第5話 別離


「一緒に親になるパートナーとして私を選ばない理由を聞いてもいいかな」

 私は冷静さを装って訊いた。


 カレは何度も何度も頭の中で言葉を選んでは考え直し、選んでは考え直しを繰り返している。

 私を傷つけない言葉を必死で探しているのだろう。だが、「別れ」という事実はどんなに優しい言葉で包んでも傷を残す。


「お前は親になることを望んでいないだろう。なれるなれないの話ではなくて、なりたいかなりたくないかの話」


 並んで座っている二人の視線は何も映っていない真っ暗なテレビの画面をぼんやりと見つめている。

 私の無言を「親になることを望んでいない」の答えとして受け取ったカレから予想していたとおりの言葉が聞こえてきた。


「少し時間と距離を置かないか」

「……分かった……」


 カレのこの申し出に「分かった」としか答えられなかった。


 今後事態が好転することはないと二人とも分かっている。

 この「時間と距離」は最後通達を少しだけ先延ばしにして別れの痛みを和らげるためのもの。


 その夜カレが帰った後、私は一人取り残された部屋で朝まで泣いた。


    ****


 それから約一ヶ月、カレと会うことはなかった。

 時折、「元気にしてる?」「うん、元気」という短いメッセージを送り合うだけの時間が流れた。


    ブゥー、ブゥー


 机の上のスマホが突然暴れだす。

 ビクリと身体が硬直し、画面に映し出された発信者の名前を見て呼吸が止まる。


 私はついにその日が来たと覚悟をして電話に出る。


「もしもし」

「久しぶり。元気か?」

「うん、元気。そっちは?」

「俺も元気。何とかやってるよ」

「……」

「……」


 互いにこの会話の終着点は分かっているのに、次の言葉を躊躇ってしまう。


「……別々の道を……ってことだよね」

 私から切り出した。最後くらいきちんと心の中にある思いと感謝を言葉にして伝えたい。


「……」

 電話の向こうのカレは黙ったまま。


「泣いても叫んでも縋っても結果は変わらなさそうだから、悔いのないようにあなたに伝えたい言葉を残らず吐き出させてもらう。いい?」

「ああ」

 乾いた声でそう答えるカレ。


「まずは……今まで私と一緒にいてくれてありがとう。時々喧嘩もしたけどあなたと過ごす時間は楽しかったよ。気が強くて頑固な私と一緒にいるのは大変だったと思う。喧嘩の原因は大抵が私の我儘で、私の頑固さがいつも喧嘩を長引かせてたよね。最後はいつもあなたが私に歩み寄ってくれて何とか仲直りってパターンだった」

「そうだな」

 カレは今までの私たちの喧嘩を思い出しているのだろうか。


「私はあなたの優しさに甘えてたんだね。ごめんね……そして最後の最後に一番ひどい仕打ちをしちゃった。あなたの一番の望みを私は叶えられなかった」


 ここまで伝えたらいろんな感情が渦巻いて言葉が出なくなった。

 唇を噛んで必死に気持ちを整理しようとしていると、今まで黙って私の話を聞いていたカレの声が聞こえてきた。


「ホントに最後までお前は自分のやりたいようにやってくれたよ」

 言葉とは裏腹にカレの声は優しいトーンで響く。


「互いに諦めきれない信念があって、その信念が相容れないものだった。どちらか片方が自分の信念を諦めて一緒にいたとしても二人とも不幸になるのは目に見えている。二人とも幸せになるには二人一緒にいては無理なんだ」


 涙が溢れそうになるのを堪え、私はスマホを強く握りながらウンウンと頷いていた。


「俺もお前と過ごした時間は楽しかったよ。我儘なところもあったけど理不尽ではなかったからな。お前の我儘に振り回されたお陰で新しい経験をいっぱいしたし、その経験はこれからの俺の人生に必ず役に立つと信じてる。新しいことに挑戦するのが苦手だった俺を広い世界に引きずり出してくれたことを感謝してる」


 終わりはもうすぐそこまで来ている。


「別れを決めたんだからお互い幸せになろうな。これだけの犠牲を払って幸せになれなかったら俺たちバカすぎんだろ」

「だね。私は……私が私でいられる幸せを必ず手に入れるから」

「俺も……」


 カレの言葉は続かなかった。

 私も言葉が見つからなかった。


 沈黙がしばらく続いた後、「じゃあ」と絞り出したような声が聞こえてきた。

「うん、じゃあね」と私も声を絞り出した。


    ツー、ツー、ツー、ツー、


 カレが電話を切った後も私はスマホを耳に当てたまましばらくこの音を聞いていた。

 やがてその音はプツリと切れ、部屋が怖いくらいに静かになった。


 ああ、本当に終わったんだ。

 悲しさ、寂しさ、虚しさ、自己嫌悪。いろんな感情が溢れ出したが、そのどれも今の自分の気持ちを本当に表しているとは思えなかった。


 私は床にペタンと座り込む。

 不思議と涙は出てこなかった。


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