遺棄られ幼女の宝物

やっつけ茶っ太郎

プロローグ

ガイゼス神聖帝国聖教審議院所属正道修道院『浄化の空』

この、所属名にすら顕示欲が滲み出る修道院は、帝国の北端にある連立した高い山脈群の山裾を1kmほど上った場所に建てられていた。

山脈を斜めに沿う形で10kmもの登山道が作られ、修道院の下は魔の森と呼ばれる魔獣の住処だ。


修道院との名が付いてはいるが、実情は問題を起こしたか邪魔になって排除された貴族女性を収容する、体の良い隔離・処分施設であった。

帝国貴族は相手が平民なら理由を付けて殺しても大して問題にされないが、高貴とされる貴族の血縁者殺害は罪を問われてしまう。

この修道院の生活環境は過酷で食料も赤貧、つまり『殺害じゃなく病死』と言い逃れるための施設なのだ。


そんな冷酷な修道院に、五歳の幼女が暮らしていた。

この幼女は誕生後に母である侯爵家正室が不義を疑われ、侯爵家の血統を疑問視されて、一歳にならないうちにここに送られていた。

だが、侯爵家の血統の可能性もあるために、最低限生きて行けるだけの食事量は与えられていた。


しかしその最低限の食事も、どうやらこれまでのようだ。

この施設側職員であるシスターと院長の会話を、院長室のドア越しに盗み聞いた幼女は、修道院からの脱出を余儀なくされた。


たまたま院長室の前を通りがかった時に『何ですって!?』と大声が聞こえ、幼女は興味を持ってドアに耳を当てた。

聞こえてきた内容は、幼女が愕然とするものだった。


幼女の父かもしれない、正室の不義相手と疑われる伯爵が刺殺されたのだ。

同じく父かもしれない侯爵家の当主によって。


二人は帝室主催の全貴族家が参加するパーティーで顔を合わせ、言い争いの末に起こった衆人環視の中での犯行。

お互いに酔っていて自制が利かなかったのだろうが、とんでもない醜聞である。

しかも正室の不義は、状況的に疑わしいだけで確証はないのに。

帝室主催のパーティーでのこの愚行、侯爵家の没落は免れないだろう。


そして幼女側にも問題はあった。

幼女は物心つく前からおかしな夢を見続けていた。

とても現実感のある、だがこの世界の現実とはかけ離れた夢だ。


夜だけでなく日中でも、気を緩めると白昼夢のように見えてくる。

そんな時に声を掛けられると、夢の世界の自分として応えてしまう。

いきなり意味不明な言葉を発したり、靴を脱いで部屋に入ったりする。

そのため、周囲からは悪魔付きではないかと疑われていた。


幼女がおかしな行動を取るたび、院長たちは馬鞭で叩き、懲罰房に入れ食事を抜く。

侯爵家の正当な血筋の可能性があってこれなのだ。

家が没落すればどうなるかなど、明白なことだ。

さらに、幼女の修道女名の名付け親となって好意的だった元高位貴族の修道女も、半年前に亡くなっているため幼女を擁護する者もいない。


院長は『偉大なる神の御心のままに』と言っていた。

この修道院においてこの言葉は『死なせる』という隠語なのだ。


シスターたちは幼女には理解不能だろうと、幼女の前でもこの言葉を何度か使っていた。

だが、幼女は夢の世界の知識から、その隠語の意味に気付いていた。

今回、自分も監禁されての絶食餓死コース決定ということにも。


幼女は元々過酷な環境の修道院を脱出するつもりではいたが、身体が成長してある程度体力が付いた後の予定だった。

今できている準備など、逃走ルートの想定程度だ。


この修道院へのアクセスは、たった一本の岩肌を這うような登山道しかない。

修道院を脱出しても、この道を使って逃げればすぐに発見されてしまう。

逃走以前に、修道院はコの字型に高い城壁で囲まれており、門には常に見張りがいて施錠までされているため、脱出すら容易ではない。


脱出の可能性が高いのは、城壁の無い修道院裏側の崖だ。

ここは渓谷の南面で、20mほど下には急流が流れている。

急流には、大岩がごろごろした幅の狭い岸がある。

この岸を使って逃げた方が、想定外の逃走ルートになる上に、大岩が遮蔽物になって見つかりにくい。

幼女は白昼夢の知識から、そう考えていた。


急流は水深が浅すぎて飛び込むなど自殺行為だが、崖上には釣瓶井戸のような取水場が設けられている。

幼女は20mのロープを降りられる体力が付けば、ここから逃げようと考えていた。


しかし急遽脱出を余儀なくされた幼女は、人目を避けて取水場に来た。

だが、今の彼女には20mのロープを伝って降りる握力も体力も無い。

幼女は取水場の床に置かれていた桶に何個か石を入れ、川に下ろした。

この作業だけでも、五歳になったばかりのガリガリ幼女には一苦労だ。


次に、滑車の逆側に上がって来た桶に右足を入れ、覚悟を決めて右足に体重を掛けた。

床に空いた穴から、桶に片足を突っ込んだ幼女が降りて行く。

最初は程よい降下速度だったが、すぐにスピードが上がってしまった。

幼女は重力加速度を甘く見ていたようだ。


このままでは川底に桶ごと衝突すると感じた幼女。

慌てて桶に入れた右足を蹴った。

だが、ロープにぶら下がっているだけの桶は、蹴られた力を横に逃がす。

幼女は水面と並行な体制になり、水面に叩きつけられた。


だが、悪い事ばかりではない。

全身で衝撃を受けたために力が分散されて骨折はせず、水平に水の抵抗を受けたことで川底の岩に叩きつけられずに済んだのだ。


しかし、幸運は長続きしない。

五歳の幼女には、激流を泳ぐほどの技術も力も無かった。

季節は六月、山から流れる川の水はかなり冷たく、体温も徐々に低下していく。

泳ごうとしても時折水面に顔を出して息をするのが精いっぱいで、川底の割れた石で身体の各部に裂傷を負い、さらに大岩にぶつかって四肢を骨折しながら流れて行った。


そしてとどめとなったのが、落差50mほどの滝。

その下は大きな湖になっていた。

幼女は湖の滝つぼに叩きつけられ、強烈な水流によって水底に運ばれて行った。

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