第5話

 異性を部屋へ入れるなど、エアコンの修理に入った作業員のおじさん以来だ。職場の人と、身元ははっきりしているのだから、万が一にも事件にはならないだろう。心臓が大太鼓でも叩いているように鳴っていた。


 部屋の家具は最低限だ。中央の四角いちゃぶ台にシングルベッド、本棚、十九インチ液晶テレビ、衣類や書類等を入れてあるプラスティックチェストに、洗濯物を干すハンガーラック――にかかった角ハンガーに、水色の下着が一組ぶらさがっているのを発見し、雪葉は飛びついた。


 引っ張り外し、チェストへ放り込む。迂闊うかつだった。顔が熱くなるのを自覚していると、伊桜が気まずげに謝る。


「あの……ほんとに、急にごめんね」


 やはり見られていないわけはなかった。雪葉は何事もなかったふりをして言った。


「好きに、座ってどうぞ。コンセントは、テレビの横です。充電器は――」

「あ、充電器はあるから大丈夫。ありがとう」


 最低限の家具でも、部屋が狭いため詰め込まれている印象を受ける。大人二人がくつろぐ空間としてはやはり狭い。慣れない間柄なら尚更だ。


 雪葉はキッチンへ行き、買ってきた食料を冷蔵庫にしまった。伊桜は、携帯電話を充電器に接続した後、洒落度氷点下のちゃぶ台の前に座る。安さ重視で通販で購入したものだった。


「お茶、飲みますか?」

「お構いなくー……って、言いたいところだけど、いただけたら助かる。喉乾いてるんだ」


 百円均一店で、自分用に二個だけ買ってあるマグカップに、水出し緑茶を入れた。ただの縞模様が入ってあるだけの、色違いのものだ。猫や兎の絵柄など、もっと可愛いものにしておけば良かったと後悔する。


 マグカップを運ぶ手が、緊張でかすかに震えた。上京して、一人暮らしで、女性の少ない職種ゆえ友人も作れないまま、雪葉は対人スキルがすっかり落ちてしまっていた。仕事中の会話も、メールやメッセンジャーソフトで済んでしまうことばかりだ。一日のうち、朝の『おはようございます』と帰りの『お先に失礼します』以外言葉を発さなかった日もあるくらいだ。


 それがいきなり、見ていると目がちかちかしてくる人間と、自室で二人きりで話すことになってしまった。動揺しないわけがない。


 ちゃぶ台に緑茶を置くと、伊桜はまた礼を言った。くつろいでいる雰囲気で、女性の部屋に慣れている風体がある。先程の下着も、干したTシャツを見た時と同じ程度の印象なのかもしれない。


「元村さんの部屋、片付いてるね」

「そ、そうでしょうか」


 この前の日曜日に部屋を片付けておいて良かったと、心の底から思った。


「俺のこと気にしないで、好きにテレビ見たり、飯食べたりしてていいから。何か作るって言ってなかったっけ?」

「はい。あ、でも……伊桜さんも、晩ご飯は」

「まだだけど、大丈夫。仕事長引いて、日またいでから夕飯とか普通にあるし。まあ、そこまでいったらだいたい食べないで寝ちゃうけど」

「……あの。オムライス、食べますか?」


 伊桜の、作られていた外向けの仮面が、驚きで一瞬はがれた。


「今日、作る、予定だったので……食べたくなかったら、いいんですが」


 雪葉は自分でも、何を言い出しているのだろうと思った。だがオムライスは唯一の得意料理で、卵の賞味期限だって切れていて使わなければならない。作って、自分だけ食べているほうが気まずい。


 それに何より、何もしないで二時間を消費するよりも、食事でもしていたほうが時間の流れが速いと思った。


「えっと……」


 伊桜はゆっくりと頷いた。


「じゃあ、食べます」


 雪葉はエプロンを装着し、キッチンに立った。普段はエプロンなど面倒でしないが、もし服が汚れたら着替えるか、汚れをさらしたまま食べなくてはならないので着ける。伊桜は座ったまま、やや落ち着かなそうにキッチンを窺っていた。


 雪葉は材料を冷蔵庫から取り出した。そして大前提として確認し忘れたことを思い出した。


「卵が、十日、賞味期限が切れてるんです。大丈夫ですか?」

「えっ、十日も!? いや、うん……大丈夫」


 二人前のオムライスは、片付けもしながら、三十分ほどでできあがった。半熟バージョンも作れるが、卵が危ないと困るので、しっかりと焼いた。チキンライスが厚焼きの卵生地に綺麗に包み込まれている。


「うわっ! 元村さん、オムライス超上手いね。この、卵でくるっとご飯包むのって、難しくない?」

「昔、よく弟に作ってて、慣れてるので」


 伊桜はスーツの背広を脱ぎ、シャツの袖をまくり、ネクタイの先端を胸ポケットに入れた。恐ろしいことに、どんな仕草も格好良く見える。


 雪葉は緊張しながら、伊桜の一口目をさりげなく見守った。誰かと食事など、久しぶりだ。


「うん――おいしい!」

「……良かったです」


 深く、安堵する。もちろん世辞かもしれない。この状況では、大抵の人が賛辞をくれるものだ。


「弟さんって、もしかしてこの写真の?」

「あ、はい」


 チェストの上に飾られた、家族写真を示された。母と弟、そして雪葉の三人が写っている。三年ほど前にテーマパークへ行った際に撮影したものだ。雪葉は園のキャラクターである、ねずみのムッキーの耳付きカチューシャをつけていた。日頃、黒や紺など地味な服装で仕事へ行っているため、伊桜に見られ無性に恥ずかしくなる。ちなみに母が、ムッキーの彼女という設定のムニーのカチューシャを、弟はあひるのコナルドの帽子をかぶっている。


 着飾るのは、苦手だ。自分にどんな服が似合うのかわからないし、可愛い服は、自分の顔が浮いているように見えてしまう。


 三度の大学受験の後、二十歳で就職する道を選んだ雪葉は、お洒落をするという機会がなかった。高校時代はがちがちに固められた校則で、髪を染めることももちろんできず、友人たちが、校則から解き放たれて大学で垢抜けていくのを見ながらも、立場の違いから、彼らの仲間に入ることもできなかった。必要にも駆られず、大人になったいまも、こうして地味に過ごしている。


「家族、こっちに遊びに来たんだ。元村さんって、確か、出身こっちじゃないよね」

「はい、東北です」


 飲み会で軽く触れただけのありふれた話題について、伊桜は覚えてくれていたらしい。少し感動する。


 雪葉の地元は、雪が降る。そのため首都圏の冬は晴れの日が多く、とても過ごしやすいと感じる。


「一人で上京かー。学校、こっちにしたんだ?」


 伊桜はスプーンを動かしながら、会話の種として、なんでもないことのように訊いた。二十五歳で、職歴は五年、二年間の専門学校などを出て働いたと思われるのは、これが初めてではない。こういう時は、適当に頷いてしまうこともあるのだが、いまはしばらく会話をしていなくてはならない。嘘を重ねるだけだろう。雪葉は正直に明かした。


「そういうわけじゃ、ないんですけど……。大学受験で二浪して、落ちたので、そのまま働いているといいますか」


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