第2話


 10月30日。今日もなんてことない1日が終わった。あたしはいつも通りに寝る準備をして、ベッドにごろん、と寝転がった。少し肌寒くなってきたから、羽毛布団を出したんだけど、さすがに羽毛布団っていう温度でもない。秋って、こういうところが苦手で、好き。

 布団を抱き枕みたいにぎゅうって抱いて、ゴロゴロ転がる。早く寝なきゃ。明日はハロウィンパーティーなんだもん。でもなんか、ワクワクしちゃって眠れないんだよね。子どもかよって、セルフツッコミを入れずにはいられない。

 あたしは明日、誰かに会ったら「トリックオアトリート」って言おうと思ってる。「おはようございます」とか、「こんにちは」とか、「こんばんは」の代わりに。別に、お菓子はいらない。くれたら貰うけど。

 ゴロゴロ転がる。明日を描く。なかなか眠れない。ゴロゴロ転がる。明日を描く。ぜんぜん眠れない。そんな無限ループからあたしを救ってくれたのは、雨だった。

 外からパタパタと、雨の音がした。あたしは嬉しくなって、ベッドから飛び降りた。だって、早くしなくちゃ、大好きなペトリコールを嗅ぎ損ねちゃう。

 誰がどうしてそう名づけたのかは知らない。けど、雨が降り始める時に香る香りのことを、『ペトリコール』っていうことは、知ってる。たしか、土の匂いとか、石のエッセンスとか、あれこれ言われていたはず。なんか小難しいんだけど、つまりは、雨が踊り始めた時にだけ味わえる、最高の香り。

 窓を開けた。やっぱり、雨が降っていた。でも、なんか変。

 香りが甘い。ちょっと酸っぱい。それに――

「ヤバ、ウケる。空からレモンティーが降ってきた」

 それをペロッと舐めてみたら、すっごく美味しかった。

 あたしはコップを取ってきて、しばらくベランダに置いておいた。そうしたら、レモンティーがたくさん取れた。あたしは飲み放題のレモンティーをグビグビ飲んだ。お腹がタプタプになるまで、ひたすら飲んだ。

 あ、せっかく歯磨きしたのに、とか、こんなに飲んだら子どもじゃないのにお漏らししそう、とか、タプタプになってから不安になった。でも、時間は戻せないから、諦める。

 しばらく雨を見ることを楽しんで、それから歯磨きをして、トイレに行って、また雨を見た。

 あーあ。レモンティー大好きだから、これはこれで嬉しいけど、どうせだったら飴が降ってくれればいいのに。あれ? こんなこと、小学生くらいの時に考えたかも。確かその時、飴が降ってきたら超痛いから、降ってこないほうがいいって結論に辿り着いた気がする。

 しばらくぼーっとしていたら、レモンティーが止んだ。そうして、雲がさぁーっと泳いで、泳いで、いなくなった。あたしの目の前には、まんまるの月が残った。

 まんまるの月は、あたしに何かを伝えたげに、キラキラ、キラキラ輝いていた。あたしには、その輝きが七色に見えた。夜の、雨上がりの、虹が見えた。それは不思議な形だった。虹っていえば、たいていアーチ型なのに、それはまっすぐで、まるでスポットライトみたいだった。

 パジャマを脱いで、服を着た。

 あの虹のふもとに、行ってみたいと思ったから。


 夜の散歩は、けっこう怖くて、ちょっと楽しい。

 たしか、虹のふもとは、にこにこ公園のあたりだったはず。あたしは、いつも以上に、キョロキョロあちこちを見ながら、急いでその場所へと向かった。

 でも、あの光は、家の窓から見た時にだけ、まっすぐ見える可能性だってあるわけで。実際その場に立った時、虹のシャワーを浴びているが故に、虹のふもとと気付けなくなる可能性だってあるわけで。

 一歩足を踏み出すたびに、不安がぶくぶく膨らんだ。

 公園は、夜だってずっと、電気がついてる。まんまるの月みたいに、まんまるの街灯がピカーって。こんなに明るくっちゃ、もしもどこからでも虹が見えたとしても、ここがふもとかどうかなんて、わかりっこない。

 四角い大きな時計は、もう10月31日だよって言っていた。

 もう、ここが虹のふもとってことで、いいや。

 ここにはきっと、宝物が眠ってる。そう思うとワクワクするし、ワクワクすることこそ、宝物のような気もする。それだけで、充分だ。

「あ、いたいた」

 聞いたことがある、声がした。声がした方を見てみたら、そこにハヅキが、ちょっと泣きそうな顔をして立っていた。

「あれ? ハヅキじゃん。こんな時間にどうしたの?」

「そっくりそのまま、アキに返すよ」

 ハヅキがちょこん、ってベンチに座るから、あたしも隣にちょこん、って座る。空にはまんまるの月。あたしは目が悪くないけど、すっごく良いわけでもないから、クレーターとかまでは見えない。だけど、たぶん、今――あのまんまるは、にっこりしてる。あたしには、そんな気がした。

「今年も、会えたね」

「今年も? ハヅキと会うの、そんなに久しぶりだったっけ?」

「うーん」

「あたしがお盆に帰った時、ハヅキも来てたよね? その時、会った……よね?」

「うん。会った。会ったけどさ、ふたりっきりで会うのは、久しぶりっていうか。今日しかできないっていうか」

 ハヅキのヤツ、へーんなの。

「元気だった?」

「あたし、ずーっと元気だよ! 明日……っていうか今日はね、ハロウィンパーティーに行くの。で、トリックオアトリートって言いまくろうと思ってる」

「面白そうだね」

「でしょ?」

 なんでだろう。なんで、ハヅキはずーっと泣きそうなんだろう。

 まんまるの街灯が、ピカピカってなった。少しだけ、月明かりだけの時間があって、それから、ぼわーん、って、またついた。

「ポルターガイストみたいだったね、今の」

 ニコって笑いながら、そう言った。そうしたら、いよいよハヅキが泣き出した。

「ねぇ、どうしたの? ハヅキ?」

「あぁ、ごめん、ごめん」

 目をぐしぐしこすってる。袖に涙が染み込んでる。ハヅキって、こんなに、子どもみたいに泣き虫だったっけ?

 あたし、おばあちゃんみたいに、忘れっぽくなったみたい。

 ハヅキとは、もっと親しい関係だったはずなのに。

 ハヅキとの記憶は、他の誰よりも多くて、他の誰よりも鮮明なはずなのに。

 なんでいろんなことが、ぼんやりしちゃってるんだろう。



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