毒の微笑
チャイムン
1.ギリアン子爵の懊悩
「わたくし、心配でたまりませんの」
派手な扇で口元を隠し、レースのハンカチを握りしめてギリアン子爵夫人ヨランダがため息をつく。
彼女のお気に入りは赤いドレス。それも明るい鮮やかな赤。
自慢の小柄で細身の体を包むドレスは、部屋着から正装に至るまでフリルにチュールにレースにリボンなどの装飾が、好意的に言えば惜しみなく豪華に、悪く言えばけばけばしく飾りたてられている。
今日のドレスは光沢のある深紅のポロネーゼ・ドレスの縁に、同じく光沢のある白い生地で寄せた縦幅が10センチもあるフリルがぐるりと付いている。襟元に成人男性の手ほどの大きさの深紅のリボン、ウェストまでその半分サイズのリボンがズラズラ隙間なくと連なっている。内側のアンダー・ドレスは光沢のある淡黄色。
大きく開いた襟ぐりから、鎖骨とあばら骨の浮き出た痩せた胸元が、見せつけるように露出している。ヨランダ自慢の「痩せた体」だ。
普段着のため、シルクと羊毛の交ぜ織りのポプリンだ。ただ光沢はあるが布地の質は悪く薄く、着心地もいいとは言えないだろうにご満悦だ。初冬の今は寒いので、斑のウサギのショールを体に巻き付けている。
ブロンドに近いブラウンの髪は、コテで縮らせたり巻いたりして流行の型に結い上げているが、それは10代後半の未婚の娘の流行である。そしてその髪に不自然なブロンドが混じる。
35歳になっても若い女性や少女の間の流行を追いながら、自分なりのアレンジと装飾を付けまくる。
「小娘が着るような」と腐されれば、この鈍感で自信満々な女性は「まあ、小娘のようだなんて」と喜び、周りの失笑を買っていることにも気づかない。
家弁慶で気弱な夫、現ギリアン子爵キースは仕事仲間からそれを忠告され知りながら、妻に指摘も注意もできずにいる。
婿養子である理由だけではなく、彼女の機嫌を損ねた時の何日も続く煩わしさから逃げるためだ。
婿養子と言えども彼は遥かに格上のエイダ侯爵家の出なのだから、妻を矯めたり注意したりするに分不相応ということはない。むしろ格上と威張りかえっていいくらいだ。
しかし、彼がそうしない理由は別にある。
ヨランダは非常に気性が荒く、すさまじい癇癪もちなのだ。
気に入らないこと、自分の言い分が通らないことがあれば、ヒステリーを起こして気狂いのように罵り叫び物に当たった後、数日夫をはじめすべての家人に辛辣になり、冷たく振舞い、辱め、時には手を上げる。
彼女を怒らせることは、使用人から嫌われることにも繋がるのだ。
(またアレだろう)とわかりながらも優しく問うしかない。
「どうしたんだい?」
扇の陰でヨランダの唇は弧を描く。
しかしそれは一瞬ですぐに瞳は伏せ眉根を寄せ、悲しげな表情になる。
「アーシアのことですわ」
ヨランダはキースが予測したままの言葉を紡ぐ。
「アーシアがどうしたんだ?」
さあ、始まる。この手の話は最近では10日ほど前か。今度は長女アーシアの何が気に障ったのか。
「あの子、ワレン王国留学の衣装を全てあちらで調えると申しましたの」
それは普通の感覚と常識を持っていれば少しもおかしなことはない。
加えて正しくは「新しく必要なものは」である。
敢えて我が国シーラン風の衣装だけを作って持ち込めば、気候の違うあちらの生活で困ることが多いのだ。
もちろん、アーシアは今所持しているシーランで作ったドレスも持って行く。
正式な交流の場のシーラン王国代表として出席する場合の正装のドレスを数着持っていけば困ることはない。また、そのドレスもキースの両親のエイダ侯爵の父ホルヘルと母キルシェが完璧に調えた。小物から宝飾品に至るまで。
おそらくそれが気に入らないのだろう。
娘に与えられたドレスや宝飾品を見たヨランダの物欲しげな顔を思い出す。
シーラン風の正装やすでに所持しているドレスのことは敢えて触れず、
「気候の問題があるから仕方ないよ。あちらは暑い季節が多いからね」
と濁すが、ヨランダは引かずに食い下がる。
「だってあの子の趣味はよろしくありませんわ。中身と同じく地味で・・・恥をかくのはわたくしですのよ」
キースはため息をどうにか堪え妻に寄り添いつつ、穏便に事を収める言葉を選ぶ。
「恥ずかしいことなんかないさ。ちゃんと付添人としてシュマル夫人がいるのだから。シュマル夫人はワレンの出身だからきっとなにもかもきちんとやってくれるよ」
シュマル・デインツ伯爵夫人はワレン王国から嫁いできた52歳の未亡人だ。付添人としてワレン王国に戻れることを喜んでいる。すでに家督を継いだ息子は結婚して、跡継ぎになる男児も見届け、アーシアの2年の留学後はそのままワレン王国に留まり、隠居生活を送る予定でいる。
ピシッ
ヨランダの扇が鳴る。
広げて口元を隠していた扇を閉じた音だが、キースは首をすくめそうになるがどうにか堪えた。幾度もそれで叩かれたことがあるのだ。
「アーシアは留学の支度金を全て自分のために遣うつもりですのよ!!」
支度金は留学に当たってシーラン王国とワレン王国から出されたものだ。当然、留学するアーシアの支度及びあちらでの生活に遣うものだ。他の誰に遣うというのか。
しかしヨランダは自分と次女のシンシアに遣えないことに怒っているのだ。
また、祖父母のエイダ侯爵夫妻が調えたドレスや宝飾品や、与えた金銭が何ひとつ自分達のものにならないことにも。
(当たり前だろう!)
言えるのならばどんなに胸がすくことか。
「あの子はおとなしい顔の下に黒い性悪狐を隠しているのですわ!!わたくしをばかにしているのです!」
激高するヨランダ。
「わたくしの勧めなど鼻であしらってばかにしているのですわ!!」
「そんなことはないよ」
投げやりに宥めるキース。
この調子では晩餐の席でシンシアにも責め立てられるのだろう。
アーシアの婚約問題も含めて。
ギリアン子爵家には3人の子供がいる。
長女は14歳になるアーシア。
赤褐色の髪に蜂蜜色の瞳、小柄で静かな性格だ。
1か月後のカッツェの社交界デビューのパートナーを務め、その後に行うシンシアのお披露目の後、ワレン王国へ2年間の留学予定だ。
長男は12歳のカッツェ。
アーシアより濃いブラウンの髪、ヘイゼル色の瞳。この冬、社交界へデビューするが、元気が弾けそうなやんちゃな気性で、時々手の付けられない悪戯をするが、アーシアを慕って姉の言葉はよく聞く。
次女シンシアは10歳。明るいブラウンの髪に淡いグリーンの瞳。お披露目は春になる。
正直、キースはこの次女シンシアはヨランダと並んで頭の痛い問題だ。
シンシアはヨランダの秘蔵っ子で、母親が甘やかして育てた結果、現在目もあてられない状態になっている。このままでは春のお披露目式に恥をかくことは確実だ。
まず学問が嫌いで、まだ自分の名前の読み書きすらままならない。
家庭教師から逃げるためい仮病から癇癪までありとあらゆる手を行使する。
それをヨランダは「また幼いのですもの。遊びたいのですわ」と許して甘やかす。
アーシアはこの年齢の頃には大人の読む本を読み、家庭教師から「すでに王立学園3年生並みの学力をお持ちでいらっしゃいます」と報告され、ヨランダは1週間荒れた。
10歳のお披露目前に15歳並みの学力があると太鼓判を押されて、怒る親とはいかがなものかとキースは思ったが、おくびにもださず宥める自分の臆病さに嫌気がさした。
そしてシンシアの教育が遅々として進まない状態にヨランダは緑の瞳を更に緑に燃やしてこう言ってきかせた。
「アーシアができたのだから、あなたはもっと優秀なはずよ。焦らずともすぐに追いついて追い越すわ。あなたは誰よりも優秀なのですもの」
そしてなんといってもシンシアの外見は大問題である。
ヨランダが甘やかした結果、コロコロどころかでっぷりと肥えてしまった。
「年頃になれば美しくなるわよ。シンシアは誰よりも可愛いのですもの」とヨランダは言い、シンシアの好きなものしか与えない。
またこの母娘は派手好きも性格も似ている。癇癪持ちで下の者に冷酷なところも。我儘放題に育ち手がつけられない。
アーシアとシンシアがここまで隔たった原因は祖父母の影響も大きい。
アーシアが生まれて、ヨランダは普段に増して怒りっぽくなり、些細なことでヒステリーを起こした。
それを見た祖父母が「少し母子を離してはどうか」とエイダ侯爵家に連れて行ったのだ。
エイダ侯爵家は高位貴族によくあるように、いくつかの領地付き爵位を保持していた。
姉4人はそれぞれ相応しい家格へ嫁いだ。
エイダ侯爵ホルヘルはまだまだ元気なため長男ジムサはハーランド伯爵家に置き、いずれ侯爵家と領地を運営する術を学ばせている。
次男ケリーはフィルサ子爵を与え独立させた。
三男カッツェはギリアン子爵家へ婿に出した。
カッツェが無鉄砲で男気を気取るくせに臆病な性格であることを見越してのことだ。婿として押さえつけられた方がいいだろうと思っての親心だ。
先代夫婦に頭を押さえつけられ辛抱を学べばおとなしくしているだろうという目論見は見事功をなした。
キースはやや傲慢な義父のイェーツの姿を反面教師にして、自分を矯めた。が、臆病だけは直らなかった。
義母のミリアは穏やかで従順。世話好きで夫に甲斐甲斐しく仕えていた。夫を心から愛していたのだ。
ではヨランダの派手好きで傲慢で苛烈な性格は義父に似たのかといえばそれは全面的には否と言える。
幾分かはギリアン子爵家の性質ではあるのだろうが。
ヨランダはこの義理の両親の実の子ではないのだ。
義父の妹ヤスミンの娘だ。
ヤスミンはそれなりの持参金とともに同格のアンシェル子爵家に嫁いだのだが、そこではすでに愛妾が子爵家の奥の実権を握っていた。
嫁いで半年も経たず妾が男児を産むと、ヤスミンは離縁され戻ってきた。身重の身で。持参金も戻らず、嫁入り道具も持参した宝飾品も取り上げられた。
生まれたのがヨランダである。
実母のヤスミンはヨランダが生まれて半年後に格下のゴート男爵家の後妻におさまり、今では一男一女に恵まれ幸せに暮らしている。
そのままヨランダはギリアン家の養女となり、その後夫婦は子に恵まれず婿をとることになった。
そしてヤスミンを虐げたアンシェル子爵家は、キースの婿入りの準備とばかりにエイダ侯爵家が王家に事の顛末を上奏し、取り潰しとなった。領地はエイダ侯爵家のものになり、ゴート男爵家へ半分が移譲された。
おそらくヨランダとシンシアの性質はアンシェル家のものだろう。
エイダ侯爵家とゴート子爵家が受け取った元アンシェル家の領地の住民は長年の重税と苦役と虐待にあえいでいた。それを健全に戻すまで10年を超える年月を要した。
ヨランダはヤスミンのおっとりした性格は受け継がず、アンシェラ家の苛烈さとイェーツの傲慢さと自分勝手さを体現している。
また、ギリアンの養父母はヨランダを甘やかした。
勉強は嫌い、お洒落は大好き。派手なものを好み、目下のものを虐げる。
そんな風に出来上がってしまった。
こういった複雑に絡み合った環境は貴族には珍しくない。
また出産後に心身を病む女性も珍しくない。
しかしアーシアが生まれる半年前、キースが婿入りしてわずか2年でイェーツは他界した。
日頃の不摂生が祟ったのだ。
夫を心から愛していた義母のミリアは、アーシアの誕生を見ると3ヶ月で地方の領地へ行き、今では隠居生活を穏やかに送っている。
それなりに裕福な家では自分で子供を育てることはなく乳母や使用人が世話をするものだ。
落ち着くまで離すのも悪手ではないだろう。キースがそう納得しかけた矢先に事件が起こった。
ヨランダがアーシアの頭をを扇で叩き、叩いた場所がへこむ事件が起きたのだ。
よりにもよって相談と孫の顔を見に来ていたエイダ侯爵家の父母がそれを見ている前で。
ヨランダの言い分は明らかにおかしかった。
「産んだのはわたくしなのに!」
「なぜ女なの!?」
「わたくしをなぜ見ないの!?」
産んだ自分ではなく、赤子がちやほやされることが許せない。
男でないことが許せない。
皆が自分を褒め称えないことが許せない。
ということらしい。
厳しい顔で祖父母はエイダ侯爵家へアーシアを連れて帰った。アーシアの身の安全第一に考えたことだ。
しかし、母から初子を引き離したことで深い溝が生まれた。それは埋まることはなかった。
どの子も主に乳母が世話をするのだから問題はないだろうとキースは高をくくっていた。
ところがアーシアはエイダ家の特徴を強く持っているらしく、エイダ侯爵家の家風にしっくり馴染んでしまった。
手元に置く孫可愛さに祖父母は早くから最高の教育を施し、手中の玉とばかりに大切に慈しんだ。
嫡男カッツェが生まれたからと言っては手元に置く口実とし、さらに妹シンシアが生まれヨランダが可愛がっていると知ってさらに手元に置いた。
結局アーシアがギリアン子爵家に帰ってきたのは、9歳の時。
この国では慣習として10歳になるとお披露目として、子供を紹介する場を設ける。
その時は当然、両親のいるギリアン子爵家でお披露目パーティーを行うので、せめて馴染む期間が必要だろうと、1年前に戻ってきたのだ。祖父母は渋々戻したという態度を隠そうともせず、それがヨランダの癇に障り母と娘の仲は冷え冷えとしたものになった。
9年の歳月は深い溝を刻んだ。
キースは折りにつけエイダ侯爵家に赴き、アーシアと会っていた。
弟のカッツエェは度々同行し、我儘で苛烈な言動の妹よりもたまにしか会えないが優しく静かな姉に親しんだ。時には「姉上に会いたい」と泣いて強請るほどに。
シンシアは物心ついてから数度同行したが、キースが疲れ果ててしまい同行しなくなった。訪問を隠すことすらあった。
姉に会えば些細なことで叩き蹴り、引き離せば暴れまわった。帰ればあることは捻じ曲げて、ないことを多く姉の悪口を母に吹き込み、共に荒れるので辟易した。
シンシアにとってアーシアの一挙手一投足が癪でたまらないらしい。
ヨランダもまた同じで、3歳のアーシアを扇で叩いている現場を見られて以来、侯爵家への出入りを禁じられた。
(あの時の嵐はものすごかった)
キースは今思い出してもゾッして身震いしてしまう。
自分は一片も悪くないと思い込んでいるヨランダは荒れに荒れ、何度も爆発するような癇癪を起し、使用人、特に若い女性に暴力を奮い物を投げ、怪我人が多数出た上に暇を願い出た者も出る騒ぎになった。
それが止んだのはシンシアの懐妊がわかったからだ。
妊婦の一時的な気の乱れということでおさまった。
対外的には。
5年前、アーシアが9歳の夏、我が娘を見て「育ちとはこれほど違いを生むのか」と呆然とした。
一服の解毒薬の如き娘だった。
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