第20話 白い鴉と強欲
宿から三軒先のクレープ屋の前で、ホルスは明るい調子で声を張った。
「ハーブさん!」
ハーブはぎょっと目を剥いてホルスを、そして傍らにいるトドゥルユルを見た。その顔は蒼褪め、怯えが目元や口元の皺をいっそう深くしている。ホルスにはその反応で十分だった。にっこり、不敵に見えるように笑ってみせる。
「さっきは、すみません。あなたを見かけた時、渡さなきゃならない物を思い出して、取りに行ってたんです」
そこで、声を低めた。
「それで、どうやって俺たちの居場所を突き止めたんですか? 俺たちの特徴を話して人に尋ねて回ったんですか?」
「だったら何だって言うんだ?」
虚勢を張り損ねた声は調子が外れ、裏返っていた。よし、と思い、ホルスは続ける。
「そういうの、迷惑なんでやめてほしいんですよ。俺たちのことを探すのも、人に話すのも、やめてほしい。そのお願いをしに来たんです。お礼も、ちゃんと持ってきてますよ」
そう言って、ホルスはボストンバッグを差し出し、少し中を開けてみせた。イグゾー紙幣がパンパンに詰まっているのを見たハーブはハッと目を見開き、顔が愉悦に歪んだ。
「は、話が早いな」
「そうでしょ」
言葉と同時にバッグを閉めると、ハーブは物欲しそうな顔をした。けれど、すぐにホルスへ向き直る。
「これはこれで貰ってやるよ。けどな、あと三イグゾー二プライシー寄越せ」
「え……?」
予想外の展開に、気の抜けた声が出た。
「なんでですか? やけに具体的ですね」
「いいから寄越せ」
「あー、今、持ち合わせがないんで、宿まで来てくれたら渡しますけど」
ハーブはとんでもないと言いたげに、首をぶんぶん振った。
「い、行く訳がないだろう……」
「あ、そう……」
あまりの狼狽え方に、ホルスの方まで素が出てしまう。この人、こんなに臆病だったんだな。
「じゃあ、俺たちは戻ってお金持ってきます。ここで待ってますか? それとも宿の前まで来ます?」
「ここにいる」
「そうですか。じゃあ」
ホルスは応じて、くるりと背を向けた。
再び宿へ向かって歩いていると、タタッと真横へ軽やかな靴音が来た。
「なあ、後でそこのクレープ屋に行かないか?」
持ちかけてくる口調も軽快で、余裕があるなと思う。
「分かったよ」
ポンと、帽子を被った丸い頭に手を置いて返す。いつもは「やめろ」と眉を寄せるトドゥルユルだが、この時の表情は柔らかかった。クレープを食べられることが嬉しいのだろう。
二人並んで宿まで戻り、要求された金額を手に、再びハーブの元へ戻った。
「よし、いいだろう。お前らのことは、黙っててやるよ」
「ありがとうございます。あなたが話の分かる人で良かった」
ホルスはそう口にしてから、貼り付けた笑みを剥がした。口角が下がると、それだけで声の方も低くなる。
「俺の言ってること、合ってますよね? あなたは話の分かる人でしょ?」
「ど、どういう意味だ……?」
急に相手の態度が強ばったせいだろう、ハーブの声は乱れ、語尾が頼りなくぼやけていた。ホルスは先程剥がしたのと全く同じ、人好きのする笑顔を口元へ貼り付けた。
「いいえ、いいんです。分かってくれるなら、なんの問題もありませんから」
じゃあ、と片手を上げて挨拶し、トドゥルユルに目で合図する。クレープ、食べに行くよ、と。つまらなそうだったトドゥルユルの目へ、色が差した。ホルスは彼の頭をポンポン軽く叩きながら、クレープ屋のドアをくぐる。心には、アームリムカークの存在が陰を落としかけていたが、それを振り払う。今は、トドゥルユルと同じようにクレープを楽しもう。
「でもさ、あいつ、変だよな」
椅子に座ってクレープが来るのを待ちながら、トドゥルユルは言った。
「あれだけたくさん金渡したんだから、買いたい物があったって、その中から買えるだろ。なんでわざわざ、追加で要求してきたんだろう?」
「せっかく強請り取った分を、すぐには使いたくなかったんじゃないかな。まあ、欲張りなんだよ」
応じながら、複雑な思いに駆られた。ハーブはもちろん強欲に違いないが、強欲でなければ生きてこられなかったのだろうとも感じるのだ。
ホルスがアームリムカークにいた頃に調べたところ、ハーブはサントメルの母とスキャブの父との間に生まれたハーフだと分かった。肌の色はサントメルのように白くはなく、スキャブ程濃くもない象牙色。けれど、今はもうほとんど残っていない髪は、ホルスが初めて会った五年前には濡れたカラスのように艶があり、緩いウェーブのかかった、いかにもスキャブらしい質感だった。弓なりになった鼻筋や太い唇といった顔立ちもスキャブそのものだ。
スキャブの血が流れているのに、肌が黒くない。それはサントメルやミューテルから見ても、スキャブやメネフネから見ても、異質なことのようだった。それ故なのだろう、人種によらず多くの人が色白のスキャブやメネフネを「白鴉」と呼んでいる。「有り得ないこと」の意を込めて。
そんな境遇に生まれたハーブが、「異質」とみなされずに生きている人々が当然に受けてきた親切に、あまり恵まれていなかったことは想像に難くない。欲をかいて自ら手に入れようとしなければ、何も持てなかったのかもしれない。それを思えば、三イグゾー二プライシーの欲くらい、叶えてやってもいいとホルスは考えた。その程度、ならば。
「これ以上は欲張らないでほしいけどね」
「これ以上って?」
深いため息が出る。
「彼がやろうと思えば、俺たちからお金を強請り続けることもできるんだよ。『やっぱり気が変わった。お前らのことをアームリムカークの人間にバラす』って言えばいいだけだからね。それをずっと続けたら、彼は安定した収入を働かずして得られるって訳だよ」
「卑怯だ」
「そうだね」
視線をテーブルへ向ける。模様のない白いばかりの天板へ映る自分の影が、やけに濃く見えた。そこから、新たな影がぬるりと伸びて、ホルスとトドゥルユルの影を呑み込んでしまう、という嫌なイメージが浮かんでくる。
ホルスが真に懸念しているのは、強請りなどではなかった。ハーブが脅しではなく、本当に自分たちのことをアームリムカークへ伝えてしまうことだ。そうなれば、あそこの連中は、ジマーマンは、必ずやってくるだろう。そして、あらゆる手段を使ってホルスとトドゥルユルを捕らえるはずだ。
ホルスはもう一度大きく息をつき、心へわだかまる不安の靄を吐き出した。
「まあ、そんなことにならないように、対策はしてるよ」
「発信機とかのことか?」
「そ。発信機と盗聴器があれば、おかしな動きがあったらすぐに分かる。これでね」
そう言ってポケットから取り出した二つの小型機械を振ってみせる。発信機と盗聴器、それぞれの受信機だ。
「その機械があれば、あいつの居場所も分かるし、会話も聞けるってことか?」
「その通り」
にっこり笑って応じつつ、ホルスは感心していた。トドゥルユルは本当に賢い。ついこの間まで、人間社会のことをほとんど知らず、駅や電車を目にしただけで驚いていたというのに、ほんの少しの期間で発信機や盗聴器といった機械のことまですんなり理解できるようになるなんて。大した知能と適応能力だ。
「これをちゃんと確認してれば、大丈夫。何も心配いらないよ」
ハーブに金を渡してから数時間、宿に戻ったホルスはトドゥルユルと共に盗聴器からの音声へ、ずっと耳を傾けていた。床にぺたりと尻をつき、二人で息を詰める。聞こえてくるのは、ザッ、ザッ、と地面を踏みしめる音や、潮の満ち干きのように沈んで浮かんでを繰り返す人々のざわめきばかり。けれど、そろそろ二十分が経とうかという頃、誰かへ話すハーブの声がした。
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