納豆

rainbackwriter

末路へ

 園児の頃は、それなりにいたずらをしました。それなりが一般のどのあたりになるか分かりませんが、私の人生を通して見ると、可愛いものだったと思います。

 網状のフェンスを隔てて、園の隣には寺がありました。そのフェンスの破れたところから寺に侵入し、お供えもののミカンや団子を食べたり、本堂に入って、どかどかと小坊主が綺麗に磨いた艶のある廊下を走り回ったりました。アマチャヅル茶の入った魔法瓶を倒して床にこぼし、住職にきつく叱られました。釈迦を冒涜して、こっぴどく怒られたこともあります。

 私は園で過ごす、昼寝の時間が嫌いでした。なぜこんなことに、人生で取り戻せない大切なもののひとつである時間を、無駄に過ごさなければいけないのか疑問でした。私は眠れずにただぼーっとして、天井を見つめていました。タオルケットをほとんど帯のように腹の辺りだけに掛け、ほかの人間を押しのけるように大の字に転がっていた夏を、私はよく覚えています。

 私は工作が得意でした。何かを作ると、それはいつも保母さんたちに大変よくほめられました。最後にほめられた記憶は、クリスマスの飾りに帽子のような丸く中心が高くなったものを作ったときです。

 私の園には鼓笛隊がありました。友達は小太鼓、大太鼓、鉄琴など、重要なパートをまかされて演奏していました。私はあまりにも音楽のセンスがなかったようで、普通は女の子が担当する旗振りをやらされました。その旗振りはそれなりにこなした記憶があります。授業でやらされたピアニカ、または鍵盤ハーモニカと言うのでしょうか。これもまったく滅茶苦茶で、泣きながら立たされた悔しい思い出があります。

 小学校に入ると、いじめが始まりました。それはいたって普通に、静かに日が落ちて夕焼けが訪れるように始まりました。もともと気が弱かったのです。良く言えば他人にやさしすぎたのかも知れません。体育があまりにもできなかったせいもあると思います。さかのぼりも野球もサッカーもてんでだめでした。いじめはエスカレートしていきました。私は誰にも助けを乞いませんでした。私が助けを乞うことで、相手の迷惑になることを気にしていたのです。相手が新たないじめの的になるかも知れないとも思いました。この気持ちはのちのちにも引き継がれました。

 中学は、三つの小学校の生徒が集まって編成されました。それは、いじめてくる生徒が必然的に増えることを意味していました。誰も助けてはくれませんでした。助けてくれる人は増えませんでした。

 仲良くしてくれる友達は何人かいましたが、みんなには、いじめられていることを気づかれないように努力しました。同情されるのが嫌だったのかも知れません。弱い人間だと思われるのが恥ずかしかったのかも知れません。

 給食の時間は四人の班を作って長方形に机をくっつけて食べることになっていたのですが、避けられて一人で食べたことがあります。四つのピースが一部欠け、私だけ離れ小島のようでした。でも、それは程なくなくなりました。私は特に何かしたわけではないので、なぜまた元に戻ったのかわかりませんでした。いじめる方にもいろいろ事情があるのでしょう。

 私は教室で、みんなの見ている前でリストカットをしました。まだリストカットという言葉がない時代でした。ただ教室で腕を切って血を流している頭のおかしな人でした。私は自由帳という枠もマスもないノートに血文字を書いていました。何を書いたか覚えていませんが、中学生にありがちな格好いいと思った響きの英単語あたりだったと思います。

 私は教室にあったスッポン、つまり排水溝や便所の詰まりをとる道具ですが、それで水を飲むという奇行をしました。掲示板に刺さった画鋲をピアスだと言って耳たぶに刺し、安全ピンを腕に刺して喜んでいました。喜んでいたのではなく、喜んでいるふりをしていたのかも知れません。そういった形でしか自分の存在を表現できなかったのだと思います。自分自身の内側に溜まった外部への攻撃性を自分自身で解決したのだと思います。今となってはその時の気持ちを思い出すことができません。脳が思い出さないようにストップをかけているのかも知れません。

 そのころ、破壊の衝動が自分にあることに気づきました。爆薬に興味を持ち、さまざまな文献を調べました。もともと工作が得意だったので、自作の爆弾と発火装置を使って、小さい規模ですが爆破実験を何度がやりました。

 高校に入ると、まったく別のグループからいじめを受けるようになりました。きっかけは雪の日に投げつけられた雪の塊でした。投げつけられたとき、てめえとか、この野郎とか、文句のひとつでも言っていたら結果は変わっていたのかも知れません。でも気の弱い私は、なんだよ、やめてよ、と言うのが精一杯でした。帰りの電車の中で、私は視界が真っ白になりました。雪の白さではありません。からだがしびれるようになり、視界を白い粒が段々と埋めつくしていくのです。電車の音は段々と遠くなり、やがて遥か遠くから聞こえてくるようになりました。これは精神的に追い込まれた人間が迎える現象なのかと思いました。こんな体験は後にも先にもこの一度だけでした。

 それから、いじめは本格的に始まりました。体育の時間にはバスケットボールを身体中に投げつけられ、休み時間の教室では竹刀で頭とからだを容赦なく殴られ、ベニヤか何かの薄い板を貼り合わせて作られたゴミ箱を頭から被せられ、そのままの状態で殴る蹴るの暴行を受けました。痛いというより、つらいというより、悲しいというより、情けない気持ちになりました。教室にいるほかの人間はただ見ているばかりでした。でも彼らを責める気持ちにはなりませんでした。私がその立場になったら同じように何も出来なかったでしょう。誰にも見放された私は、たいそうみじめに見えたことでしょう。その時もっとも身を切られるようだったのは、その現場を憧れの、好きな女の子に見られていたことでした。彼女はストレートの長い漆黒の髪が印象的な、美しさのなかに幼さを隠しきれていない子でした。

 彼女は私に普通に接してくれました。美術の時間はたまたま長く話す機会があったのですが、これは私の心が安らぐ唯一の時間でした。文化祭の美少女コンテストで学年二位だったにもかかわらず、高飛車になることはなく、鼻にかけることもなく、常にフラットに私の言葉に対して真摯に受け答えをしてくれました。

 一方、普段の私をとりまく環境は、よりひどくなっていました。いじめは、ついに金銭を要求されるところまできていました。ジュースなどを買いに走らされ、おごらされることは何度もありましたし、やがて直接現金を要求されるようになったのです。いかさまのゲームを強要され、負けたときには数万円を払わされました。私がアルバイトで少しずつ貯めたお金が、彼らのタバコ代、パチンコ代、酒代、その他に消えていきました。私は何をやっているのだろうと、とてつもなく虚しい気持ちになりました。

 夏休みに入り、数少ない仲間とキャンプをやりました。そのときはお酒を持ってきていたので、高校生のくせにみんなで楽しい気分に酔いしれました。やがて酔いが深くなると、胸が苦しくなってきました。何かを吐き出したくてどうしようもない気持ちになりました。私は急に泣き出しました。仲間は、なんだ、なんだと心配そうにして集まってきました。私は実は……と、いじめられていることを告白してしまいました。小学生の頃と同じように、そのときまでは余計な心配をかけないように、何もなかったように仲間の前では振る舞っていたのです。でも、その壁は飲酒という行為によって簡単に破壊されました。私は今までのひどい仕打ちを仲間に打ち明けました。仲間は、何でもっと早く言ってくれなかったのかと言って、励まし、味方についてくれました。

 しかし、それは程なく裏切られました。その仲間、仲間と思っていた誰かが、いじめグループに告げ口をしたのです。それをきっかけに、さらにいじめはひどくなりました。今でも告げ口をした人間は誰か分かりません。ただ、人間不信になったことは確かです。私は自分の壁をより高く築き直しました。

 私は高校をやめる決意をしました。決意が揺らがないよう、庭にあった一斗缶に教科書を放り投げ、すべてを焼き尽くしてしまいました。私はそのとき立ち上った炎と、紙が燃えるにおいをはっきりと覚えています。

 まったく意外なことでした。私の味方をしてくれていた、数少ない、四、五人のクラスメイトが、わざわざ私のバイト先まで、学校に出てこい、俺たちが何とかしてやる、と言いに来てくれたことです。一度も来たことのない私の街まで、遠くから来てくれた人もいました。私はその心遣いをとても嬉しく思い、胸の奥から何かがこみあげるのを感じました。少し涙ぐんでいたと思います。しかし、私の決意が変わることはありませんでした。彼らのうちの誰かに、以前のように裏切られる恐怖のほうが勝っていたのです。

 私には心残りがひとつだけありました。片思いの彼女の事です。私は後悔のないよう、学校を去る前に告白をしようと思いました。私のような情けない男になびく女性などいないと思いましたが、この結果によっては、高校にとどまるかも知れない、という微かな思いがありました。

 私は、ある放課後の最寄り駅で、たまたまひとりでホームに立っている彼女を見つけました。それは、伝えるべきタイミングを示唆しているようでした。私は静かに歩みより、彼女の左後方から声をかけました。彼女は驚いて、私の方に向き直りました。少し、どもりながら、言葉に、詰まりながら、告白をしました。そのとききっと、私の心臓は通常の二倍くらいの速度で鼓動をしていたと思います。彼女の返事は、あっさりと、明日まで答えを待ってくれ、というものでした。

 翌日、私はその結果を学校の廊下で聞くことになりました。その結果は、今までどおり友達でいましょう、というものでした。使い古された断りの文句でした。その日を最後に、私は二度と学校の門をくぐることはありませんでした。

 親と高校の担任と相談の結果、通信制の高校に編入することになりました。親と担任には、いじめがあったことは伝えませんでした。私は全日制のシステムが、からだに合わないという理由をでっち上げました。

 学校に通っている人間が夏休みの頃、自転車で幹線道路を走っていたとき、私は、いじめの当事者とその仲間にばったり会ってしまいました。私は冷や汗が全身に吹き出すのが分かりました。彼らは、飯を食いにいくから金を出せ、と詰め寄ってきました。そのまま自転車で逃げてしまおうかとも思いましたが、思うだけでその場に立ち止まってしまいました。金銭の要求を、私は断れませんでした。今になってみれば、警察に相談するなり、弁護士に相談するなり、他に頼る手段があったと思います。でも従わなければ、親や友人に今まで隠していた事実を知られてしまいます。いろいろと面倒な事になるのは目に見えています。それはどうしても避けたかったのです。心配をかけるより、わかりやすく金で解決することを選びました。

 それから数年、私は普通に就職し世間一般の生活を過ごしました。過ごせるはずだったのです。しかし、それは長くは続きませんでした。ある飲食店で彼ら、いじめグループに再び会ってしまったのです。彼らより私が先に気づきました。私は昔と相当見た目が変わっていたので、気づかないだろう、気づかないでくれと願っていました。しかし、彼らのうちひとりが気づいてしまったのです。話しかけられたとき、別人を装えば良かったのでしょう。元来うまく嘘を扱えず気の弱い私は素直に自分の身分を明かしてしまいました。彼らはさも仲の良い友達のように肩を無理矢理組んできました。私はどうして良いのか分からず、その流れに身を任すしかありませんでした。雪を投げられたときに言うべきだった、てめえ、とか、この野郎とか言って、歯向かう意思を伝えれば良かったのでしょうか。でも私にはそんなことはできませんでした。

 そのとき、グループのなかでいちばん性質の悪い奴が、テーブルにあった氷の入った水を私の頭にかけて、げらげらと笑い出しました。他の奴らも笑いながら各々の冷やを私の頭にかけてきました。私が生きているなかでもっとも屈辱的でみじめな時間でした。店員は何の反応もしませんでした。あとで濡れた床を拭くのが面倒だ、という顔でした。そのとき、私のなかで何かが切れました。私はびしょ濡れのまま、濡れて重くなった衣服を引きずり、湿った手で会計をして車に乗り込みました。車のシートに水が染み込んでいきました。そのあいだ、彼らの笑い声が止まることはありませんでした。車のドアを閉めても、途切れ途切れに聞こえてくる音の断片は私の心をえぐりました。

 私はその日から、ある計画をたてました。あらゆる手を使って彼らの家を調べ上げました。追うものの強みをみせてやろうと思いました。私は中学の頃に覚えた知識で、爆弾と発火装置を作ることにしました。今回は遊びではありません。殺すための爆弾です。慎重に火薬や部品を選び、殺傷能力を個人で作れる極限まで高め、廃工場で爆破のシミュレーションを繰り返しました。成果は実り、確実に人を殺めるクオリティまで到達しました。

 ついにそのときはやってきました。私は彼らの家に、寝静まった夜にひとつずつ爆弾を仕掛ていきました。家を囲うように爆弾と電線を張り巡らせ、家もろとも人間を粉々にするように計算して配置しました。ターゲットのなかには家族がいる奴がいます。老人や嫁や子供、赤ん坊がいる奴もいます。しかし、そんなことは関係ありません。運が悪かったと思ってください。分別なんかありません。分別があるくらいなら、殺人なんかしようと思いません。これが人殺しの心理状態なのでしょう。

 発火装置は、三台のスマートフォンに繋げました。再び得意の工作をいかし、メールが届いた瞬間に、すべての発火装置が作動するようなシステムを考えました。起爆スイッチとなる死のメールを、カーボンコピーで三台に一斉送信するのです。メールを受信した三台は、一瞬で人間ともども跡形もなく破壊されるでしょう。

 私は携帯を手に取り、死を遠隔操作する喜びに恍惚の表情を浮かべました。ロックのウイスキーを傾け、ひとくち含みました。爆音と共に燃え上がる光景を想像しながら、送信ボタンにゆっくり、指をかざしては離し、またかざしては離し、もったいぶるように、深く息を吐いて、ついに送信ボタンを押しました。

 私の指は震えていました。全身が内側からこみ上げるような鳥肌に包まれました。私は今までの人生で、これほどの充実感を味わったことはありません。歪んだ心なのはわかっています。歪んでいるからこそ、つかめる幸福もあるのです。

 深呼吸をしました。冬の乾燥した空気が鼻の奥を刺すようでした。これを心地よいと思うのは、たぶん今日が最後でしょう。私は冷え冷えとした蒲団に入ります。しばらくすれば、体温が自らを温めるでしょう。十数年越しの、心地よい眠りを迎えられそうです。そのあとのことは、起きてから考えようと思います。朝はきっと、同時多発爆発事件のニュースを見ながら、おいしい朝食を食べていると思います。

 白米に、賞味期限が切れそうな納豆をかけて。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

納豆 rainbackwriter @melodysaladbowl

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ