71.犬とウサギとネズミの間で

 廊下の絨毯も交換らしく、壁の血は清掃専門の業者に任せるようだ。侍女も含め、私の出番はなかった。無事だった温室でお茶を飲みながら、エルヴィ様に泣きつく。


「というわけで、私の仕事がないんですぅ」


「ふふっ、くっ、うふふ……やだ」


 必死で笑いを堪えた後、眦に滲んだ涙を拭ったエルヴィ様だが……私の顔を見るなりまた笑い出した。もう好きなだけ笑ってください。笑われるくらいしか仕事ないですから。拗ねてそっぽを向いたら、ようやく収めてくれたらしい。


「元は子爵令嬢なのでしょう? イーリス様」


「正確には……リンネアですわ」


「今後はリンネア様とお呼びしますね」


 しっかり名前を訂正しておく。もうヴェールを被っていないのだ。占い師イーリスは、しばらく休業だった。ルーカス様が許可するまで、イーリスは表に出ない。その辺も策略とか関係しているのかな。


「することがないのは辛いですね。もしお手が空いているなら、刺繍のお手伝いをお願いできますか?」


「刺繍」


 やや残念な腕前で良ければ、物によっては協力できると思う。そう申告すると、ハンナに「やや? かなり残念です」と眉を顰められた。そんなに酷くないわよ。


 むっとして取り出したハンカチを見せる。小さい刺繍が施されたハンカチを見て、エルヴィ様は何回か瞬きした。


「可愛いウサギ? ですね」


 言葉に迷いが見られるが、残念、ハズレである。


「これは犬です」


「い……ぬ? ぷっ、う……」


 なぜ吹き出す?


「私はヒゲの長いネズミだと思いました」


 追い討ちをかけるハンナのせいで、エルヴィ様は完全に潰れてしまった。笑いを堪えようと震える肩、どころか全身が小刻みに揺れる。大笑いは失礼だと思ったようで、頑張ってるけれど……明日は筋肉痛だろう。お気の毒に。


「楽しそうだね」


 まだ夕方でもない午後の日差し降り注ぐ温室に、足音と声が重なる。振り返る私は、ぎゅっと抱きついたルーカス様の服に顔を埋めた。たぶん、腹部あたりかな。私が座ってて、立っているルーカス様の下腹部に頬が当たる。


「おかえりなさいませ、ルーカス様。お早かったのですね」


 お疲れ様の意味も込めて、もぞもぞしながら顔を上げようとする。その動きに彼は慌てて手を離した。


「は、早くはないが……いや、なんでもない」


 きょとんと首を傾げる。さっきまで笑っていたエルヴィ様は顔を真っ赤にし、ハンナも絶句してルーカス様を睨む。お仕事を終えたばかりで疲れているのに、そんな睨んだら失礼だわ。椅子から立ち上がって、彼を守る位置に立った。


「ハンカチの刺繍の話をしていました、これです」


 先ほど、ウサギやネズミと言われた刺繍を見せる。ルーカス様なら愛の力で当ててくれるはず。期待を込めて見上げた。


「……四つ足……ウサ……じゃないな。猫も違う、ならば! 犬だ!!」


 連想ゲームとか消去法とか、なぜ一発で当てられないのかしら。こんなに可愛い犬なのに。お座りする犬の姿にしか見えないわ。色が白で輪郭だけなのがいけないのかも。次は茶色にしよう。


「正解です!」


 にこにこと褒めれば、彼はぎこちなく笑った。もしかして、さっきの会話を聞いてました? それはないか。聞いていたなら即答で「犬」ですもの。

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