第6話

 伊桜は、スプーンを口に入れたまま瞬きをした。


「二浪?」

「はい……。元々、上京願望はあって、入りたい大学もこっちにあったので、受験したんですけど……三回とも、落ちちゃって。それで半ばやけになって、上京して働いているといいますか」


 伊桜はオムライスを咀嚼そしゃくし、呑み込んだ後、驚嘆の表情のまま言った。


「なんつーか、意外」


 否定ではなく、感嘆寄りの驚きだ。


「元村さんって、根性あるんだね」

「……はは……」


 五年経ったいま思い返しても、暗闇の中を彷徨さまよい続けていたような浪人時代だった。どうしても入りたい情報システム学科の研究室があり、やや高望みだったがその研究室のある大学を狙った。将来は、大学での研究を生かし、大手IT企業に就職、敏腕研究開発員として大活躍する、そんな未来を夢想していた。


 一度目の不合格の後、経済的に予備校に入ることが難しかったため、自宅浪人を選んだ。毎日孤独に勉強し続けた。一日中家にこもっていては気分も塞ぐので、昼間は公立図書館に通った。


 再挑戦した二度目の受験も落ちた。三度目は、半ば意固地になっていた。大学の学費は奨学金前提、明確な目的を持って大学に入りたい気持ちが強かった。受験生の頃の雪葉は、前だけを見て夢を追いかけていた。少しの迷いが合格を遠ざけるのだと、ただ視野が狭かった。努力は必ず報われると信じていた。恐れは何もなく、未来は希望に満ちていた。


 三年間の受験生活の果てに残ったものは、努力への虚しさと、何者にもなれなかったという、人生の底にいるような絶望だった。無残に夢散り、現実から逃げ出すように上京した。手の届く家賃だった郊外のアパートを借り、いまこうして、ほそぼそと生活している。


「でも、高卒で実務経験なしにしては、就職悪くないとこに決まったんじゃない? 元村さんって、YZソフトさんでしょ。従業員百人近くいるとこだし」

「あ……。実は、実際に勤めてる会社は、違って……」


 雪葉や伊桜の職業である、いわゆるシステムエンジニアは、顧客が望むシステムを作ることが仕事だ。要件定義から設計、製造、テスト、そしてリリース(本番稼働開始のこと)後の運用に維持、要望によってはバージョンアップまでと、仕事の幅は広い。


 また、エンジニアは大きく二種類に分けられる。自社サービスを持つ会社のエンジニアと、他社から仕事を受託し働くエンジニアだ。雪葉や伊桜は後者にあたる。この場合、顧客のセキュリティ関係で、顧客先に出向き仕事をすること、すなわち客先常駐の場合が多い。ゆえに雪葉も伊桜も、毎日通っているのは自社ではなく顧客先のビルで、さらに開発期間中のみ用意してもらった仮設のオフィス、プロジェクトルームで働いているというわけだ。


 人員が常に大勢必要ではないシステム開発において、便利なのが多重下請け構造だ。顧客が商品を欲し、注文された会社は、必要な技術とマッチングするエンジニアがいる会社へ協力を仰ぐ。協力を仰がれた会社は、適した人材が足りない場合、エンジニアを求めてさらに別の会社へ協力を仰ぐ。これを繰り返し、多重下請け構造が完成する。


 プログラミングは言語が多様で、開発場所により使用する開発ソフトからデータベースの種類まで、環境が大きく異なる。膨大で、かつ進歩も早い技術に対し、一人がやれる仕事範囲には限度がある。そのため自社の社員に新しい技術を一から教え込むよりも、適した人材を探し短期間仕事をしてもらったほうが、圧倒的に現実的で、かつ効率が良い。役目が終わったら仕事も終了、そのエンジニアは次のプロジェクトへ移っていく。


 そうして元請けとなる大企業は自然と、プログラミング技術を必要としない要件定義や設計、人員のマネジメントへ回っていく。手を動かす作業を主に担うのが、中小企業だ。


 つまり今回の場合、顧客の大手銀行〈かえで銀行〉が、業務システムを大手IT企業〈株式会社クレセントデータ〉に依頼し、受託したクレセントデータが、伊桜が所属する〈株式会社ノヴァソリューション〉に下請けを依頼、その協力会社として〈株式会社YZソフト〉、すなわち雪葉が表向き所属している会社がプロジェクトに参入、という形になる。


「YZソフトさんには、今回声をかけていただいて」


 雪葉はYZソフトの人員探しにより、技術及びそれに対するエンジニア単価が適しているということで、YZソフトの社員とともにプロジェクトに入った。会話時に会社に『さん』を付けるというのは、社会人になってから学んだ。


久我くがさんの――いまは伊桜さんのですが――プロジェクトを、お手伝いさせていただけることになって」


 久我は、前任のプロジェクトマネージャーだ。雪葉はいまのプロジェクトに半年前から参画しているため、前任とも面識があった。伊桜と同じく株式会社ノヴァソリューションの社員で、伊桜の上司に当たる。


「私の会社は、伊桜さんのノヴァさんとは比べ物にならないくらい、ものすごく小さいとこで」


 YZソフトとして入っているため、自社の社名を出さないのが業界の慣習だ。だから伊桜からすれば、雪葉はYZソフトの社員だった。


 YZソフトは、雪葉のほかにも他社からエンジニアを呼び込んでいる。彼らも自社の名を明かさずに、みなYZソフトとして仕事に勤しんでいる。


「俺の会社も、そんな大きくないよ。ただの中堅企業だし」

「いやいや。従業員一千人以上で、一部上場企業で、都心に数階建ての本社ビルがあって、じゅうぶんすごいと思います」

「ビルっつっても、小さなビルだし、七割方は客先常駐だけどね。月一の帰社日にしか帰らないから、俺、自分専用のデスクもないし」

「あ、それは……みんな、そんな感じですよね」


 自社サービスより受託の仕事が主な会社では、よくあることだ。雪葉も自社に、自分のデスクがない。そもそも雪葉の会社は、アパートの一室のような小ささで、いるのはいつも社長一人だ。


 話している間に、オムライスを食べ終えていた。伊桜のマグカップが空になっていたので、雪葉は冷蔵庫に緑茶を取りに行った。伊桜がひと息つきつつ、本棚を見やる。


「元村さんって、読書が好きなの?」


 ちゃぶ台のマグカップに緑茶をそそぎながら、雪葉は目線を上げた。


「本多いね。小説?」


 全身が瞬時に熱くなった。ハンバーラックに掛かっていたバスタオルを素早く掴み、本棚を覆う。


「すみません! これはちょっと、恥ずかしいのでっ!」


 赤面しながら、バスタオルが落ちないよう急いで整える。女性向けらしい、きらきらしい題名の小説も多い。現実で恋人も作らず、妄想満載で美形と恋する恋愛小説を、毎月新刊チェックし購入しまくっているなど、会社の人には絶対に知られたくない。


「あ、いや……こっちこそ、ごめんね。他人ひとの部屋のものをじろじろと。でも、下のほうは、全部技術書だよね」


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