第12話

「楊梅様、何を描きましょう?」

「そうだな……大きくないものがいい。虫はどうだ?」


 莉美は、頷いた。

 自身の道具を行李から取り出すと、書桌に並べて墨を摺り始める。久しぶりの絵を描く感触に、気持ちが浮ついてくると同時に不安も押し寄せてきた。


「そう緊張せずともよい。中院にわに居ても困らない小さい虫にすれば良い。そうだな、蟻なら困らないんじゃないか?」


 開け放った戸口の外では、小さな黒い生き物が地面を列になって動いている。それを見て思いついたのだろう。


「かしこまりました。では、蟻を描きます」


 莉美は念のため、地面に座り込む。土間に正座をすると、紙に文鎮を載せて、筆に墨を浸した。

 楊梅は横で地面に胡坐をかいて座る。偉い人だというのに、偉ぶらないところが莉美にしては新鮮だったが、むずがゆさも感じる。


「あの、向こうでお座りになっていていただけると助かるのですが」

「近くで見たい」

「では、書桌で描きます」

「ここで良い」


 遠くを通りがかった使用人たちが、地面に座り込んでいる莉美と楊梅を見て、なにか小言を言っているのが見えた。


「莉美、集中しろ」


 言われて莉美は白い紙の一点を見つめた。描きたいものを想像すると、その姿がまるで浮かび上がってくるように感じる。今だ、と思った瞬間に筆を走らせると、すぐさま蟻の列が白い紙に描きあがっていた。


「……ふぅ……」

「素晴らしいな」


 まるで生きているみたいだ、と楊梅が言い終わらないうちに、蟻の絵がぷくっと膨らんできた。


「あっ!」


 見ているうちに、墨が盛り上がってくるとそれは紙から生れ落ちて、てくてく歩き始めてしまった。


「へえ!」


 楊梅は目を円くしながらそれをじっくり見ていた。指先で触れて「本物だ」と驚いている。


「失敗ですね。すみません。すぐに処理します」

「潰すのか?」

「ええ、まあ……」


 楊梅が不服そうなので、莉美は振り上げていた手をいったん止めた。


「時間が経てば、一応消えます」


 生れ出た絵は、八刻(約四時間)、長くて半日 で消えることがわかっている。


「ならば、このままでいい」

「部屋の中を這い回られるのは困るので、掃き出しても?」

「かまわない」


 莉美は箒を持ってくると、それらを外に追い出した。


「うん、莉美。お前は仙星に間違いない」

「そうですか?」

「ああ。黒龍国に、屏風に描いた虎が抜け出してきたという記述があったという情報を手に入れた。絵を描いたのは、仙星だそうだ」


 今度は莉美が目を円くした。ほかの国でも、そういった例があると初めて知ったのだ。楊梅は「五龍大陸中にたくさんある」と付け加える。


「間違いない。お前は、仙の力を持っている」

「では……」

「確実に、その力の使い道がある。そして、力を求めている人がいる。お前は、この国にとって、かけがえのない存在だ」


 確信をもって言われると、胸のつかえがとれたような気がした。

 なにかの修業をしたわけでもないのに、ある日突然おかしな力が芽生えることが、その証拠だと楊梅は教えてくれた。


「これも何かの巡り逢わせだ。莉美、精進せよ。必ず、その力を得てよかったと思える時が来る 」


 失敗したのに、こんなに晴れ晴れとした気持ちになったのは初めてだ。莉美は楊梅に揖拝していた。

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