第9話 揺れる大地

 オーギュストがつけてくれた侍女のアメリは働き者だった。

 朝は必ずニーナより先に起きて、ニーナが寝室のドアを開けるまで部屋に控え、夜もまたニーナが寝室に入るまで一緒にいて、ニーナの世話をしてくれた。

 侍女としては当たり前の行動かもしれなかったが、今までまともな侍女がついたことのないニーナとしてはアメリに感謝しきりだった。

 赤銅色の髪とそばかすを浮かべた愛嬌のある容姿をしているが、内面は冷静沈着で、アメリが感情を表現するところをニーナは見たことがなかった。無駄口を叩くこともない。だからといってしゃべらないということはなく、仕事の手が空けば、積極的にニーナにザフィーラのことを教えてくれたり、城の中を案内してくれた。そのおかげで城に来て三日目にしてニーナは大体の場所がわかるようになった。

 その中には図書館や美術館もあった。マリアンヌから自由に閲覧していい許可が出ているという。そのため、ニーナは図書館から刺繍の本をいくつか借りてきて、昼間は刺繍をして過ごすようになった。材料はアメリが用意してくれた。

 刺繍はニーナの数少ない特技の一つだった。そして、淑女の嗜みでもある。

 帝国では社交に刺繍スキルは必須だった。仲良くなりたい令嬢や子息に自ら刺繍したハンカチを渡して好意を伝える習慣が帝国貴族にはあるのだ。

 ニーナ自身が社交の場に出ることはなかったものの、ミーナの分を代わりに刺繍することはよくあった。最初はミーナのために刺繍をすると両親が喜んでくれるから始めたことだったが、いつの間にかニーナがやって当然の仕事になっていた。ミーナは刺繍が嫌いで自分では絶対にしようとしなかった。

 おかげで帝国貴族の中ではちょっとした評判になるまで上達した。ただし、刺繍をしたのはミーナであるということになっていたが。


「やっと一枚完成ね」


 ニーナは満足げに自らが刺繍したスタイを掲げた。初めて挑戦した意匠だったが、なんとか本に載っているのと同じように見えるものが出来上がった。

 ニーナが城に来てから五日が経っていた。


「お上手ですね。こんなに正確に刺繍できるなんて。しかも早い」


 アメリがニーナの手元を覗き込んだ。

 その意匠はアメリが教えてくれたものだった。月桂樹の葉を並べた意匠で、九つ葉を続けたら十番目は花が入り、それを繰り返す。

 呪いから身を護る力のある意匠で、直接身につけるものに刺繍してプレゼントすると喜ばれるという。


『すごい! とてもいい出来だよ。さあ、早く僕につけて』


 ガビリエルが灰色の瞳を輝かせて胸を張った。

 この赤ん坊はニーナの部屋にいるのがすっかりお馴染みになってしまった。

 最初は一緒に遊んで欲しいとせがんでいたけれど、ここ数日はニーナが刺繍する姿を見るのに夢中になっている。針が何度も上下して、少しずつ絵柄を完成させていく様が面白いらしかった。


「はい、どうぞ。お待たせしました」


 ニーナはガブリエルにスタイをつけようと席を立った。

 ふと、目の端を横切ったものに気がついて窓の外を見た。窓に一粒、雫が垂れる。最初は一粒、二粒だったものが、あっという間に増えて窓を覆っていく。


「雨が降り始めたわ」


 その時だ。大きな鐘の音が響いた。

 鐘の音と共に城が淡い空色をした半透明の膜に覆われていく。それと同時に、城下町の建物の屋根には天幕が張られ、やがて、全ての屋根が天幕で見えなくなってしまった。


「雨季が始まったようですね」


 アメリがニーナと一緒に空を見上げた。


「これから長い雨の季節になります」

「陛下から聞いたわ。この国の秘密に関わる季節だと」


 オーギュストはルイから説明があるだろうと言っていたが、初日以来、ルイがニーナに会いに来ることはなかった。ニーナへの周りの態度を見るに、婚約破棄については陛下にまだ話していないようだ。

 アメリが窓の外に目を向けたまま言った。


「ザフィーラの雨は亡くなった女王から呪われているのです」

「それってどういう……」


 それ以上言葉を続けることができなかった。

 地面が激しく縦に揺れて、ニーナはカウチに尻もちをついた。アメリもバランスを崩して、たららを踏んだあと膝をつき、カウチのアームに寄りかかった。

 ローテーブルに置いてあったカップとソーサがバラバラに揺れて、床に落ちて割れた。足が車輪になっているワゴンは勝手に動き出し、上に載っていたティーポットやシュガーポットが倒れて中身がこぼれた。壁際にあった本棚からは本が落ち、そのうち本棚自体も倒れて本の上に覆いかぶさった。

 揺れがおさまったときには、部屋がひどい状態になっていた。


「ガビーは?!」


 ニーナは部屋中に急いで目を走らせた。


『はいはーい』


 ガブリエルがニーナの目の前をくるくる宙返りしながら飛んだ。ずっと浮かんでいたおかげで怪我はなかったようだ。

 ノックと共に近衛兵がドアを開けた。


「大丈夫ですか?」

「ええ、なんとか。私たちに怪我はありません」


 アメリが立ち上がると返事をした。


「これから兵の多くが城を離れることになります。個別に護衛をすることになるので、なるべく部屋から出ないようにお願いします」

「わかりました」


 ニーナがうなずくと近衛兵はドアを閉めた。

 再び鐘の音がする。窓から城門の方を見下ろすと、五、六人の騎馬が町の方へと走り去っていくのが見えた。

 町と目を向けたとき、異変に気がついた。


「天幕が崩れているわ」

「何ですって?!」


 アメリが窓の外を凝視する。

 天幕のうちいくつかが崩れて、下にあった建物や家の屋根が露出していた。雨が容赦なく屋根を濡らしていく。


「雨季が始まったばかりだというのにこんなことになるなんて……これはかなり困ったことになるかもしれません」


 大きな雫が城を覆う膜を伝っていくつも下へ垂れていく。まるで滝のように流れている。

 ニーナは雨が降りしきる様に言いようのない不安が胸に湧き上がった。

 空は遠くが霞んで見えるほどのドシャ降りになっていった。

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