余薫に恋して
十余一
1
その日、私は日常から抜け出した。
二限目の講義に出席するため乗った電車は閑散としていた。いつものように揺られ、ぼんやりと車窓を眺める。今日は天気が良い。次々と流れてゆく街の上に、抜けるような青空が広がっていた。そうして、なんとなく満たされない灰色の日々から離れたくなったのだ。
改札を出て、普段とは逆の道を行く。大学のある山側ではなく、海側の出口へと足を向けた。
駅の階段を降りた私を出迎えたのは、閉店したデパートと錆びたアーケードが覆う商店街、月と狸のモニュメント。バスやタクシーが並ぶはずのロータリーも、今は物寂しい。
私はデパートの横を通り抜け、まっすぐに伸びた商店街を歩く。まるで時代に取り残されてしまったかのように、シャッターばかりが目立つ。それでも、ぽつりぽつりと開いている店もあった。昔ながらの土産物屋が一軒、新しくできた飲食店や居酒屋が数軒。鈍く新陳代謝が行われているようだ。
途中、アーケードが途切れ、横道が伸びていた。その先で、赤、青、黄、白、四色の蛍光灯が私を誘う。ふらふらと吸い寄せられた先に現れたのは、着物姿の女性と男性が寄り添うモノクロのポスターだ。ガラス張りの掲示板、上部には赤く角ばった文字で「上映中」、下部には「不二館」とある。
こんな場所に映画館があるなんて知らなかった。しかも、昭和レトロを絵に描いたような建物が残っているなんて。昭和という時代を生きたことのない私にとって、ここは非日常だ。今、私は間違いなく日常から逸れた場所にいる。
踊るような気持ちを胸に、張り出した屋根の下にある入場券売り場でチケットを買う。窓口には上映時間や料金、そのほか注意書きなど、手書きの案内が所狭しと張り出されていた。
重いガラス戸を開けて館内に入ると、ひとつしかないスクリーンの入口が見えた。ロビーではこじんまりとしたグッズ売り場の隣で、飲み物が入っている冷蔵ケースが低く唸る。短い廊下の突き当りでは、お菓子の自販機が仄明るい光を放っていた。
私は売店の老爺から缶の蜂蜜レモンを買い、劇場へ足を踏み入れる。平日の午前中だからか人はまばらだ。真っ赤な椅子に腰を沈めると、間もなく暗くなり映画が始まった。
純朴な二人の恋物語が、白と黒、二色だけで繰り広げられる。
着物の裾をからげた青年と、襷に前掛け姿の女性が、共に畑仕事へ向かう。けれども、隣を歩くことを恥じらい、女性は少しだけ後ろを歩いた。
互いに心の奥底まで解っているのに、肝心なところで気恥ずかしくなり口をつぐむ。二人のうちどちらか一方が、ほんの少しでも勇気を出せたなら……。あと一歩が踏み出せない、そのいじらしさが愛おしい。
なにより、ヒロインの彼女と彼女をとりまく世界が、モノクロだと思えないほど鮮やかに思えた。
青々とした空に、
彼女は可憐で、無垢で、どこまでも清らかだった。
しかし結局、二人は家族に反対され、結ばれることなく別れを迎える。
青年の出立を見送る日がやってきた。小雨の降る朝、船着き場で、目を合わせることもできない。彼女は涙を浮かべていることを誰にも悟られまいと、顔を背けていた。この日のために
人目を気にして二人は別れの言葉も交わさず、青年を乗せた船は河を下っていった。本降りとなる雨の中、彼女は愛しい彼の背を見つめ続ける。涙なのか雨なのかもわからない雫が、彼女の頬を伝う。
その黒曜石のような瞳が、黒色でしかないはずの目が、私には万華鏡のような光を放っているように思えた。青年へ向ける甘い恋慕の情、彼と過ごした暖かな日々の思い出、一歩踏み出せなかったことへの後悔、おそらく青年ではない別の誰かと結ばれる自分の未来への悲観。それら全てが
青年を恋しく思うその瞳の色が、私の胸を同じように高鳴らせた。
映画は、若くして亡くなった彼女の墓に、青年が花を手向ける場面で幕を閉じた。気づけば私の頬にも透明の雫が伝う。それは悲劇的な恋に涙しただけではない。ヒロインを演じた彼女への賛美と、心苦しいほどに惹かれる気持ちから自然と流れでたものだ。
エンドロールに表示された名前は“帆風”。本名ではなく芸名かもしれない。私は、名前も知らない
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