第7話 ガブリエル
ニーナは部屋に備え付けられた姿見の前に立っていた。
鏡には、すっかり着崩れてしまったドレスをまとった女が写っている。長く床に膝をついていたせいだ。目元やその頬にはたくさんの涙の筋が残っていた。
(こんなに泣いたのは久しぶり)
ここ数年、ニーナはどんなに辛い目にあっても泣くのを我慢してきた。我慢しすぎて最近ではもう泣き方を忘れたのではないかと思っていた。
どうやらそんなことはなかったようだ。
(酷い顔。もし、私がミーナみたいに美しかったら、きっとこんな目に合わなかったのでしょうね。それでも、彼なら、もしかしたらと思ったのに)
目にまた涙が溜まってきた。さっきからその繰り返しだ。涙は止まっても、思い出せばまたあふれてくる。
ニーナの口から嗚咽が出そうになった、その時だった。
『泣いてるの? どうしたの?』
どこからか声が聞こえた。
それは不思議な声だった。大人とも子どもとも男女の区別さえないような声だ。直接頭に響くような声だった。
部屋を見回してみたけれど誰もいない。
ニーナは首を傾げた。
『ここだよ』
「ひゃ!」
鏡のある方に首を戻すと、ニーナは腰を抜かすことになった。
鏡の真ん中から赤ん坊の頭が突き出ていた。
『クフフフフ……』
ふわり。風船が膨らむように赤ん坊が鏡から出てきた。
「赤ちゃんが宙に浮いてる……」
『イィエーイ』
赤ん坊が宙を進みながらニーナに向かって手を振った。褐色の肌に黒い髪、灰色の目をしている。何となくルイの面影がある赤ん坊だ。
「この声、あなたなの?」
『そうだよ。すごいでしょ。僕は天才だからね』
赤ん坊が体を丸くして空中をくるくる回った。
『お姉さん、一緒に遊ぼう。そうしたら、すぐに涙も乾くよ』
ニーナは目尻に残っていた涙をハンカチで拭った。いつの間にか涙は完全に止まっていた。
「あなた……えっと……私はニーナよ。お名前は?」
『僕はガブリエル。ガビーって呼んで。一緒に追いかけっこしようよ』
ルイの弟だろうか。さっぱりわからない。
「お父さんとお母さんは? どこにいるの?」
赤ん坊が可愛らしく小首を傾げた。
『お城の中』
「どこに行くかはちゃんと言ってきたの?」
赤ん坊は眉を寄せたあと、激しく首を振り、手をひらひらさせた。
信じられないくらい表情豊かな赤ん坊だった。そもそも空を飛び、しゃべる時点で普通の赤ん坊ではないが。
『大丈夫だって。少し遊んだらちゃんと戻るからさ。だからお願い。遊ぼう?』
衛兵に伝えた方がいいのではないかとニーナは思ったけれど、やめた。考えてみればニーナはまだこの城に来たばかりで、どこに行けば人がいるのかすら知らないのだ。
誘いを断って、目の前の赤ん坊が行方不明になるよりは、一緒にいた方がいいに違いない。
「ふふふ。わかったわ」
『僕が逃げるから、ニーナが鬼ね』
こうして、大人VS宙に浮く赤ん坊の世にも不思議な追いかけっこが始まった。
* * *
「見つかったか?」
ルイは廊下の角で出会ったクリスに問いかけた。
クリスが首を振る。
「いいえ。どこにも。報告も上がってきません。……ん?」
クリスが耳に手を当てた。
同時にルイも気がついた。赤ちゃんの笑い声がする。
「聞こえたか?」
「ええ、あちらです」
声のする方に進むと、白い扉の前に国王陛下と王妃が立っていた。
近づいてくるルイに気がついたらしい。陛下がルイの方へと目を向けた。
「ルイ。お前もここに来たのか」
「声が聞こえたもので」
ルイは扉の前に立った。
赤ん坊の笑い声は扉の奥からするようだ。白い扉の両脇には、大輪の白バラが飾られている。部屋の持ち主がわかって、ルイの顔色が悪くなった。
「この部屋は確かお前の婚約者に与えた部屋だったな」
想定外の状況に頭が痛い。
はい、そうです。とルイは答えた。答えるしかなかった。
* * *
空を飛び、瞬間移動をし、壁抜けまでやってのける赤ん坊との追いかけっこは
見つけた、と思って飛びかかれば消える。そのせいで転ぶこと多数。
飛んでいるところを全力で追いかければ、壁をすり抜けられる。こちらは壁にぶつかる。
すでにニーナはボロボロだ。
けれどもそのおかげか否か、ガブリエルを捕まえるコツをニーナは掴みつつあった。
「捕まえた!」
何もなかったはずの空間に瞬間移動で現れたガブリエルにニーナはすかさず手を伸ばした。ガブリエルの手を掴む。
まるでガブリエルの出てくる場所がわかっていたかのような動きだった。
『ブー。どうして僕が出てくるところわかるの?』
「さあ。なぜでしょう」
ガブリエルには消える前に現れる予定の方向を見てしまう癖があった。さらに一度に瞬間移動できる距離は三メートルに満たない。
この二つに気づけば割と簡単にガブリエルを捕まえられるのだった。
ガブリエルが悔しそうに手足を振り回した。
『もーやめ! 別の遊びにしよ』
「いいわよ。でも、この部屋の中でできる遊びにしてね」
ノックする音がして、ニーナは扉の方を振り返った。
「誰かしら」
『さあねー』
ニーナにはわかった。ガブリエルのこの言い方は、おそらく誰が来たのかを知っている。これも数時間ガブリエルと過ごしてわかるようになったことだった。
ニーナが扉を開けると妙齢の女性が部屋に飛び込んできた。ガブリエルと同じ黒い髪に褐色の肌をしている。明るい橙色のドレスにはシルク独特の艶があり、その女性が高い身分の人であることが想像できた。
「ガビー! ここにいたのね」
『ママー』
女性がガブリエルを抱きしめた。
「マリアンヌ、待ちなさい。ここは今、客人がいるんだぞ」
女性と同じくらいの年齢の男性が扉から顔を出した。立派な格好をした男だった。一見、好々爺といった雰囲気を持ちながら、白髪まじりの頭に髭を蓄えた姿にはそこはかとなく威厳がある。
まさかと思い、ニーナは恐る恐る聞いた。
「あの、ガビー。この方々は?」
『僕のママとパパだよ』
それはわかっている。知りたいのはそういうことではなかった。
男性の後ろにどこか落ち着かない様子のルイとクリスがいることに気づき、これ以上聞かずともニーナは確信した。この二人はザフィーラ王と王妃だ。
王妃がガブリエルを宙に浮かべると、ニーナに近づいた。
「あなたガビーの言葉がわかるの?」
「え? はい。わかります」
王妃の質問にニーナは首を傾げた。わかるのが普通ではないのだろうか。
王妃が喜色を浮かべて両手を組んだ。
「まあまあまあ!」
王がニーナに向かってゆっくりと頭を下げた。
「ニーナさん、ありがとう。ガビーと遊んでくれて。私は王のオーギュストだ」
「私は王妃のマリアンヌよ」
ニーナはカーテシーを行った。
「はじめまして。ニーナ・メーストルと申します」
マリアンヌが嬉しそうに目を細めた。
「カーテシーがお上手ね。本当はちゃんとあいさつの場を設けようと思っていたのに」
オーギュストが両手を広げた。
「しかしもう会ってしまった! ガビーの言葉がわかるということはニーナさんには魔力があるようだ。全く喜ばしい」
そして、その手をニーナの方へ差し出した。
「もしよかったら、今晩一緒に食事をいかがかな? もちろん強制はしない。長旅の疲れもあるだろうからね」
「あ……えっと……」
ルイを横目で見ると、不機嫌そうに目を逸らした。
代わりにクリスがニーナに向かって軽く頭を下げた。
「ニーナ様。殿下のことは気にせず、よろしければ招待をお受けください」
ルイが物言いたげな顔をクリスの方へ向けたが、結局何も言わなかった。
『おいでよ! 僕、お姉さんと一緒にご飯食べたいな』
ガブリエルが大きな目をパチンと閉じてウインクをした。
「わかりました。ご招待、お受けいたします」
ここまで言ってもらったのに断るのは申し訳なかった。
ニーナは招待を受けることにした。
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