第23話 二匹と一人の道行き



 ヨナルテパズトーリを先頭とし、その後ろに着いて歩くガーゴイルと小夜子は、ヨナルテパズトーリの手前何となく手を繋げずにいた。小夜子はガーゴイルに触れていると心底安心出来たし、ガーゴイルとて(仮令一瞬でも)小夜子を二度と見失わずに済む手段の一つとしても小夜子の身体を繋ぎ止めておきたかった。小夜子は(ガァちゃんがお洋服を着ていたならなあ)と残念に思った。そうしたら袖口の辺りをちょっと摘ませて貰えたのに。ガァちゃんなら不機嫌になどならず、小夜子を優しく受け止めてくれる。

 そうして、どうしてあの時父は不機嫌になったのだろう。と、引っ越ししたての頃、父に浜辺へと誘われたあの時分を思い出した。もう随分と昔の話だけれど、小夜子の胸には心的外傷トラウマとして深く刻み込まれていた。自ら率先して他人に触れられないほどにそれは根深く、小夜子から『友』と名の付くものが去って行ったのもそれが一因であった。人との距離感が分からない。近付き過ぎて厭われるのが怖い。幼稚園児の際、近所のお友達から「サアちゃん」と手を握られても、小夜子はどのくらいの力で握り返したら良いのかすら躊躇うほどであった。でも、なんでだろう。ガァちゃんだけは違った。戸惑いも、厭われる怖さも、距離感も何も気にすることなく、実に自然と触れることが出来た。

 小夜子はガーゴイルを見上げ、ヨナルテパズトーリの後頭部辺りを真剣な目付きで見詰めているその横顔から、頑健な鱗に覆われた肩口、逞しい二の腕と前腕二頭筋、そうして小夜子の手のひらでは掴みきれない太さの手首まで視線を落とし、ちょうど小夜子の肩辺りに来る手の甲を眺めた。小さく均等に並ぶ滑らかな鱗の煌めきが眩しいほどで、小夜子は先ほどガーゴイルが自ら抜いて落とした鱗を拾っておくべきだったと後悔した。こんなに美しいものを放ったらかしにして来てしまった。あの鱗たちは寂しくはないかしら。


「なァーアンタ」


 ヨナルテパズトーリが前を向いたまま突然話しかけて来たので、ガーゴイルの鱗に気を取られていた小夜子はビクッとした。「お嬢ちゃんじゃなくってェ、大きい方のアンタ。アンタ見かけん顔よねェ」

 ガーゴイルはその言葉に一瞬ビクリとしたが、なぜ自分がビクついているのかは分からなかった。ヨナルテパズトーリはガーゴイルの反応を見るでもなしに、「オラは結構自由な身でねェ、この地ではあっちへフラフラこっちへフラフラ出来てたもんだからァ、大抵のあやかしの顔は憶えているはずなんだけんどねェ。なァんか、アンタだけは記憶にないんよねェ」と云った。

 何となく漂う不穏な空気に焦った小夜子は、「ガァちゃんはガーゴイルだから!だから…雨樋の守り神だから、色んな顔や身体を持っているの!きっとそのせいよ!」と辛うじて助け舟っぽいものを出した。

 実際小夜子もガァちゃんが本当にガーゴイルなのかは分からなかったし、あの時マーメイドの云っていた『アンタの見てくれもあの時とは随分と違う』と云うような台詞を忘れられないでいたのだ。ガァちゃんの閉じ込められていた石像は間違いなくガーゴイルだけれど、本当のガァちゃんは違うのかも知れない。小夜子はどんな形であれガァちゃんがガァちゃんならば何も構いやしなかったけれど、ガァちゃんから、この話題は禁忌タブー的なニュアンスが感じられたので、小夜子はこれ以上話を広げたくなかった。「そうなのかのォ〜、まァオラもけっこう適当だからのォ」

 イシシと笑いながらそう宣ったヨナルテパズトーリに小夜子はほうと胸を撫で下ろし、ガーゴイルを再び見上げた。ガーゴイルは小夜子を見るでもなく、虚空を凝視しているように見えた。

 小夜子は急に不安となって、ヨナルテパズトーリの視線も気にせずにガーゴイルの指を力一杯ぎゅうっと握った。小夜子の幼い力ではガーゴイルの堅牢な指はびくともしなかったけれど、ガーゴイルの気を紛らわせるには充分であった。ガーゴイルはハッとした表情で小夜子を見下ろし、小夜子の心配そうな表情を目にして「すまない」と一言詫びた。 小夜子はふるふると首を振ると「ガァちゃんは、ガァちゃんだから、だから、大丈夫。大丈夫だよ」と云って微笑んだ。


 「今度はこっちみたいなのォ」

 ドラゴンが魔法をかけたと云う不思議な小枝は、分かれ道などに行き合った際に地面に置くとふるふると細かく震えたのちにくるっと方向を変え、小夜子たち御一行を確実に行くべき場所へといざなった。

「私たちだけじゃ絶対辿り着けなかったね」小夜子はガーゴイルに向かってそう云い、辺りを見渡した。隧道を潜ったり、岩場の道を曲がったりと何度もあちこちを折れたけれどさして景色は変わらず、たまに小夜子の見知った妖怪の慣れ果てが在るくらいで、もし『さあ、ここから一人で元いた場所へ戻りなさい』と云われても戻ることの出来る自信は小夜子には到底無かった。ガーゴイルは「そうだな」と一言返し、「この地がここまでの規模だとは想像もしていなかったな」と呟いた。もしかして同じ道を堂々巡りしているのでは?と思ってしまうくらいに景色に変化がないので、小夜子はヨナルテパズトーリに「ヨナちゃんはここでの暮らしを憶えてる?」と尋ねた。「憶えとるよォ」と云う声が返って来て、小夜子は記憶を失くしているガァちゃんに少し悪い気もしたけれど、妖怪たちがどんな風に過ごしていたのか聞きたくて仕方がなかったので「どんな?どんな?」と思わず急くように促してしまった。

 そんな小夜子の気も知らず、ヨナルテパズトーリは相変わらず呑気な声で、「そうねェ、オラは基本住み心地の良い場所が森の中だったから、そう云うところは森が多くって、森に棲むあやかしなんかも多くって、行き会ったら歌ったり踊ったり、呑気に暮らしていた気がするねェ。「でも森を抜ければ、砂ばっかりのところだったり、草っ原だったり、人間界で云うところの墓地みたいなところもあったり…家も其処此処に建っていたなァ。「家なんか入ってみると、一見何もいない風なんだけんど、床下にみっしり小人が詰まっていたりねェ。あれはビックリしたなァ」と云ってヨナルテパズトーリはイシシと笑った。その他にも気まぐれに昼へと変わったり夜へと戻ったりする時間の変化のこと、突然雪の降りしきる場所があったこと、海は先ほどのセドナの地辺り一遍に広がっていたこと、大抵の水棲妖怪は海へとつどっていたこと、日暮れあたりになると、セイレーンの歌声が澄み渡るように美しく、この地へと響いたこと。「綺麗なねェ、本当に美しいところだったんよォ」 ヨナルテパズトーリはそう云って、変わってしまった彼の地をぐるり見渡した。そうして大きな瞳から大粒の涙をぽたぽたと零れ落ちさせた。

 ヨナルテパズトーリの話す嘗てのこの地の風景を想像していた小夜子は、ヨナちゃんのそんな姿を見て胸がキュウっと苦しくなったけれど、同時に大粒のなみだをハラハラと零し続けるヨナちゃんを見てギョッとした。「ヨナちゃん!ヨナちゃんは泣けるの?」

 びっくりした小夜子はヨナルテパズトーリに大声で問いかけ、その小夜子の勢いに同じくびっくりとしたヨナルテパズトーリは「な?ななななななな泣けるよォ?」と大慌てで返した。「なんでェ、なんでそんなこと訊くのォ」と目を赤く腫らせたままのヨナルテパズトーリは、萎れた罌粟の花のようにしょんぼりとしてしまった小夜子の顔を心配気に覗き込み、次いでガーゴイルを見上げた。その視線を受け取ったガーゴイルは、「小夜子はこの地に入ってから、泣けぬのだ」と、眉間に皺を寄せ宣った。「泣けない…って涙が出ないってことォ?」ヨナルテパズトーリはどちらへともなく訊き、「でも悲しい時は悲しいんよねェ?」と続けた。

 小夜子はコクリと問いに頷き、泣けないと云うことがこんなにも苦しいことだと初めて身を以て知った気がした。小夜子は生来泣き虫だったから、わんわんと泣くことは早々にはなかったけれど、夕焼けの燃えるほどに赤い色を取り込んだ部屋の片隅で、体育座りをしてはしとしとと抱え込んだ膝に涙を落としたり、夜のしじま、毛布を添えてもまだ冷える布団の中で天井を見上げながらさらさらと涙を零し枕を浸したりした。

 涙を流すことは小夜子にとっての救済とも云えた。他所の子らに比べれば余り感情を吐露させることが苦手な小夜子の、唯一の砦。それはとてもとても小さなお城ではあったけれど、小夜子にとっては悲しみを伴った安らぎの場でもあったのだ。胸の中に潜み始めた小さなしこりも涙を流せばその塩分で溶けてしまうような気がしたし、無神経な所作に惑わされ悲しむ夜も眠りに就けぬ時間を涙が埋めてくれた。 今だって、忘れ去られ、石と化したモノたちやこの地での記憶を失くしてしまったガァちゃん、記憶があるが故に郷愁に暮れるヨナちゃんや、セドナの発する煌めきの内の悲哀、そう云ったものが小夜子の胸の中をこんこんと湧き出でる泉の流れのように揺らめきながら漂っていた。小夜子の悲しみは海をふらふらと漂うクラゲのようで、99.9%の水分と0.01%の感傷で出来ているようにも思えた。そしてクラゲに含まれる0.01%の有機物が彼らを漂わせるように、またその0.01%の感傷が小夜子の悲しみを、涙を、心を生かす原動力でもあるのだ。今ここでもしもわんわんと泣けたとしても、ガァちゃんやヨナちゃんやセドナの悲しみを救ってあげることは出来ないけれど、小夜子はヨナちゃんの大きな瞳から溢れる涙を見てそれを美しいと思い、誰かが誰かのために泣くことの(それが仮令自分自身のためであったとしても)その尊さを改めて思い知らされた気がした。「どうして私は泣けないんだろう…」 そう小さく呟く小夜子を見て互いに顔を見合わせたガーゴイルとヨナルテパズトーリは、どんな慰めの言葉も今の小夜子には届かない気がして、見合わせた顔を難しげに顰めた。「アンタ、アンタァは泣けるんかいな?」間を継ぐようにしてヨナルテパズトーリはガーゴイルに問うた。実際知りたくもあったのだ。ガーゴイルと小夜子、そして自分とは同じ概念ではあるようだけれど、もしかすると何かが違うのかも知れない。しかしガーゴイルから発せられた言葉は「さあな」で、ヨナルテパズトーリを随分とがっかりとさせた。

「憶えている限りでは泣いたことがないので分からないな」


 ガーゴイルは小夜子が悲しめば悲しんでいる小夜子を想い大層心を痛めるけれど、それは悲しみとは違う気がした。『悲しい』と云う感情の分からぬ己はきっと、最愛のものを失くす時に初めてその感覚を知るのであろう。小夜子を失う–––そう考えただけでガーゴイルは恐れる気持ちを抱いたけれど、あくまでも小夜子を失う恐ろしさしかそこにはなく、『悲しみ』と云うものは喪失感の後にやって来るものなのだろうか、それとも直ぐに感じるものなのだろうか。などと詮無きことを考えていた。


「小夜子ちゃァん…」

 ガーゴイルまでも真剣に考え込んでしまったので途方に暮れたヨナルテパズトーリは、天女の羽衣のように薄い悲しみのひだを全身に纏った小夜子に向けて、大きな瞳を潤ませながら「きっとォ、何か原因はあるはずだしィ、それが分かれば解決方法もあるよォ」と云った。ヨナルテパズトーリは悲しみの蓄積の辛さを分かっていたし、涙を流すことでその悲しみのおりも徐々に流れ去ることも充分に理解していたから、今の小夜子の辛さが痛いほどに理解出来た。未だ出会って少ししか経っていない小夜子の、心が如何に繊細なことかも充分に分かっていたし、どうやら我らあやかしを相当に好いていてくれるらしいこの娘の、石くれへと変わり果ててしまった仲間を見る視線の痛々しさを目にするにつけ己の胸も痛んだし、そしてその一方で心の片隅に温かいものを感じた。ある意味もう『死』とも取れる友の亡骸を悼んでくれる小夜子を見る度に、ヨナルテパズトーリは小夜子の優しさに触れ、そうして小夜子のことが大好きになっていった。それは友情に近い好きではあったけれど、涙の零せぬ友を思うには充分な感情であった。


 小夜子は己の小さな指先で零れぬ涙を拭くような仕草をし「ありがとう、ヨナちゃん」と礼を述べ悲しそうに微笑んだ。そうだ、怒ることが出来るのならば、そして小夜子の怒りにあんな力があるのならば、この小さな胸を押し破ろうとする悲しみたちを涙に変えて解き放つことが出来たなら、それはきっとガァちゃんたちの故郷を取り戻す力となり得るかも知れない。ヨナちゃんが云う通り何かしら原因はあるはずだし、喜怒哀楽の哀だけを何処か、心の底辺りに取りこぼしてしまったのか、小夜子の部屋に置いて来てしまったのか、それは定かではないけれど、置いて来てしまったのなら取りに戻れば良いし、心の底に落ちているのならば手探りで探ろう。落ち込んでいたって涙は流れてくれはしないのだから。


 小夜子はガーゴイルにもお礼を云おうと彼の人の姿に目を遣ったけれど、ガーゴイルはまたもや立ったまま『考える人』風なポーズで佇んでおり、小夜子は一気に楽しくなってプッと吹き出してしまった。それでも小夜子の陽気に気付かずしかつめらしい顔をしたガーゴイルの素振りをそうっとヨナちゃんに告げ口をした小夜子は、ヨナちゃんと顔を見合わせてふたりププッと吹き出すのであった。小夜子はガーゴイル以外との笑い合えるような楽しい時間は久しぶりで、この地にヨナちゃんを遣わせてくれたドラゴンに改めて感謝をした。誰かとこうして笑い合うのなんていつぶりだろう。 ガァちゃんとの笑顔のやり取りの中には互いにはにかみのようなものが感じられて、楽しさと恥ずかしさと切なさの入り混じった複雑な感情の交差点を模した感覚をもたらすけれど、ヨナちゃんとの笑い合いには楽しさしかなく、小夜子はヨナちゃんを『友達』だと思っても良いだろうか、もしヨナちゃんが、小夜子のその風に揺られるタンポポの綿毛のように果敢ない望みに『是』と応えてくれたのならばどんなにか嬉しいことだろう、とヨナちゃんの笑顔を見ながら己の胸を切なくさせた。友達と云うのはどうやって『なる』ものなのだろうか。お互いが「今日から友達だ!」などと宣言し合うものなのだろうか。それとも自然と過ごすうちに互いにそう思い合うものなのだろうか。小夜子はヨナちゃんに問いたかったけれど、『仮令もしかしたら』と云う己の中の消極的な感情が邪魔をして、小夜子を臆病なただの娘へと変えるのであった。 小夜子の当惑気味な視線に気付いたヨナルテパズトーリは、「小夜子ちゃァん、どしたのォ?」とのんびりとした声で、でも気遣わしげに尋ねた。さっきまでうふふと笑っていたと思ったら、今度は何やら思い悩んでいる様子。ヨナルテパズトーリは何やら悩みながらももじもじとしている小夜子を可愛らしく思い、「何か云いたいことォあるんなら云ってねェ、オラは早々怒ったりしないしィ」と助け舟(らしきもの)を出した。

 小夜子は尚ももじもじとしていたけれど、ヨナちゃんの気遣いが嬉しく、もしこれでヨナちゃんに拒否をされたとしても『知人』くらいに思ってくれるなら幸いではないか、と思考を切り替えた。なにせヨナルテパズトーリは、小夜子があの水木しげる先生の図鑑を見て、一番最初に好きになった妖怪なのだから。


「…あの、あのね。私、ヨナちゃんにお願いがあるの…」小夜子は頬の辺りを上気させながら平素も少しく小さめな声を殊更潜めて云った。


「あの…あの。ヨナちゃん、わ、私と…「私と、お、お友達に、なって、なって、くれる…?」


 ヨナルテパズトーリは小夜子の問いの内容に呆気に取られて、しばし口をポカンと開けていたけれど、「小夜子ちゃんとオラは、もうとっくの昔からお友達だよォ?」と至極当たり前のように答えた。そんなヨナルテパズトーリの一言に今度は小夜子が呆気に取られる番であった。「お友達…?」「そうよォ?」 小夜子は誰かに友達になって欲しいなどとお願いをするのは初めてで、まるで氷で出来た平均台を一歩一歩慎重に渡るような緊張感で臨んだものだから、心の中の平均台がもろもろと砕けて、小さな氷の礫から六花の結晶の群れにゆっくりと変化をし、溶け行きては小夜子の心に染み入りながら、小夜子の冷えた足を優しく暖かな地面へと誘ってくれるのを身に沁みて感じていた。お友達。小夜子の唯一無二のお友達。小夜子はお友達が出来たことはもちろん嬉しかったが、ヨナルテパズトーリが既に自分をお友達だと思ってくれていたことがとてもとても嬉しかった。


「小夜子ちゃんとォ♪オラはァ♪おっともっだちいィ♪」


 そう自作の歌を歌いながら小夜子の手を取って不器用に踊るヨナちゃんに吊られ、キャッキャと笑いながら踊り出した小夜子は、己は孤独を好んでいたけれど、孤独であることに寂しさも感じていたことに改めて気付かされた。本当は一人ぼっちなんて嫌なのだ。独りでいること、いなければならないことに強がることしか出来なかった小夜子は、ヨナちゃんとこうしてクルクルと螺旋のように回りながらはしゃぐこの瞬間を、無限の檻の中に閉じ込められたら良いのに、と強く願った。

「ン、ンンッ」 と云う咳払いのようなものが聞こえてハッと我に帰った小夜子は、なんとも云えない表情をしたガーゴイルと目が合い、なんだか一気に気不味くなってしまった。ガァちゃんのことを忘れていたわけではないのだが、初めてと云って良いほどにきちんとしたお友達が出来たことに余りにもはしゃぎ過ぎてしまった。でも、それでもきっと小夜子とヨナちゃんがお友達になったと知ったらガァちゃんも喜んでくれるだろうと云う期待を込めて、「ガァちゃん!私とヨナちゃんはお友達になったの!」 と、ガーゴイルに向かい極上の笑顔で宣言した。

 ガーゴイルはほんの少し前から二人のやり取りを見、小夜子のいつになくもじもじとした仕草や己以外と対峙して尚上気する頬、そしてヨナルテパズトーリと手を繋ぎ楽しそうに踊り回る姿に妬く思いでいたのだが、この世のどんなにか美しく咲き誇る花でも叶わぬ笑顔でそう云われてしまったら、素直に喜んでやるしかなかった。ガーゴイルは『お友達』を概念としてしか知らなかったけれど、いつも小夜子が道すがら一人ぼっちで歩く姿を目にしていた彼の人は、少し俯き加減で歩くあの表情を思い出し、先ほど小夜子が祈ったように、この地にヨナルテパズトーリを遣わせたドラゴンに感謝をする心持ちで一杯であった。「そうか、良かったな」

 そう返事をしたガーゴイルを少し不思議そうな目で見詰めた小夜子だったが、直ぐにまた表情を花びらへと変えて、ヨナルテパズトーリと向き合い踊り出した。


「小夜子ちゃんはァ、ここにいたみんなのことが好きだったのォ?」


 まるで幼稚園のお遊戯のように手を取り合い、くるくると弾みながらそう尋ねられた小夜子は、しばらく考えたのち、「私が知っているのは水木しげる先生の本の中の彼ら彼女らだけれど…「姿形が面白くて好きなモノや、『どうしてそう作られたのか/考えられたのか』を想像するのが楽しい妖怪なんかは好きだわ。でも『歯痛殿下』みたいに虫歯を妖怪のせいにしちゃう感性も好き」 ヨナルテパズトーリはふむふむと頷きながら耳を傾け、ガーゴイルも密かに耳をそば立たせていた。そんな二人を意に介さずに夢見るように小夜子は続ける。「でも…そう云うモノだと解っていても、理由もなく町や村を襲ったり、人に危害を加える妖怪は、どうして作られてしまったのだろうって不思議に思うし、何かしらの人間の起こした悪行を妖怪のせいにするのはなんだか申し訳ないなって思っちゃう…」 いつの間にやら足の止まっていた小夜子とヨナルテパズトーリは、ガーゴイルを取り巻く形で三角形を描き、そうして二人は小夜子の話に聞き入っていた。


「ヨナちゃんはどう思っているの?その…ヨナちゃんはメキシコで悪魔と呼ばれているでしょう?」「悪魔?このちんまいのが?」と、ガーゴイルは大仰に驚いてみせた。「そうよォ。これでも割と悪いあやかしなんよォ」そう云ってヨナルテパズトーリはイシシと笑って返した。


 ヨナルテパズトーリはメキシコに現れると云う妖怪だ。

 棲家は緑深い森を好み、フクロウも鳴かぬような暗闇の夜、金属質な甲高い音で木を切るような音色を発し、その音を運悪く聞いてしまった者は何かしらの疾病を患うし、その姿を見てしまった者は死をも齎されてしまうと云う。水木しげる画では斯様な見場でえがかれているが、伝説では黒い鳥として顕現されるとも大蛇として顕現されるとも云い、その実ははっきりとはしない。そんなヨナルテパズトーリだが−−–「それがねェ、ちょっと前まではなんとも思ってなかったんよォ。オラたちは基本考えないモノだったしィ、オラのせいで、まあ実際はオラのせいではないんだけんどォ、ヒトが病気になろうが死んじまっちまおうがァ、まあオラには関係がないことだしィ…「でもォ、でもね、今はなんだか悲しくなってしまうんよねェ。『ヨナルテパズトーリのせいで大切な者を亡くした』と、悲しんでいるその家族とかお友達とかを見ているとねェ。オラのせいではないんだけれども、悲しくなってしまうんよォ。オラ、オラは…「本当はあやかしでも人間でも月でも花でも動物でもォ、幸せでいて欲しいと思っているんよォ…。「でも、でもね、小夜子ちゃん、オラがこうして存在することで、悲しみに暮れたヒトたちが少しでも救われることも確かなんよ」「だからね」「オラはこの世に顕現されて良かったって、そう思うんよォ」

 そう云って、泣き笑いをするヨナルテパズトーリを小夜子は小さな腕を精一杯伸ばして抱きしめた。そうしてヨナちゃんを心から愛おしく思い、敬った。こんな敬虔深い存在が人々から恐れられるなんて本当に悲しい。でもヨナちゃんはそれすらも受け入れて人間たちのことを思い遣っていてくれている。小夜子は濡れぬ瞳を静かに閉じて心の中で涙を零しながら、「ありがとう…ヨナちゃん」と呟いた。きっとみんな人間の世界では恐れられる存在であっても、この地ではヨナちゃんのように穏やかで優しく陽気に過ごしていたのだろう。それはガーゴイルの存在からも大いに窺い知ることが出来て、小夜子はヨナちゃんのためにも、ヨナちゃんの仲間たちのためにもこの地を取り戻さなければならないと、自分が泣けないこと、その程度で凹んでいる場合ではないと己を叱咤した。「アンタァ、アンタはどうなのォ?」 ヨナルテパズトーリと小夜子の抱擁を(これは友情…友情だっ…!)と強く思い込みながら己を自制していたガーゴイルは、ヨナルテパズトーリからの急な設問にやおら戸惑った。

「オレ…?オレは…」


 ふらり傾きおのが口吻を右手で覆ったガーゴイルの急な変化に、小夜子とヨナルテパズトーリは各々に「ガァちゃん?」「大丈夫ゥ?」と案ずる声を掛けたがガーゴイルの耳には届いていないようで、小夜子はガーゴイルが何かを思い出そうとしているのか、それは彼の人にとって良いことなのかと心配になった。人につけ妖怪につけ、心の奥深くに堅牢な鉄の箱へと閉じ込めて、鍵を掛け鎖で覆い錘を垂らし、深く深く泥沼のような場所へと深くに沈め、思い出さないように封印すべき記憶は確かにあるものなのだから。


「オレは…自分が嫌いだった…醜い容貌も、顕現する際の記憶も…」


 小夜子はガーゴイルの口から搾り出すように放たれた言葉に耳を疑った。醜い?ガァちゃんが?そんなはずはない、今だって悲哀に色濃く反映されている横顔は、憂いを帯びて尚こんなにも美しいと云うのに。しかし小夜子はそこであの時のマーメイドの言葉を再度思い出した。『アンタの見場も相当違うようだがねぇ』。そんな感じのことを、云っていた。彼女は。そして先ほどヨナちゃんに存在を疑われた時も、ガァちゃんは微かに動揺しているように見えたことも。

 小夜子はたったの一瞬だけれども足元がぐらつくような不安を覚えて、ガーゴイルの指を再び握った。

 ガァちゃんはガァちゃんではないのかも知れない。もしかすると他の妖怪なのかも知れない。でもそれがなんだと云うのだろう。多少見てくれが変わったとしてもガァちゃんはガァちゃんだ。小夜子を癒し、心からの安寧をくれる。ガァちゃんの前でだけは、小夜子は小夜子らしく自由に振る舞える。私の心の全てを埋めてくれた人。ああ、今この想いのありったけをガァちゃんに伝えることが出来たのならどんなにか良いだろう。 小夜子は少しく震える彼の人の指を強く握りながら、もう片方の手は自然と左胸に付けたバッジを握りしめていた。ガァちゃんの鱗で出来た、鈍色をした小夜子の宝物。

 すると突然、小夜子のバッジを握りしめた手の隙間隙間から黄金色を纏った眩い光が漏れ出し、その眩しさに仰天した三人の同時に放った「あっ!」と云う声と共に小夜子はバッジから手を離してしまった。小夜子の手から解放されたその光は円錐形を作り、小夜子の胸の辺りから真っ直ぐと前に伸びて、ちょうど近くにあった石くれへと辿り着くとまるで映写機のように何かを写し出した。その一連の事態に呆然とすることしか出来なかった小夜子たちであったが、それでももっとよく見ようと小夜子が自然と足を踏み出した途端にその動きを嫌うようにバッジからの発光はフッと消え、三人はまたもや同時に「あっ!」と声を上げるのであった。


「今の…見た、よね?」


 誰ともなしに尋ねた小夜子は二人の返事を聞くいとまもなく「何かの石像が映っていたわ!」と興奮げに話した。ヨナルテパズトーリは突然の事態に身体をコクコクと傾けることしか出来ず、ガーゴイルは何故か当惑しているように見えた。 そんな二人の反応もろくに気遣えないほどに興奮してしまった小夜子は、「見たことのない石像だった!でもあれは…あの子、あの人はきっとドラゴンの一種だよ!どうだったっけ…一瞬だったから間違っているかも知れないけれど、ドラゴンが大きな十字架を守るように絡み付いていた!」

 一気に喋りまくってハアハアと息切れを起こした小夜子は、己が口調にも気遣えないほどに興奮したことに今更気付き、顔を赤らめた。

「一体何から光が出たのォ?」

 ヨナルテパズトーリは小夜子の胸元を覗き込み「なんだァ?バッジィ?」と尋ねた。

 小夜子は気を取り直して、「そう…これはガァちゃんが私へのお守りとして作ってくれたものなの」と、己が胸元のバッジを見ながら答えた。今までなんとなしに触ることはあったけれど、こんな反応は初めてだった。何故だろう、ガァちゃんの指を握っていたから?小夜子を通してガァちゃんと繋がることに因って反応した? 小夜子は先ほど映された石像がどうにも気になって、もう一度ガァちゃんの指とバッジを強く握ってみたけれど、今度は特になんの反応も見せなかったのでガッカリとした。 小夜子は未だ呆然として見える彼の人を見上げて「…ガァちゃんは、さっきの石像に何か見覚えがある?」と尋ねてみた。

 ガーゴイルは胸の中心辺りからゆっくりと身体中に広がり行くこの暖かいような懐かしいような感情に名前を付けられずにいた。あのような石像は目にしたことはない。ないはずだ。この地で斯様な姿を持つあやかしも目にしたことはないように思えた。とは云えガーゴイルは己の記憶の不鮮明さを嫌になるほど覚えていたので、もしかしたら単に忘れているだけなのかも知れないが。しかしこの、先ほどこの地へ降り立った際とはまた違う温もりを持った郷愁のようなものは何であろうか。


「なんだろうな…見た覚えはないが、懐かしさ…と云うのか、そう云うものは感じる」


 石像の写し出された石くれに向かい目を見張りながら、しかしその横顔に切なさのような影を滲ませたガーゴイルを、小夜子は改めて美しいと感じた。小夜子にも全く見覚えのないあの古びた石像は、もしも妖怪に祖先的なモノがいるとしたら、ガァちゃんにとってそう云った存在なのだろうか。それにしては余りにもガァちゃんの見た目とかけ離れているけれど。

「今の石像は守り神みたいなもんなんかねェ」

 ヨナルテパズトーリも、石像の映し出された辺りを面影でも辿るように見遣りながら、小夜子に向かいそう言った。「どうして…そう思うの?」 ヨナルテパズトーリのいつになく真剣な(ように見えなくもない)横顔にちょっと笑ってしまいそうになった小夜子は、今はそんな時ではないと身を正してヨナルテパズトーリにそう問い返した。


 「だってさっきの石像は十字架を大層大事に抱えるように絡み付いていたよネェ。オラにはそれが破壊するものではなく守るものの慈愛みたいなものだと感じたんだけドォ」

 なるほど、守護神!小夜子は手を打つ心持ちでいた。

 そうなると、ガァちゃんがいるはずだった地方でその祖先たちに祀られていたドラゴンなのかも知れない。ガァちゃんの遠い故郷の遠い遠い、遥か銀河の道すがらすら感じさせられるほどに遠いであろうご先祖様。なぜそのご先祖様が映し出されたのかは分からなかったけれど、ガァちゃんの本来の姿への道標にはなりそうだ。小夜子はガァちゃんがガァちゃんでいてくれるのなら見場なんて到底構いやしなかったけれど、『自分の存在が何だか分からない』と云うのは、この地を失い、名をも失いつつある彼らにとって、今となっては大層な不安の要素となってしまったに違いない。この地があったからこそ彼らは『何者でもなく』いられたのだ。なんの不安も苦しみも、悲しみもなく、陽気に暮らしていられたのだ。還してあげたい。元に戻してあげたい。人の世で忌み嫌われる役柄を背負わされていた彼らだからこそ、安寧の地を取り戻してあげたい。そうしてみんな元通り、歌ったり踊ったりとして日々を楽しく過ごして欲しい。小夜子とガァちゃんのお守りバッジがあれば、きっと本来のガァちゃんを取り戻せる機会もやって来るはず。


 小夜子はいま推理した『石像はガァちゃんのご先祖様なのではないか説』を二人に話し、妖怪も年を経るごとに伝承が混じり合い、次第に姿を変えて行くこと、なので何かしらの繋がりは確実にあること、そしてこの長いようで短い旅の途中、きっとガァちゃんが己を取り戻す機会がまたあるであろうことを話した。


「でも、でもォ、アンタァ、自分のことォ嫌っていたんでしょォ?」

 ヨナルテパズトーリの一言にまたもやハッとさせられた小夜子は、己の浅はかさを大いに悔いた。そうだった、ガァちゃんは己を嫌っていたと云っていた…そう、そして醜い、とも。


「ああ…オレはオレが嫌いだったよ。水面に映る自分の影にすら反吐が出るほどにな」


 そのはっきりとした一言に小夜子とヨナルテパズトーリは驚いて互いに声を上げた。


「ガァちゃん、記憶が戻ったの?」

 息石切ったような小夜子の問いかけに対し、ゆうるりと首を横に振ったガーゴイルは、「いや、期待に応えられなくて済まないが、その程度しか思い出せん」と云った。「記憶の中の水面に映る己の影すら茫洋として掴みどころがないほどだ」

 ガーゴイルはそう云って少し自虐的に笑い、小夜子に向かっておどけた振りで降参のポーズをした。


 ああ、小夜子は間違ってしまったのだろうか。己の正体の分からぬガァちゃんを憂いていたけれど、それは小夜子がそう思い込んでいただけで、今のガァちゃんには戻らぬ記憶も本来の自分もどちらもいらないモノだったのかも知れない。勝手に思い込んで勝手に考え込んで暴走した。小夜子は自分がどうしようもないほどに情けなくなって、ガーゴイルに謝罪の言葉を述べた。「何を小夜子が謝ることがある」

 項垂れている小夜子を見てガーゴイルは優しく問いかけた。

「だって私、勝手に勘違いをして余計なお節介をしようとしてしまったわ。ガァちゃんは『本当の自分を知りたい』なんて一言も云ってやしないのに…」

 ガーゴイルは何も云わず、ただ俯く小夜子のサラリとした髪にそうっと指を通し、そのまま柔らかく頭を撫でた。絹糸を浚うようなさらりさらりとした音色が、青い岩影の隅々まで届くほどに彼の地はしんと静まり返っていた。

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