初めてのお使い
カーンカーンと金属音が響く。湯気がしゅーしゅーと立ち昇っているのはまるで湯屋みたいで、私はそれをぼんやりと眺めている。
先生は颯爽と歩いて行く。
「あんまりきょろきょろしているんじゃないよ。あんたはまだ徳が全然足りないんだから、このまんまあやかしに捕まったら最後、死ぬまでこき使われるよ」
「あ……すみません」
そういえば、煙草屋さんも私が先生に弟子入りしていると言わなかったら、そのまんま捕まえる気だったことを思い出す。
その中、先生は「ちょっと待ちな」と鍛冶場の手前にある小間物屋に入っていった。
そこはびいどろの瓶がたくさん並んでいる。どこかで見たことがあると思ったら、
先生は「この瓶をおくれ」と自分自身の瓶を取り出して言うと、店主が「はいよ」と売ってくれる。
先生の瓶の中はまるで墨汁のような真っ黒な液体が占めていた。気のせいか、瓶は
先生は戻ってくると、私に「ほら」と瓶をくれた。
「あの……これは?」
「あんたの徳を溜めとく分だよ。徳を積んだら、この中に溜め込んでおく。それで裏吉原は生活するんだから」
「……わかりました。あのう、徳で売買するっていうのは
「ああ、あたしたち魔女が魔法を使うのにだって使うんだから、ないよりはあるほうがいいのさ」
私は「はあ……」とわからないまま、瓶を持った。中身はまだ入っていない。どんな色の液体になるかは、まだわからない。
そうこうしている内に、鍛冶場についた。
少し立っているだけで汗が噴き出てくる。ここで
「すまないね、ちょっといいかい?」
「へっ!? なに!?」
さっきからずっと大きく金属音が響いているせいか、男の子の声はそれに負けじと大きい。
それに合わせて先生も声を大きく張り上げる。
「ここに! 繕い屋の着物が飛んできたっていうから、取りに来たんだけど! 着物、見てないかい!?」
「遊女のかい!? 飛んできてたよ! でもこんなところに跳んできてたら火の粉で穴が空くかもしれねえから、火の届かねえとこで干してる!」
「案内しておくれ」
「いいよ!」
こうして私たちは、男の子に案内されて鍛冶場を横切ることにした。作業をしている人たちは、皆この熱さの中でもきちんと狩衣の上を着て、大きく槌を振るって刀を叩いている。
それに私はポカンとした。私の知っている吉原では、もう刀なんて持つ人たちは出歩いていないから、こうして刀に未だに需要がある裏吉原は物珍しく見える。
私がじろじろ見ている中、男の子は自慢げに声を上げる。
「うん、ここでは刀は土産物としてよく売れるんだ!」
「売れるって……誰が買うの? お客さん?」
「そりゃ来るよぉ。遊女と遊びに来るひとたちが買い求めるんだ。鬼の打った刀は丈夫で長持ちするからって評判なのさ」
「鬼……」
たしかに狩衣の袖から伸びる腕は太く、目はぎょろりと鋭い。ここで働いている鍛冶師さんたちは皆鬼だったのかと少なからず驚く。
でも。裏吉原にやってくるお客さんって誰なんだろう。
「でも……ここに遊びに来るお客さんって誰なんですか?」
「あれ? おまえ知らないの?」
「あの……」
私が答えに迷っていたら、先生が遮った。
「この子はこの間裏吉原に流れ着いたばかりさね。今はあたしの下で修業中の身さ」
「ふうん。そっか。なら知らなくって当然か。裏吉原には神が遊びに来るんだよ」
「ええ……」
「あれ? そんなことも知らなかったのかい?」
少年は本気で呆れたような声を上げてから、ようやく鍛冶場を通過した。鍛冶場の裏側には長屋が広がり、そこにたしかに着物は干してあった。艶やかな着物は、赤と黄色の布に、白い蝶の柄が抜かれている。
多分この辺りに鍛冶場の鬼が住んでいるんだろう。
「ほらっ、これ。じゃあ教えてやったんだから、お駄賃ちょうだい」
「はいはい。すまなかったね」
そう言いながら、少年の首にかかっていた瓶に、先生は瓶の蓋を傾けて中身を注ぐ。少年の瓶には翡翠色が占めていた。
私は着物を畳んで持つと、先生と連れ添って歩く。
「……私、全然知りませんでした。裏吉原のお客様は、神様だって……」
「そりゃあね。表の吉原だって、元は江戸の富豪が遊びに来ていたんだ。裏吉原だってそういうのが遊びに来るさね」
「はあ……なんだか不思議です」
私からしてみれば、裏吉原もいろいろと面倒臭いことに溢れているみたいだけれど、それでも下働きとしてこき使われていた吉原よりはマシに思える。
でもそれは、私がまだ夜の吉原を知らないからだけなのかもしれない。どちらがいいとか悪いとかは、どちらでも一日を過ごさないとわからないのかも。
その中、先生は緩く笑った。皮肉めいているように笑っているのは、私がまだなにもわからないせいなんだろうか。
「地獄のような場所にいるとね、大概はよそのほうが幸せに見えるのさ。あんたは苦界に長年いたみたいだから、余計にそう思えるのかもしれないさね。あんたの場合は、顔の火傷のおかげで苦界の一番悲惨なところに落ちることがなかっただけで」
「……」
そう言われて、私は自分の火傷跡に触れる。肌が変色してしまい、それが原因で売り飛ばされたあとも遣り手たちに心底嫌な顔をされたそれ。
それを運がよかったと言われても、私も困る。下働きだけでは、あと何年いたら出られたのかわからないのだから。
私が黙り込んだのに、先生は続けた。
「そう、どこだって変わらないのさ。ただどこにだって現実だけが存在している。今はそれだけ覚えて戻ればいいさね」
「……わかりました」
そうこうしている間に、万屋に戻れた。
「お帰りー、師匠」
「お帰りなさいませっ」
「ありがとうございます。ありがとうございます」
「いや。単純な依頼でよかったさね。うちの弟子の初の仕事にもちょうどよかったし」
「そうでしたか……では、支払いますね」
そう言いながら、彼女は懐から瓶を取り出すと、それを先生の瓶に注ぎはじめた。彼女の瓶には橙色が占めている。それが墨汁の黒に染まっていくのを確認してから「ありがとう」と先生は喜多さんを見送る。
その前に私は声をかけた。
「あ、あのう」
「はい?」
「私もここに来るまでは繕い物を仕事にしていて……今度お話しをしに行ってもいいですか?」
そう言った途端、喜多さんはうっすらと頬を染めた。
「はい。あたしは喜多と申します。あなたは?」
「音羽です」
「今度お話ししましょう」
彼女とはそう言いながら別れた。
その中「さて」と先生が瓶を持つと、「音羽、自分の瓶を開けな」と言われる。
「ええっと……」
「簡単な依頼とは言えど手伝ってもらったんだ。徳を入れるから、さっさとしな」
「はっ、はい……!」
慌てて先生からもらった瓶の蓋を取ると、先生は喜多さんからもらった分の徳を私の瓶の中に少し分けてくれた。
私の瓶にだんだん注ぎ込まれるのは桜色。瓶の底にちょこんと桜の花びらが敷き詰められたようになる。
これが私の初めて徳を積んだ瞬間となったのだった。
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