80.絶対に仕上げて渡すの

 ハンナの結婚式に合わせ、私は大急ぎで刺繍を仕上げていた。正直、不器用な方なので上手に大きな刺繍は無理だ。繊細なレース編みも不可能だと諦めた。


 でも、小さなハンカチの刺繍くらいなら。なんとかなると思う。多少形が歪でも、ポケットにしまうから大丈夫だよね。受け取ってもらえる前提で、数日徹夜をした。慣れている人には、なんてことない大きさの刺繍だ。でも私は歪むたびに解いてやり直した。


 完成より、生地がバラバラになる方が早そう。泣きそうになりながら、また針を刺した。四葉のクローバー、幸運の証だ。たった四つのハートと茎、小さなリボン。現時点でリボン以外は完成した。いっそリボンなしでも……と思うが、妥協して後悔するのは自分だ。


「完成したのなら、休んでくれ」


 心配そうに手元を覗くルーカス様に、申し訳ないが首を横に振る。


「まだです。ここにリボンを付けないと」


「だが、ハンナの結婚式は明日だ。間に合わないぞ」


「間に合わせるんです」


 気合いを入れ直した。四日目の徹夜に入って、眠気はどこかに吹き飛ぶ。手も刺繍に慣れてきて、ようやく刺し間違いや糸の縺れが減ってきた。今ならやれる。いや、今夜以外は無理だわ。


 確信を込めてピンクの糸を刺す。リボンのデザインが下書きされた絹に、一針ずつ心を込めてピンクを増やした。思い出すのは、無茶をする私を叱るハンナだ。それから一緒に攫われて逃げた時の頼もしさ、夕飯をつまみ食いして叱られた時の迫力。


 両親がいない私が寂しくて泣いた時、優しく抱きしめてくれた温もり。何より、私が悩んでいると助けの手を差し伸べてくれた。母のようでもあり、姉のようでもあり。失えない大切な家族だった。彼女のために頑張れない私なら、価値なんてないの。


 ハンナだけじゃない。執事のアルベルト、美味しい料理を作るマイラもいる。使用人だけれど、家族と同じだ。ルーカス様と出会って恋をして、侯爵家の使用人とも仲良くなった。増えていく私の世界で、ハンナはやっぱり中心にいる。


「仕方ない。お茶を淹れよう」


「ご……ありがとう」


 謝ろうとした途端、ルーカス様は首を横に振る。だからお礼だけ口にした。香りのいい紅茶が用意され、私が淹れるより美味しいことに衝撃を受ける。


「なんで上手なんですか」


「執務室は立ち入りできる者が限られる。自分で身の回りのことはこなせるぞ」


 侍女も出入り禁止なのかしら。宰相閣下の執務室の掃除は誰がするの? まさか、ルーカス様が……箒を手に?! 思い浮かべたらおかしくなって、笑いながら自分の指を刺した。慌てて咥える指に血が滲む。


「っ」


「気を取られているからだ」


 苦笑いして、血が止まるまで布を巻く。完成品に血がついたら台無しだもの。気をつけながら刺し続け、夜明け前に完成した。ピンクのリボンが風に靡く形に揺れて……。


 一緒に揺れた視界に、私はそのまま眠ってしまったらしい。朝になり、綺麗に洗濯されてプレスされたハンカチがラッピングされた姿に、驚いて固まった。これ、ルーカス様がしてくださったの?

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