第40話母と娘
華さんは、畑中先生が初めて担任を持ったクラスの子だったそうだ。
聡明で優しく、絵を描くのが大好きな生徒。
大学を卒業する頃に日本画家の岩代さんと出逢い結婚した。
岩代画伯と華さんは、二十近く歳の離れているがそれはそれは、仲睦まじい夫婦だった。
華さんによく似た可愛い女の子、香さんも生まれた。
幸せいっぱいの華さんは嬉しそうに香さんを連れて、畑中先生に会いに来てくれたそうだ。畑中先生はまだ赤ちゃんだった香さんを抱っこしている。
その華さんが、ご主人と香さんを置いていなくなるはずがないと、畑中先生は思っていた。
華さんは、「今度、紫陽花の絵を描きに行く」と畑中先生に言ったあと、行方がわからなくなった。
だから畑中先生は、紫陽花を見るたび、何か手がかりは無いかと探していた。
そんな畑中先生の前に、岩代画伯のジャラリーで働いているのを何度か見かけた事のある、あの女が紫陽花を見つめて立っていたんだ。
長年、ギャラリーで働いていた女は、周りから岩代さんの奥様と勘違いされたことも度々で、その周りの勘違いが、彼女をその気にさせてしまった。
そこに歳の離れた華さんが現れ、あっという間に結婚。
華さんに妻の座を取られたような感情が、女を狂気に走らせた。
ーなんてくだらない理由なんだ。ー
岩代さんは、女に仕事以外の感情は一度も持っておらず、仕事上でも二人で食事に出かけたことすらない。
そんな女に最愛の人を殺されたしまったんだ。
岩代画伯はすぐに駆けつけて警察の説明を聞き、血の付いた画材箱を何も言わず、ただ抱きしめて泣いていた。
華さんであることを確認するためにDNA鑑定が必要だった。
DNA鑑定の為には香さんの協力が不可欠。しかしこの段階で香さんのDNAを採取するのは酷であろうと大人達は心配したが、香さんはまっすぐ前を向いて。
「お母様と一緒に帰りたいの。」
そう言って、DNAの採取用の綿棒を自ら口の中に入れたそうだ。
岩代画伯は、みんなで描いた紫陽花の絵を涙を流し、黙って見つめていた。そして
「この絵を学校で展示するのは、やめていただきた。」
そう、申し出た。先生方も画伯がそう言われるのも無理はないと、展示をしない事を決めた。
しかし香さんは父親のそんな申し出に猛反発したんだ。
「どうして!お父様!どうしてそんな事をいうの!皆で一生懸命描いたのよ!みんなで描いたこの絵と写真を合わせて一つの絵になるの!朝から夕方まで、頑張ったのよ。何故?何故ダメなの?」
感情をむき出しにして話すその姿は、初めて見る香さんだった。
必死な香さんを見て僕も思わず、
「僕も辞めてくないです。展示したいです。この絵の描き方は、香さんが提案してくれたんです。完成させたいです。」
しかし画伯は、静かに首に振って
「この紫陽花の花の下には人が埋まっていたんだ。その絵を飾るなんて、、、。きっとみんなは怖いと思うだろう。私は、華の事を、、、香の母親の事をみんなに怖いと思ってほしくないんだ。」
予想しなかった画伯の答えに、そこにいた全員が一瞬たじろいたが、僕は構わず
「怖くなんてないです。怖くなんてない。香さんのお母様の事を怖いなんて思いません。とても悲しいけど、この絵は香さんが描いたお母様の絵でもあるんだから、完成させたいです。」
画伯は、僕の肩にて置いて、
「ありがとう。でもね、」
そう言いかけると、和尚様がやって来て
「坊の、言う通り。怖いことなどない。
人は、生まれて、そして死んで仏様になる。みな平等に訪れるもの。
なにも怖いことはない。
あるのは大切な人を失った悲しみ。姿を見ることも声を聞くこともできない寂しさ。置いて行かれた虚しさ。
我々が怖い、恐ろしいと思うのは、人の命を奪ったあの鬼のことだけ。嫉妬に狂い人の心を無くした鬼畜は恐ろしい。そして亡くなった人を恐れるのは、その鬼畜自身。
人を
そこにいた全員が正座をして和尚様の話を聞いていました。
和尚様は、作務衣から一冊のノートを取り出すと、香さんに渡した。
「これは?」
「七年前に宿坊の近くで紫陽花を描いていた女性がいらしゃった。
どこからかやって来て、朝早くから夕暮れ近くまで熱心に描いておられた。
最終日、陽が沈んでも描いていた。暗くて道が怖いからと、一晩泊まった時に書いていかれたのです。」
宿坊に泊まった人が記念に書いたノートだった。
その古いノートを香さんが開いて読んでみると、丁寧な美しい文字で突然お世話なったお礼と、紫陽花の花の絵の書き方が記されていた。
『暗闇中、声をかけてくださり。温かい料理を振る舞ってくださり。
本当にありがとうございました。
紫陽花の花は、描くのではなく、あの美しい色をキャンパスに乗せていこうと決めました。一から描き直しです。また伺います。今度は、主人と娘を連れて参ります。華。』
「お母様だ。お母様もここに。紫陽花の書き方、私と同じ、、、。」
そして和尚様は、風呂敷に包まれていたキャンパスを取り出すと
「その方が、それまで書いていた紫陽花での絵です。直ぐに娘を連れて戻ってくるからと。その時にこの絵は娘と仕上げるから預かっていてほしと。あなたがその娘さんだったとは。仏様が巡り会わせてくれたんだろう。」
香さんに、デッサンだけが描かれたキャンパスが手渡された。
「華、、、華、、、。そうか、華が、華の思いが、、。香が、華の思いを絵にしたよ。良かったな、華、、、。帰ろう、三人の家に帰ろう。」
画伯はノートに手を置き、キャンパスを抱きしめて泣いている香さんの肩を抱き寄せ泣いていた。
その悲しい涙は、僕たち小学生の幼い心に大切な人を失う悲しみの大きさを刻んだ。
僕たちの修学旅行は終わり、数日後には、紫陽花の元で眠るご遺体はDNA鑑定で華さんだと判明し、華さんは香さんの待つ家に帰った。
七年もの歳月を経てやっと。
初等部の廊下には、香さんたちが描いた紫陽花と僕たち六年生の笑顔の写真が飾られた。
その絵の前に立っている香さんの横には、笑顔の華さんがいるように僕には見えていた。
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