第33話 再び、彼の地へ
「ただいま!」
半ば意気揚々と帰還した小夜子であったが、いつの間にかドラゴンの横へと立ちすくんでいたヨナルテパズトーリを見て目を丸くした。「ヨナちゃん!どうしたの?」「小夜子ちゃァん…」 そう情けない顔付きで小夜子に助けを求めるべく放ったヨナルテパズトーリの視線の先を追って、小夜子は再度目を見開いた。
未だ助けを求めるように半ば赦しを乞うように己自身を嘆き悲しむガァちゃんは、その身体を茨の棘に、まるでみしりみしりと音を立てられ侵食されているかの様に巻き付かれていた。「ドラゴンさん!これってどう云うこと!?」
ガァちゃんのあまりの惨状に、ヨナちゃんは仕方ないとしても、それなりに力を持つドラゴンが為す術もなく立ち尽くしていることに腹を立てた小夜子は我も忘れて詰め寄った。
奴らはきっとガァちゃんのお腹の中にある『玉』を狙ってるのだ。
「すまぬ、小夜子…」
ドラゴンから思いもよらぬ真摯な謝罪の色が降って来て、小夜子はハッと我に返った。「私こそ、ごめんなさい…」そう項垂れる小夜子の歳の割に大人っぽい仕草や切り替えの速さに少しく驚きながらドラゴンは、「すまないな、我らには手の出しようもないのだ」と再度謝罪した。実際ドラゴンの心中は詫び悔いる気持ちと情けなさと不甲斐なさで一杯だったのだ。何が地上最強のドラゴンだ。あんな毒草の群れ一つにも叶いやしないのに。「何か成果はあったのか?」と、項垂れる小夜子に優しく問い、今はタラスクと化したガーゴイルがこの娘に執着する気持ちも分からんでもないと、ドラゴンらしくもない感想を胸に秘めた彼は、触れる熱さで小夜子の身を焼かぬようその身を竜王へと変えた。 西洋の竜から突然の東洋の竜へとの変化に、小夜子は俯いていた顔も何処ぞに目を白黒と回転させた。
東洋の竜は羽もないのに空を飛ぶ術を持っていた。
小夜子はその姿を見た際に小夜子の大好きな、そして世界的に有名な漫画に出て来る
そうだ、母にも弟にも、そして先ほど会ったばかりの父にも、小夜子はもう随分と顔を見せていないような気がした。この場所が己の感覚をおかしくさせるのか。それとも、半ば妖怪と化したこの身が
と、そこまで考えて(そんなことを考えている場合じゃない!)と己を叱咤した。
目の前でガァちゃんが苦しんでいると云うのに己は何をしているのか。 小夜子は十数メートル先で苦悶の表情を浮かべているガァちゃんに向かい、「ドルイド・ドラゴン!」と叫んだ。
小夜子はガァちゃんの変化を確信していたけれど、彼の人は未だその姿を変えることはせず、もしかして聴こえなかったのかも知れない、と『想起すれば現れる』彼らの特性すら忘れてガーゴイルへと駆け寄った。
「ガァちゃん!ガァちゃん!貴方はドルイド・ドラゴンなの!思い出して!」
どんなに近寄ってもガァちゃんに己の声が届かない。
「醜い!苦しい!殺したくなど…!」と云うガーゴイルの嘆きの声と、茨たちの言葉にもならない呻く様な声が邪魔をする。
ガァちゃん…。
小夜子は躊躇うことなく一歩一歩、毒の沼地と化したガァちゃんの元へと進んだ。後ろから「小夜子ちゃァん」と叫ぶヨナルテパズトーリの泣き声は右耳を通って左耳へと過ぎ去った。私しかいない、それならば。
小夜子は紫と毒々しい緑色に姿を変えた彼の地にズクッと裸足の右足を踏み入れた。
小夜子はスズメバチに刺されたことはないとしても、ある程度『刺激をすれば刺して来るハチ』に刺された経験があるので、ビビビッとした衝撃に「すわ、これがハチの女王の攻撃か」と頭の片隅で何とか想起できるほどの衝撃を受けた。思わず二歩目を踏み出すのに躊躇する。そんな己を再度叱咤して今度は左足。一度目の衝撃で多少の慣れはあるだろうと甘く見ていた小夜子は、その毒気の更なる衝撃度に嗚咽を漏らしそうになっていた。
負けるものか。
ガァちゃんの苦しみに比べればなんてこともない、この身がどんなに毒されようとも、穢されようとも、構いやせぬ。小夜子は一歩一歩進める足にズクズクとした痛みを備えながらガァちゃんの元へ、時に茨の棘を踏みしだき、激痛に堪えながらも進んだ。 茨の棘は小夜子の侵入を邪魔するように、小夜子の未だ小さな足のその裏を穴だらけとさせた。小夜子は彼の地で泣けないことを初めて幸いと思った。こんな、卑劣とも云える攻撃で泣きたくなんてない。
ズクリズクリと茨が小夜子の足の裏に穴を開け、そこに毒が染み渡る。今や顔を残した身体中を茨の毒気へと蝕まれた彼の人はどれだけ辛いであろうか。そんなガァちゃんの苦渋に塗れた顔を間近に見据えた刹那、茨の蔓が小夜子に向かって撓って来た。まどろっこしい。小夜子は痛みを堪えるあまり怒りで肝が据わっていて、途端に撓って来る蔓に向かって電撃を走らせた。殺したくないとか云ってはいられない。こうなっては、もう。
茨は思わぬ小夜子の反撃に驚いたようで、一瞬その時を止め、黒焦げになった己の一部を観察している様であった。
茨はしばし進軍を止め、漸っと言の葉らしきものを紡いだ。
「スクイヌシ…」
かそけき声であったが茨の群れは確かにそう呟いた。救い主?私が?
「そう、私は貴方たちをも救う運命なのね…」
「ふう…」と一息付いた小夜子は、それでも尚退かない茨たちを少しく苛立たしげに思い、もう一層全てを焼き尽くしてやろうか、などと小夜子らしからぬ考えが頭を
小夜子は父から受け取ったままに左の手に握っているバッジを殊更にぎゅうと握り締めて、「道を開けて!」と茨の群れに向けて宣った。途端にバッジから眩いほどの
途端に視界が開ける。 毒々しい色を、その足跡を少しく体に刻みながら、今尚嘆き悲しむ愛しい人がそこにいた。
「ガァちゃん…」
小夜子は己が耳をも閉じていそうな彼の人を見て呟いた。
どんなに姿形が変わろうとも、私にとってガァちゃんはガァちゃんでしかないのに。
小夜子は、嘆き悲しみもはや小夜子の姿形すら理解出来ていなさそうな彼の人を見て、星屑を乗せたように瞬くまつ毛をゆっくりと上げ下げとし、毅然と彼の人に向き直った。
そうして茨の開けてくれた道をゆっくりと辿り、彼の人の面前へと行き着いた。
随分と長かったような、短かったような。
ガァちゃんへのこの短い道のりは、小夜子にとって無限の道のりであったけれど、どんなに長く思える道でも差し出す一歩を諦めなければ辿り着ける。
「ガァちゃん…」 小夜子は再度愛おしい人の名を呼びながら、その面前に立った。 最前までのガァちゃんの面影が全く見えないその顔貌を目にしても小夜子の想いは変わらなかった。こんなにも愛おしい。どうしたら伝わるだろう。かろうじて垣間見えたガァちゃんの素顔が「見…るな…小夜子…、見ない…でく…れ…」と嘆く言葉を、打ち消すような何かを小夜子は持っているのだろうか。
小夜子は先に叫んだガァちゃんの
タラスキュと化したガーゴイルは一瞬びくりと身体を震わせたけれど、それはほんの一瞬のことで、ガァちゃんを何者にも変えることは無かった。
どうすればいいの?
小夜子は封じ手をも咎められた心持ちで、天を仰いだ。
紺碧。
見上げた
小夜子は未だ茨に身体中を半ば囚われているその身に身体を寄せて、精一杯背伸びをしながら
ガァちゃん。 ガァちゃん。
「ねぇ、ガァちゃん。私を見て」
それでも嘆く仕草を止められぬガーゴイルに向かい、小夜子は満面の笑みで、
「ガァちゃん、貴方が好きよ。大好き。世界中の何よりも」と、言の葉を発した。
小夜子の切り取ったようにくっきりとした二重で縁取られた大きな瞳から、うるうるとした音が沁み出でて、それは一粒の水滴となりガーゴイルの鼻先へと触れた。
ぴちょん。
まるでそんな音を立てたかの様に着地したそれは、それでもその身を弾かせることなくガーゴイルの鼻先へと沁みて行った。それが始まりの合図のように、今まで出すことの叶わなかった水分を出し切るか如く、小夜子の瞳からするすると流れ落ちる水滴が沁み入るごとに、ガーゴイルの身体に目を瞑っていなければならないほどの光が溢れ、その身体に巻き付く茨をも変化させて行った。
小夜子はただ泣いていた。静々と、まるで泣くことを気持ち良いと感じさせるほどに涙は小夜子の両目尻から溢れ出て、この地に起きた様々な悲しみを癒して行った。
茨の群れはその棘の存在を無かったことにするかのように、その身をシロツメクサへと変え、小夜子の足を優しく包み始めた。巻き取られたビロードの絨毯を広げるようにその変化は茨の群れへと伝わり、瞬く間にあたり一面をシロツメクサとクローバーの草原へと変えた。「あ、ああ…!」 その変化を見守ることしか出来なかったヨナルテパズトーリは、己の足元に茂る苔類や岩棚に蔓延り始めた植物群のざわざわとしたうねり、コポコポと湧き水の出でる水音を感じていた。
在る様にして在るものたち。
かつてはそうで在ったものたち。
彼の地への幸いは、崩れ朽ちたもの、未だ何とか形を保つもの全てに分け隔てなく降り注いだ。未だガーゴイルの、今となっては
「
と、彼の人の
ガーゴイルの身体が
放たれた光は光の中にあっても尚、暗闇から光へと這い出たときのように小夜子の目を眩まし、小夜子の硝子細工のように澄んだ瞳をうるうると滲ませた。
眩しくて何も見えない。
ガァちゃんはどうなったの?
光の粒子のようなものが弾けた感覚は捉えられたけれど。
ああお願い。双眸よ、その力を早く宿して!
未だ黄緑色の光と激しい目の痛みを瞼のうちに抱えた小夜子は、痛みに涙を流しつつも抗うように瞼を開けた。それでもうっすらとしか開かない眼差しを凝らして、ガァちゃんのいた場所へと目を見据える。それを見咎めた瞬間、小夜子は「あっ!」と叫んで目の痛みすら忘れ、彼の場所に向けて瞳を目一杯に見開いた。
そこにはガァちゃんの姿はなく。
シロツメクサたちに守られるように、ガァちゃんの守りし『玉』だけが鎮座していた。
ガァちゃんは、消えてしまった。
「ガァちゃん!ガァちゃん!」
小夜子は辺りを見回しながら必死に叫び、そうして少しく先にいるドラゴンに目を遣った。ドラゴンさん、ガァちゃんはどこ?
小夜子はその姿を目にし、ごくりとつばきを飲み込んだ。
長い鼻面、
その脇を何物をも飲み込んでしまいそうな程に大きく裂けた口、
そこから覗く牙は雄々しく猛々しく、
小夜子なんて、あの牙に触れたら角砂糖よりも果敢無くほろほろと崩されてしまうに違いない。
前頭部には無理やり生やされたかのような少しく畝った角が対となり、
堅固な眉間から続く瞼は重く、しかしその下に穿たれた双眸は鏃のように鋭く、
昼の光を間近に受けた野良猫のように瞳孔を窄めている。
鈍色の鱗、堅牢な肢体、欲深き下腹。
それらをいとも容易く浮かせる大きな翼には幾重もの骨筋が浮き出でて、
聴こえなくとも揺らさなくともバサリバサリと音が紡がれそうな気配がある。
身体と同じくして鈍色の、鱗の小さき尾はゆうるりと吹かぬ風に流されるように宙を漂っている。
何物をも切り裂いてしまいそうな鋭い爪先、
鋼鉄の刃の様な鈍色の光、
触れれば弾けて仕舞いそうな鱗の先端はどこまでも鋭利で、
ガァちゃんのようでまるでガァちゃんではないあやかしが
「ガァちゃん…なの…?」
小夜子はしばし放心したあと、宙に浮かぶあやかしに小さな
『我はドルイド・ドラゴン…』
少しの沈黙のあと、浮かぶあやかしからなのか、小夜子の脳内に直接呼び掛けるような声が届き、小夜子を一瞬ドキリとさせた。しかしその胸の高鳴りは優しく、小夜子を妙に安心させるものであった。「ドルイド…ドラゴン…」
小夜子は反復するように呟いて、彼の人からは耳慣れない名に少しく首を傾げた。
ドルイド・ドラゴンと名乗るそれは『そう…』と呟いたのち、
『遥か昔
『しかし、この地に我が守るべき十字架は見当たらぬ』
と、少し嘆息し、諦めの色を濃く浮かべたドルイド・ドラゴンに、小夜子はすうと音も無く消えてしまう気配を感じ、「ここに在るわ!」 と、叫んだ。
ここに在る。十字架の形とは全くと云って良いほど相容れぬけれど、彼の人が体を張って守って来た、そしてその力で解放せすべきものが、ここに在る。「貴方は…もしかしたら覚えていないだろうけれども、貴方が守るべき十字架と同じように大切に守ってきたものがここに在ります…。そして…、そしてこれを壊すのも貴方の使命…」
『守りしものを壊すのか』
ドルイド・ドラゴンは、明らかに解せぬと云った相貌で小夜子に問うた。 小夜子はドルイド・ドラゴンと化して仕舞い、明らかに不審を抱いている彼の人に信用して貰える何かはないかとしばし頭を働かせ、己の手に握りしめている『ソレ』を思い出した。
ガァちゃんのバッジ。
小夜子は敢えて無言でバッジを乗せた手のひらをドルイド・ドラゴンへと精一杯伸ばし「これはかつての貴方が私に下さったものです」と宣った。 ドルイド・ドラゴンは、
小夜子のバッジに刻まれた、植物群に彩られた顔を見て『グリーン・マン…我が故郷の守護神…』と、まるで懐かしむように呟いたドルイド・ドラゴンは、その横に刻まれている三行の文字に目を写し、しばし目を
ガァちゃん(で在るはずなのに)まるでそのガァちゃんではない何かに嘲笑られたような気分になった小夜子は目尻を上げたついでに髪の毛をもおどろおどろしく上げ始めた。電気が身体中に満ちる、この感覚は、嫌いだ。そんな小夜子の容貌を見て取ったドルイド・ドラゴンと名乗るソレは『すまぬ、怒らせるつもりはなかったのだ』と小夜子に真摯な瞳を向け、謝った。小夜子はドルイド・ドラゴンのそんな仕草にガァちゃんの一片を感じて涙が出そうになった。彼の人にはもう小夜子の記憶はないのだ。長かったのか短かったのかまるきり判事えない旅路だったけれど、小夜子には、その短い生の中でこれ以上ないほどの
小夜子は彼の人に小夜子と小夜子との思い出全てを思い出して欲しかったけれど、それにはあまりにも時間がないことを、硬化の兆しを告げピキピキと鳴る『玉』が目の前でその音を発していた。
小夜子は泣きたい気持ちを何度も堪え潰して、ドルイド・ドラゴンに再度お願いをした。
「壊してください!」
小夜子の激しさに一瞬怯んだドルイド・ドラゴンで在ったが、
『守りしものを、なぜ壊す?』
と、もう一度小夜子に問うた。
小夜子はしばし顎に手を寄せ、知らぬうちに父と同じく熟考のポーズを形どりながら、「壊すことで吹き出でる命があるのです、それを命と呼ぶのか私には解り得ないけれど…でも大切な、彼の地にも人の世にも大切なものです。それだけは判ります。そして、それを成し遂げられるのは、この玉を守って来た貴方だけなのです」と、答えた。
ドルイド・ドラゴンも暫し熟考したのち、『それは主にとっても必要なことなのか?』 と、問うて来た。
小夜子は今一度ドラゴンやヨナルテパズトーリの姿を省みて、小夜子とドルイド・ドラゴンとの会話には耳の届いていないであろう二人に少しく微笑みかけたのち、彼の人へと向き直り、「もちろん!」と、小夜子にしては砕けた調子で元気よく答えた。
ドルイド・ドラゴンは戸惑っていた。もう星を幾つ数えても足らないほどに遠い昔に顕現された、その時以来、己はもうこの世に現るることはないだろうと朧げながらにも感じていたのだ。それが(多分に)東洋の、未だ幼き
しかし、もし己がこの小さきものと知り合う仲として、そうして小さきものがより小さな手のひらへと乗せ見せしめた鈍色の物体に寄せられていた言葉が真実ならば。
この感情は己には得と解せぬ、しかし受け入れざるを得ない鼓動を持った、『真実の想い』で在った。
「時間がないの」
ドルイド・ドラゴンが熟考している様を辛抱強く待っていた小夜子で在ったが、『玉』の終わりを告げる音が小夜子を急かすように迫って来て、小さな小夜子は思わず彼の人の思考を止めてしまった。そしてもう一度、
「時間がない、時間がないの…」と玉を見据えながら呟いた。
ドルイド・ドラゴンが小夜子の視軸の先に目を遣ると、微かに遠く離れた場所からでもその変調は見て取れて、己の内から何かしら急かすような、まるで鼓動が速く猛々しく打ち鳴らされるような、今までにもこれからも味わうことのない体感が迫って来て、ドルイド。ドラゴンは思わず小夜子に「どうしたら良い?」と訊ねていた。 ドルイド・ドラゴンからのその一言を耳にした小夜子は一瞬逡巡したのち、「貴方のその鋭い牙でも、何物をも引き裂いてしまいそうな爪でもなんでも良い!」と答えた。 何でもいい、何でも。もう時間は本当に、ないのだから。
なぜ小夜子がそう感じるのか、『玉』の異変以上の何かを小夜子は感じ取っていたけれど、それが何故なのかはついぞ分からなかった。 ドルイド・ドラゴンは小夜子の言葉に素直に「分かった」と宣い、一度両翼を大きくわななせると、小夜子の元に(否、玉に向かって)その大きな翼からごうっと云う音を出すかのように勢いを付け、一直線に降りて来た。風も舞わないのに、その勢いにまるで竜巻を前にしたか如く
これまた眩い光が玉から発せられ、数多る西洋妖怪の名が玉から次から次へと溢れ出て、堅牢な彼の地の石の洞、そのあちらこちらへと飛び去って行った。小夜子は玉から名が出る現象を視覚化する能力を持たなかった。これはむしろ感覚に近い。知った名、初めて聴く名、聴き覚えのある名、様々な名前が小夜子の意識を通して在るべき場所へと飛んで行った。まるで渦を巻くように囂々と畝りながら飛んで行くそれらは歓喜に満ちているように小夜子には感じられた。ああ、戻ったんだ。
呆けたように小夜子とドルイド・ドラゴンの一連のやり取りを見ていたドラゴンとヨナルテパズトーリも、その渦に巻き込まれるように在るべき場所へと流されて行った。
ヨナルテパズトーリの「小夜…!」と云う声も波に飲まれて消えてしまった。
小夜子は見えるはずもないのに空中を流れ行く渦に見惚れ、口をあんぐりと開けながら宙を目まぐるしくも見つめていたが、背後から聴こえて来た、
バサリ!ドサッ!!
と云う音で我に返り首が千切れんばかりに振り向いた。
ドルイド・ドラゴン!
彼の人は、まさに力尽きた体でシロツメクサの絨毯の上に両翼を広げ横たえていた。「ドルイド・ドラゴン!」 小夜子は大声で叫びながら彼の人に一目散へと駆け寄り、少しく傾いだ彼の人の
「ドルイド・ドラゴン…ああ、聴こえる…?」 玉を割る仕草は簡単なようでいて相当な圧力を彼の人に与えたようで、両の翼はほろほろと崩れ去り穴だらけで鈍色に光る鱗も精彩を欠け、しかも所々に剥げて居り、見るも無惨な有り様だった。眼は虚ろに開いて居り、美しかった緑彩色の輝きもまるで燻んで見える。小夜子はそんなドルイド・ドラゴンの額辺りにそっと右手を寄せ、もう一度ゆっくりと彼の人の名前を呼んだ。
「ドルイド・ドラゴン…?」
「う、うう…」
ドルイド・ドラゴンから呻くような声が漏れ、小夜子は一気に歓喜の色を濃くした。良かった!生きている!小夜子は神も仏も信じていなかったけれど、今はその神と仏に感謝したい気持ちで一杯であった。そして、呻き声から続く言葉に耳を疑った。
「小夜子…か…?」
小夜子は
「嗚呼、その声は…小夜子…だ…な、懐かしい甘い匂い…も…小夜子のそれだ…」
「ガァちゃんっ!」
小夜子はガーゴイルの意識を取り戻したドルイド・ドラゴンの頭に身を寄せた。小夜子は望んでもいないのに、涙が両目の端からまるで海の底から掬い上げたダイヤモンドのようにぽろぽろと輝き零れ落ちた。そっとガーゴイルの鼻面に頬を添わせ、右の手でガーゴイルのぼろぼろの鱗を傷付けぬよう優しく撫でた。
「この感触は…小夜子の髪だな。鼻に触れる柔らかな温もりは…お前の透き通るような頬だ…」
「ガァちゃん…目が見えていないの…?」
「嗚呼、どうやらそのようだな。本来の姿を手に入れられたと思ったらこの体たらくだ…我ながら…呆れる…」
「そんな…」
小夜子は絶句して、ガーゴイルの顔へと向き直った。ガァちゃん、私のガァちゃん。「小夜子…最後にお前の美しい容貌を目に出来ないのは誠に口惜しいことだ…しかし、しかし彼の地はこれで救われたことであろう。オレはもう、それで、十分だ」「イヤよ!ガァちゃんそんなこと云わないで!小夜子を、小夜子を置いて行かないで!」小夜子は涙や鼻水でぐちゃぐちゃになった顔も声も厭わずにガーゴイルに寄り添い必死に懇願した。
そんな小夜子の言葉を耳にして、ガーゴイルは、泣けるようになったのか。そうか、ならばきっとそんな有り様だろう、と感情に素直な娘のくるくるとよく変わった面立ちを思い出しながら、それならば泣き顔も如何様になろうとも美しかろうと思いながら、かつてどんな姿でも感じたことのない感情、まるで胸にまで大きな傷を作られてしまったようにずきずきと疼くこの感覚、これが『悲しみ』と云うものか。と妙に合点が入った。
こんなにも苦しいものを、小夜子はどれだけ背負って来たのか。そうして、もう話す言の葉の一欠片分ほどの力も持たぬ自分は、小夜子に、きっと、かつてないほどの『悲しみ』を背負わせてしまうと思うと苦しくもどかしかったが、何とか力を振り絞り、大きな口を少しく緩め、
「すまんな、小夜子」
と、
小夜子は「なんで?なんで謝るの?ガァちゃんはガァちゃんでしょう?傷だって少し休めばすぐ良くなるわ!だってここはそう云う場所でしょう?」続く言葉をそれでもグッと堪え小夜子は必死に叫んだ。(だって貴方は、貴方たちは概念なのにっ!) 忘れられなければ石くれに変わらない、ガァちゃんは忘れられてなどいない。小夜子が、その隅から隅までどんな『ガァちゃん』でも己の身が酷く痛むくらいに心に刻んでいる。
石くれになるはずなんてありやしない!
ガーゴイルの身体に次々と水滴が沁み渡る。これはきっと小夜子の涙なのであろう。涙と云うものはこんなに暖かいモノだったのか。かつて一体の石像だった頃、子を孕む母親から得た知識がある。身に宿る子を守る水、『羊水』。きっとそれは小夜子の涙に近しいものだったに違いない。小夜子。小夜子小夜子小夜子。我が愛しきもの。この身を滅しても守りたきもの。ああ、全てを賭して。ガーゴイルはこの時初めて『切ない』と云う感情を自覚した。心に甘い痛みを
ガーゴイルは最後の力を振り絞り、
「小夜子を
愛する…」
ガーゴイルの発した言葉に放心した体の小夜子を、力無き目元を自然と緩ませまるで小夜子を見守るように細めたガーゴイルは、そう云って、フッと安らかに身体の力を抜いた。
「ガァ…ちゃん…?」
まるで抜けてもいない色素が抜けて行くような、ボロボロに朽ちても尚鈍色を保っていた鱗が崩れて行くような、そんな予感がして小夜子はずぶ濡れの瞳を大きく見開いた。「ガァちゃん!?ガァちゃんっ!!」 小夜子はガーゴイルの頭を揺すり、手に巻かれた包帯が鱗に引っかかり引き千切れるのも構わず彼の人の手やつま先をゴシゴシと擦った。
冷えて行く。
小夜子の努力なんて丸切り虚しいほどにガーゴイルの身体は急激に冷えて行く。
ガァちゃん!折角会えたのにこんな終わり方なんてひどいよ!
小夜子は目も鼻もぐしゃぐしゃにしてガーゴイルに訴えかけたけれど、小夜子の瞳から溢れる涙はガーゴイルの永遠に閉じた瞼を開かせてはくれなかった。
ああ…ガァちゃん…。
ガーゴイルの瞑った瞼を見遣った小夜子は、ガーゴイルの切れ長の目尻から一筋の雫が零れ落ちているのを目に止めた。「泣いたことなんてないだなんて、嘘つき」そう云って小夜子はその美しい液体に顔を寄せ、口を蕾のように窄めるとソレでも戦慄いてしまう唇をそうっと液体に近付けて思い切りスウっと吸い込んだ。小夜子がその液体をごくりと飲み込んだ瞬間に小夜子の世界が反転した。
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