様!?」

「寒いから中に入れてくれ」


 もちろん莉美が断れるはずもない。

 肩を落としてから、大きな背中の後を追いかけた。ここ数日、楊梅は兵とともに野戦の訓練で遠征に出かけていた。

 まさか燕青の言っていたように戦が近いのかと思ったが、どうやらこれは楊梅の習慣らしく、お遊びに近いもののようだ。


「――その後、進展はどうだ?」

「墨や紙の種類を変えたり、描く時間や順序を変更したりしてみたのですが、生まれるのに規則性があるようには思えません」


 それだけにとどまらず、寺院からもらってきてもらった灰を墨に混ぜたり、経を読んでから描いてみたりもした。

 がしかし、着物と顔を真っ黒にすることに変わりない日々だ。


「描くだけでなく、書物を読ませていただいているのですが、解決策は未だ見つかってなくて」


 燕青も手伝ってくれているのだが、一向に手がかりが見つかる気配はない。


「そうか。ところで、書いた文字が飛んで伝書の代わりになった二千年前の仙星の話を知っているか?」


 莉美の謎の究明を手伝うと言っていたのを、楊梅は実行してくれていたようだ。莉美はつい聞きたくて身を乗り出した。


「文字を書くたびに、それらが飛び跳ねるので困っていたそうだ」


 まるで、今の莉美と同じだ。


「男は宮廷に赴いてから、自分の意志で文字を動かせるようになったという」

「では、宮廷に行けば私の力も安定する可能性があるということですね」

「だが男の力が本当の意味で安定したのは、当時の丞相と『友盃ゆうはい』を交わした後らしい」


 友盃の儀とは、黄龍廟に赴き、お互い尽力しあう旨を語って酒を飲むだけのものであり、呪術的な要素はない。

 仙星でなくても、友人同士でも家族間でも行ういわば儀式風の口約束みたいなものだ。


「その仙星と丞相とが強い絆で結ばれたのだろう。仙星は皇帝とだけ友となるわけではないらしい」

「では、相手が重要ということもあるわけですね」

「だな。ただし、近くにいれば多少は安定するのだろう。友盃の儀をする必要ない場合ももちろんある」


 ほんの一例だが、参考になればと思ってと楊梅は締めくくった。


「莉美の場合は、ほかに方法がないか再度考えてみよう」


 話を聞いていた莉美は、一瞬考えてから口を開いた。


「でしたら、お手すきの時に府庫にいらしていただけませんか? 今のお話を聞いて、試したいことがあるんです」


 楊梅はすぐ頷いてくれた。それから腕を組み直して「あ」と小さく声を上げる。


「お前に渡したいものがあって尋ねたのだった」


 莉美が首を傾げると、楊梅は上等な絹の衣の袂から小さな巾着を取り出して渡してくる。


「これ……まさか麦ですか?」

「餓鬼に渡してくれ。莉美が絵を潰さなくていいように、わたしも一緒に願おうと思ったのだ」


 あまりのことに莉美は胸に込み上げて来るなにかがあった。


「わたしも毎朝ここに来る。一緒に撒こう」

「はい! えっ、毎日ですか?」

「……嫌なのか?」


 急に拗ねたような顔をされて、莉美は「とんでもない」と大きく手を横に振る。


「断ったって、楊梅様は来ちゃいますし」

「そうだな。よくわたしのことがわかってきたようだ」


 莉美は頷いた。


「楊梅様が、私のことを守ってくださっているのはわかっています」

「そういうのは、わからなくてもいいんだがな」


 楊梅は困ったように微笑んだ。

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