第35話
陣之内は眼鏡を直す。自分の考えを正しく伝えようと、言葉を選んでいるようだ。
「その……三人見ながらだと、大変だと思うので。無理をさせるわけには、いきませんから」
「いえ。陣之内さんや沖さんは、お客さまのところへ行く日もありますし、私はいまのままで大丈夫です。それに、製造が終わってテストに入ったら、メンバーみんなで分担できる量も、もっと増えていくと思いますから」
残業が多いのはいまだけ、という意味合いだ。陣之内は反論しかけたが、一旦考えるように口を閉ざす。そして頷いた。
「わかりました。……ありがとうございます。助かります」
雪葉はほほえみ、「お疲れさまでした」と帰った。だがエレベーターに乗るところで、陣之内も来た。
「僕も帰ります」
エレベーターの狭い空間に二人きりになる。
何となく落ち着かない。雪葉は話しかけた。
「陣之内さん、毎日、帰り遅いですね。朝も早いですし、睡眠時間、あまりとれてないんじゃありませんか?」
「いえ。六時間はとれてます。僕の家、ここから三十分くらいなので」
「あ、近いんですね。うらやましいな。私、一時間以上かかるから」
ビルの外へ出て、オフィス街の夜の歩道を二人で進む。雪葉は頭の中で無難な話題を探した。駅までは、あと五分ある。
「すっかり寒くなって、冬に近くなりましたよね」
「そうですね。そろそろ、コートが必要かもしれません」
「ですねぇ」
互いに沈黙した。天気以外の当たり障りのない話は、仕事の話だろうか。しかし十時間以上仕事をした後にまた仕事の話をするのは、気分としては避けたい。
陣之内は無言だ。話題を振ってくれたらいいのにと思う。特に話すこともないのなら、できれば雪葉がエレベーターを乗った次の回に乗ってくれたら助かったのに――と、くだらないことを考えていたせいで、靴先が歩道の石畳にとられた。
一瞬だった。雪葉は無様な格好で転んでいた。手と膝と、片側は手だけでは間に合わず肘まで地面についてしまう。痛さよりも、恥ずかしさが勝った。
「大丈夫ですかっ!」
陣之内が仰天して近くに寄ってきた。雪葉は腰に外気を感じ、めくれ上がった背中の服を慌てて直した。羞恥で全身の血が熱い。体勢を戻しながら、下着が見えてしまったかもしれないと考えた。今日は、普段穿いているズボンが洗濯中で、外行き用のローライズズボンを穿いてきていた。
「だ、大丈夫です……」
立ち上がってほほえんで見せる。地面についた部位がじんじんと痛んだ。そっと手の平を窺うと、擦れて血が滲んでいた。駅に着いたら手洗いにでも寄り、肘と膝も確認したい。
「怪我ありませんか?」
「平気です。すみません、転んじゃって」
「いえ……。あ、でも手が」
陣之内に手の平の傷を気づかれた。
「僕、絆創膏あります」
「だ、大丈夫です、ほんと。絆創膏なら、私も持ってますので」
「ならこれ。清浄綿だけでも、どうぞ」
清潔に拭き取りたい時に、さっと使える便利な味方、携帯タイプの使い捨て清浄綿だった。若い男性が常備するには不釣り合い過ぎる。雪葉は、礼を言うのも忘れたまま受け取る。
「応急処置程度なので、あとでしっかり水で洗浄したほうが、良いかと思われますが」
「……陣之内さんって、用意がいいんですね」
「性格柄、何かあった時のために、絆創膏と清浄綿はセットで持ち歩いています」
雪葉は思わず、口から笑いを零した。
「ふふっ――ありがとうございます。男性のエンジニアさんって、几帳面で気遣いのできる方が多いですけど、清浄綿まで持ち歩いてる人は、初めてです。女性より女子力が高いといいますか……あはは、陣之内さんって、おかしいですね」
陣之内が固まって雪葉を見ていることに気づき、慌てて笑うのをやめる。
「ご、ごめんなさい。悪く言ってるわけではなくて」
「…………はい。それは、わかります」
そのまままた、駅へ歩き出した。反対方向の電車に乗るため、雪葉は陣之内と別れた。
×××
日々奮闘している間に月末が訪れた。今日は外に出ているノヴァソリューションの社員の帰社日だ。ビル内の人の数が、いつもよりも多い。
「午後はさ、勉強会するんだよね。部長のありがたーいお話があった後、スキルアップとして、いま現場でやってることの報告会するの」
社員食堂から戻りがてら、沖が雪葉に説明してくれた。週の半分ほどは、沖と陣之内に加わり社員食堂に行くのが習慣になっている。残りの日は懐事情で、週末に具を作り置きし冷凍しておいた、より安く済む弁当だ。だが手作り弁当を見られる度に、沖に感動されるため、恐縮してしまう。
「スキルアップのための、技術交換ですか……。いいですね。本来の帰社って感じで。私の会社の帰社は、世間話をして、あとは飲みに行っちゃうので、意義があるのかないのか」
「あはは。うちも似たようなもんだよ。それぞれの報告だらだら聞きながら、お喋りしてる感じ。その後は飲みにも行くし」
「元村さんも、この後帰社ですよね?」
陣之内も話に加わった。
「はい。午前中にやり残した作業があるので、済ませたら帰社しようかと」
「僕たちは、午後の初めから勉強会行ってしまうので、島に一人になりますが」
「大丈夫です。早めに終わると思うので」
「元村さんも、興味あったら勉強会ちょっと覗いてみたらいいよ」
沖が軽い調子で誘う。
「三階の大会議室でやってるから」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。