また会いましたね、旦那さま
七野りく
序章
「では、主を呼んでまいります。この場にてお待ちください」
老執事は椅子に腰かける私――エリナ・スレイドへそう一礼し、部屋を出て行った。
バタン、と扉が閉まるや、無意識に息が洩れてしまう。
一見礼儀正しく接してくれているが、言葉や行動の端々に敵意を感じてしまうのは、決して気のせいではないだろう。
十年前に両親が亡くなって以来、幸か不幸かその手の感情を向けられるのには慣れてしまった。
『遺産を叔父夫婦に全て奪われ、挙句の果て、悪名高き商人の嫁として差し出された憐れな伯爵令嬢』
多くの人々は他人の不幸話が好きなのだ。それが貴族なら猶更。
大きな窓硝子に、王国では珍しい黒髪で十六歳にしては痩せっぽち、縁談だというのにドレスではなく制帽制服姿の女が映った。
顔色ははっきりと悪い。
魔法学院の卒業も、親友達と約束した魔法大学校への進学も……もう永久に叶うことはない。制服を着るのも、今日できっと最後だ。
膝上に置いた白の制帽を握り締め、部屋の中へ視線を彷徨わせる。
今やこの国に知らぬ者はいない『アニエス商会』の客間は、とても簡素だった。
木製の椅子が数脚とテーブルの他には、美しい赤薔薇が活けられた花瓶だけ。
商談相手からすれば、逆に威圧感を与えるのかもしれない。
だけど、少なくとも――私は微かに表情を緩めた。
少なくとも、この屋敷の主で、私の旦那さまになる人物は、花を排除するつもりはないようだ。
『アニエス商会会頭、アレックス・ライトは史上最悪の売国奴である』
『あの男に感情などない。信じているのは手段問わず集めた金貨のみ』
『昨今では、王家に対しても影響力を持ち、政治を壟断している
流布している噂と花の印象が重ならず、戸惑ってしまう。
もしかして、もしかしたら……旦那さまは悪い人じゃないのかも。
話をすれば、私の苦境に理解を示してくれて、この縁談も――私の現実逃避は、廊下から聴こえてきた男性の足音によって掻き消された。身体が竦む。
目を瞑り、唯一母から受け継いだ古いネックレスを握り締める。
すると、幼い頃から時折見ている夢が唐突に思い出された。
色とりどりの薔薇が咲き誇る花園を、私は長身の見知らぬ男性と二人で歩いている。とても幸せそうだ。
夢の終わりは何時も同じ。
男性と別れる際、私は泣きながら何かを告げているが……分からない。
何を言っているのだろう?
丁寧なノックの音が耳朶を打った。
「はい」
私は目を開け、返事をする。
ドアノブがゆっくりと回転した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます