第61話 失踪
レシアの料理の腕前はそれからも徐々にだが上がっていった。
アリサは回数こそ減ったが、ちょくちょくドラガンの家に行き夕飯の味見をしている。
以前に比べレシアは満ち足りたような顔をしており、色々と家庭が上手くいっているのだとアリサも安堵している。
現在、レシアの母アンナは娘夫妻の邪魔にならないようにと工員宿舎に一人で住んでいる。
工員宿舎に近い食堂広場でコウトの下で働き生計を立てている。
食堂広場ではアンナのような年齢の女性が多く働いており、さらには街中の人が食事にやってくるので特に寂しさは感じていない。
アンナはドラガンが毎日ご飯を食べに来ている事は知っており、その原因についても心当たりはあった。
思い起こせば、これまでレシアが炊事を手伝ったという記憶が無い。
それ以外、例えば洗濯や掃除はそつなくこなすし、裁縫も不器用ながらも手伝っていた。
やり方も教えてあげた覚えがある。
だが頑なに炊事だけは手を出そうとしなかった。
幼い頃、包丁を持って炊事の真似事をして遊んでいたレシアを強く叱った事がある。
恐らくそれで炊事は怖いものという思い込みができてしまっているのではないかとアンナは考えている。
ただ自分の若い頃を思い出し、時間が解決する問題だと感じていたし、夫のためにと思えばレシアの方から何かしら動くだろうと考えていた。
アンナの経験からして、レシアはアンナがやらせた事は絶対に上達しない。
レシアから興味を持ってやっている事しか上達しない。
それですら中々上達しない。
久々に娘に会いに行ったアンナは非常に驚いた。
なんとレシアがエプロンを付けてお菓子を作っていたのだ。
コウトから卵と牛乳が大量に欲しいと言われ、ジャームベックエリアでマチシェニが養鶏と牧畜を始めている。
鶏は傷んだ野菜なんかを食べて処分してくれて、おまけに糞が畑の養分になり、さらには卵の殻も養分になる。
乳牛は枯れた野菜の蔓や茎、葉などを食べてくれて、おまけに糞は畑の養分となる。
さらには農地に放置しておけば勝手に雑草を食べてくれて、おまけに耕作までしてくれる。
畑にとってこんなに益のある生き物はいないのだとか。
ただ畑は広く、全てを賄うにはかなり鶏と乳牛を飼わないといけない。
そうなるとおよそ食堂広場では使い切れない量の卵を産み牛乳を搾る事になる。
その結果、最近では鶏卵と牛乳が安く市場に流れて来ることが多くなった。
レシアはそれを買ってきてパウンドケーキを作っているらしい。
エレオノラちゃんに食べて貰うんだと言って張り切っている。
母さんも味見してみてと言われアンナは顔を凍り付かせたのだが、レシアに無理やり口に放り込まれると驚く事に非常に良い味であった。
聞けばアリサに一から習ったのだという。
その足でアンナはアリサのもとへ行き礼を述べたのであった。
それからひと月ほど経ったある日の夕方の事だった。
アリサが大きなお腹を抱えて、血相を変えてドラガンの家にやってきた。
「ドラガン、どうしよう……あの娘が、エレオノラがいなくなっちゃったのよ。あんまりわがまま言うもんだから、ちょっと叱ったら家を飛び出して行っちゃって……」
アリサは身重の体で近所を探し回ったらしい。
少し息が切れている。
今もポーレには近所を探してもらっている。
念の為ドラガンに一報を入れた方が良いとポーレに言われ、やってきたのだった。
「エレオノラなら、さっきまで大泣きしてて泣き疲れて大人しく寝てるよ。母さんが全然話を聞いてくれないって喚いてたよ」
アリサは安堵して地面にへたり込みそうになりなった。
「仕方ないでしょ。あの娘の甘えを全部聞くわけにはいかないのよ。二人目が産まれたら、もっとかまってあげられなくなるのよ?」
アリサの言い訳にドラガンはその都度うちに逃げ込む気なのかなと笑い出した。
「あの娘もまだまだ小さいと思ってたけど、あなたの家に一人で来れるくらいには大きくなってたのね」
「子供ってすぐに大きくなるんだね。この間まで音の鳴る玩具に夢中になってたのに、あんな風にしがみついて泣くんだもんね」
ドラガンの感想にアリサは何だか心がほぐれ、くすりと笑った。
もう三歳になるんだから当たり前。
あなただって三歳の時には私のスカートを引っ張って、何で何でと毎日のように聞いていたと笑い出した。
「まあ、ここにいるんなら安心だわ。きっと起きたら、いつもの家じゃないって泣き出すだろうから、悪いけどうちに連れて来てちょうだい」
アリサはドラガンに微笑むと一人で家に帰って行った。
ドラガンはエレオノラの寝顔を見てアリサの言葉を思い出し首を傾げた。
レシアがどうしたの尋ねるとドラガンは傾げた首を右から左に変えた。
「さっき姉ちゃんがさ、起きたらいつものうちじゃないってエレオノラが泣くって言ってたんだよ。自分の足でここに来て泣いて寝ちゃったんだよ? さすがにここが僕の家ってことくらい覚えてると思わない?」
レシアはドラガンの指摘にクスクスと笑い出した。
子供って寝起きは何も覚えていないものらしいよと微笑んだ。
「私はそういうの何度も見させてもらってるから。本当かどうかは、このあとすぐにわかるんじゃないかな?」
それからほどなくしてエレオノラは目が覚めた。
まず起きると誰もいない。
その時点でじんわりと涙が溢れてくる。
さらにここがどこかわからない。
いつも見ている部屋の感じじゃないのだ。
しかも部屋は薄暗い。
寂しさとえもいえぬ恐ろしさでエレオノラは大泣きした。
ドラガンは慌ててエレオノラの所にかけよった。
さすがにエレオノラはドラガンの事はすぐにわかり、おじちゃんと言って抱き着いてわんわん泣き出した。
「どうしたの? どこか痛いの?」
エレオノラはぶんぶんと顔を横に振る。
鼻水と涙と涎がドラガンの服にべっとりと付いている。
「かあひゃんいない。かあひゃんろこ?」
ドラガンはエレオノラを抱きかかえ立ち上がり、背中をぽんぽんと優しく叩いてあやした。
だがエレオノラは全然泣き止もうとしない。
「わかったわかった。じゃあ母さんのとこに帰ろうね」
エレオノラは親指をしゃぶって真っ赤な鼻で可愛くうんと頷いた。
エレオノラは親指をくわえたままドラガンに抱っこされ、ぐずり続けている。
時折寂しくなってドラガンにぎゅっと抱き着く。
それがドラガンにはたまらなく可愛く感じる。
外はもうすっかり暗くなっていて、空には美しい星々が瞬いている。
前方からカンテラを持って焦り顔のポーレが走って近づいてきた。
何をそんなに焦っているのだろう?
ドラガンは事態は把握できなかったのだが、何故だか何かもの凄く嫌なものを感じた。
この感覚には覚えがある。
あの時、ロハティンから逃げ帰る際、奴らに襲われ芋の樽に隠れた時のあの感覚だ。
「ドラガン! おお、エレオノラはお前のとこに行ってたのか。アリサは一緒じゃないのか? お前のとこに行ったきり帰って来てないんだけど?」
ポーレの言葉でドラガンの顔は一気に青ざめた。
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