第20話

 伊桜は沈黙し、雪葉の言わんとすることを悟った。表情を曇らせる。


「俺、遠回しに振られてる?」

「いえ、違うんです! そうではなくてっ! ……だ、だって、なんで私なのか、ちょっと、よく、わからなくて……」

「ええ? 元村さん、別に告白されてもおかしくなくない? 性格も優しい感じだし、仕事できるし、努力家だし、気配りも細かいし、外見だって、普通に悪くないと思うけど――って、普通っていうのもあれか。……俺は、元村さんは、かわいいと思ってるよ」


 照れるように目線を逸らし、言いづらそうに告白するイケメンに、雪葉はひと息に五本の矢で心臓を射られた気がした。


「……あの。あんまり赤くなられると、俺にまでうつるんだけど」

「そっ、そこまで赤くなってませんっ!」

「なってるよ……」


 赤面する雪葉にちらりと視線を送ってから、伊桜は月を仰ぎ見た。


「正直言えば、すごく好きで付き合って欲しい、とかではないよ。こんなふうに二人で時間作って、まだ間もないしね。けど、元村さんがいいなって思うところは、確かにあって」


 素直な気持ちを尽くそうと、言葉を紡いでいるように感じられた。


「こんなふうにデートに誘う時点で、下心があることはわかっちゃうだろうし、だったらもう、付き合ってみたらどうかなって」


 伊桜は、ごく簡単に、軽く言っている。思春期の、人生一大イベントのような告白とは異なる。恋愛経験を積んだ大学生や社会人の、『ちょっと付き合ってみちゃう?』ののりに違いなかった。それを重く捉え過ぎてしまっていることに、雪葉は遅ればせながら気づく。


 何事も経験だ。交際を申し込まれるなど人生初めてで、そしてこれから先はもう二度とないかもしれない。相手も、悪くないどころか良いほうに天秤はかなり傾いている。飛び込まないほうがおかしい。


「よ――よろしくお願いしますっ!」


 気合いの入った返答に、伊桜は瞬きをした後、目を細めて笑った。


 アパート前で別れる時、足元が地についていない感覚のまま、一日の礼を言った。夜道の人影を、素早く確認した伊桜が、そばに寄ったのは一瞬だった。


 触れ合った唇が離れていく。人生初めてのキスに、雪葉はあほの子のように体を硬直させた。真顔で伊桜を見返してしまう。伊桜は雪葉の反応が想定と違ったため、気まずげに口元をひきつらせた。


「ごめん……嫌だった?」

「…………いえ。ちょっとびっくりして」

「そ、そっか。俺もいきなり、ごめんね。……じゃ、えっと――さっき話した通り、また来週の日曜に」


 去り行く伊桜の背を、機械的に見送ってから、雪葉は階段を上り玄関の内側へ滑り込んだ。


 生まれて初めて、恋人ができた。キスをした。いろいろなことが、あり過ぎた。雪葉は鞄を床に落とすように置くと、しばらくの間、部屋の中を落ち着かずに歩き回った。


   ×××


「――そういえば、この前彼女できた」


 忘れたカピオカートのゲームソフトを取りに来がてら、遊び始めた沖に向かって、昊は雑誌を見ながら何となしに言った。六月初旬、昊の自宅マンションだ。今週の初めから梅雨入りし、外は連日曇天続き、今日も雨が降っている。


 沖はテレビ画面を見つめたまま、特に驚くでもなく反応した。


「へー。最近、合コンあったっけ?」

「いや。現場で一緒だった子が相手」

「……ん?」


 沖が振り向いた。画面では、操作していたカピオの乗る車が停止した。対戦相手のCPUにどんどん追い抜かれていく。


「どういうこと? クライアントの誰か?」

「いや、エンジニア」


 沖は「え」と目をみはる。沖が驚くのも無理はなく、振り返れば、昊が同業者と恋人関係になるのは初めてのことだった。


「えっ! 誰?」

「名前言ってもわかんねえだろ。下請けの会社の子だし」

「え、え、えーっ! わかんないけど、えーっ! なんで付き合ったの?」

「なんでって……なんとなく?」


 何となく連絡先を交換して、だったら食事くらい一緒に行こうかと誘い、流れで自宅に招くことになった。家に来たいと言われた時は、やはり大人の男女は体からだもんなと思ったが、結果はゲームを二時間しただけだった。


 休日に、プライベートで会っている年頃の男女、女性のほうから男の部屋に一人で来るというのなら、そういうことになってもいいと覚悟があるのかもしれないし、それを丸無視するのも男らしくない――という考えはどこかへ羽ばたいていき、気づけば、悔しさと楽しさでゲームに夢中になっていた。その事実に衝撃を隠せない。一体あの日、自分は何をしていたのだろう。


 ゲームをしたので帰ると言われたので、思わずまた次の約束をとりつけた。手首を掴んだ瞬間、彼女の手首を一度目に掴んだ時よりも、手首の細さや温もりを意識した。


「あーあ。そんなんで大丈夫なの? エンジニアって……まじめそうな子に、手ぇ出したんじゃないのー?」

「何だよ、そのさげすんだ視線は。まるで俺が生粋きっすいの遊び人みたいな」

「似たようなもんじゃん。かわいそうに。心の傷になるぞー」

「大丈夫だよ。まじめに付き合うから」


 実際に、伊桜のペースからいくとかなり慎重にお付き合いしている。正式に付き合い始めた翌週の日曜日、二人で水族館に行った。ペンギンがいた。カピバラもいた。雪葉は目を輝かせて楽しんでいたように思う。次のデートは明日で、天気が良ければ遊園地へ行く予定だ。


 いつも約束を日曜日と言われるから、一線を越えることは拒否されているのかもしれないと、彼女のペースに合わせている。伊桜のペースでは、付き合う前か初回でだいたい決めるが、雪葉とは、まだ別れ際のキス全二回のみだ。真面目な交際にはなっている。


「そっか。なら応援してるよ。今度は長く続くといいね」


 沖はほほえんで言い、ゲームを再開した。昊は携帯電話を取り出し、天気予報を確認した。あいにく、明日は雨予報だ。予定は変更で、室内デートならボウリングやカラオケといったところだろうか。


 雪葉とは、長続きしたいなと思っている。普段あんまり着飾らない子が、自分のためにいつもより外見を工夫しているのが嬉しく、可愛いなと思う。水族館で手を繋いだ時のぎこちなさを思い出した。もしかしたら雪葉は、誰かと付き合うのが久しぶりなのかなと、窓に当たる雨粒を見ながら考えた。


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