マジョリカ
國﨑本井
第1話
ああ、最悪。
三島杏は濡れた袖を見つめて思う。
持っている服の中でも特別お気に入りの、杏がこの世で1番似合うと思ってやまないうすいクリーム色のワンピース。そのワンビースは袖や襟元までびちゃびちゃだった。着替えた後に顔を洗ったせいだった。杏は慌てた時の自分の空回り具合に毎度懲りずに落胆している。
待ち合わせを15時に控えた今日に、私が起きたのは14時20分。そして今は15分経ったところ。飛び起きた私はまずベットの横のハンガーラックに手を伸ばし、お気に入りのワンピースに着替えそのままの勢いで洗面台に向かった。急いでる時に限ってうまくいかないことを杏はいつも馬鹿みたいだと思っていた。
外はすっかり一月らしく凍えるような気温をしている。こんなに寒くなることを杏は昨日のうちに調べてあった。気温を確かめる癖など杏にはないが今日は特別な日であったからしょうがない。
今日はとても大切な日だった。想い人との待ち合わせであるからそれは間違いない。意中の相手と映画を見に行く。二人っきりで。より良い自分を用意しようとした私はすっかり寝不足で、そんな事など知らないはずの彼は、よく寝た顔で来るだろう。きっと呑気に。同い年であるはずなのに私のほうが二年も早くバイト先にいたことで、彼は事あるごとに後輩面をしたがる。すごく人懐っこく、それでいて私の扱い方がとてもうまい人だ。
待ち合わせは映画館の横にある、道路を挟んだアルパカ小屋の前に15時。私は遅刻の常習犯で、最近自覚したがとてもよく迷子になる。徒歩十五分の友人の家に行くのにスマホの充電が切れてしまい車で一時間かっかったこともあった。今日だけは余裕をもってついていたい。普段よりいっそう焦って準備を急いだ。
待ち合わせの場所には14時59分についた。「遅いですよ」とからかうように笑う彼は意地悪でとてもやさしかった。「まだ15時じゃないよ」と反論するが、私の気持ちはすでにふわふわと飛んで出かけており、とても浮かれているのがわかりやすい。「でも俺15分も待ったんですからね」という彼の返答に私は嬉しくなる。この人はただ私に会うために今日、冷たいその服に腕を通し、寒い家からの道のりを歩き、この場に待っていたんだと。この瞬間だけは彼を独り占めしているのは私なのだ。
私の想い人である彼には笹谷陽太という名前がある。私とおんなじ20歳でいかにも大学生らしい茶髪をした男の子だ。三つ上に姉がいるらしく、道理でとても人懐っこい。
陽太は私のことを何とも思っていない。少なくとも愛だとか恋だとかそういう類のことにおいてはそうだ。彼の態度はわかりやすく、そして私を悲しくさせる。それを分かっているのかいないのか、彼はとても単純な顔をする。
「それより寒いですし一旦中に入りませんか?」ふわふわと気持ちを浮遊させた私の顔をのぞき込んで陽太はいう。よく彼を観察すると耳はしもやけで赤く染まり、手は寒そうにコートのポケットに入れている。「夏生まれは寒さに弱いんすからー」と文句をつける陽太が愛おしく、「そうだねごめん」と私は笑い歩き始めた。横断歩道を渡るとすぐ映画館の入り口があった。
この映画館は1階がジムになっているため自動ドアの先は二階に続くエスカレーターになっていた。私はこの場所に来るたびにワクワクしてしまう。もふもふとした黒の絨毯の上を靴のまま歩く不思議な感覚と、壁や天井まで黒く、無数のイルミネーションライトでにぎやかに照らされたエスカレーターはテーマパークの門をくぐるような気分にさせる。私が先にエスカレーターに乗るとそれに続いて陽太は一段下の板に乗った。
二階に近づくにつれキャラメルポップコーンの甘い匂いが香る。それはかぐたびにとても単純に、映画館に来たことを実感できる香りえなので私はとても気に入っている。「いい匂い」がすると振り返る私に陽太は「ポップコーン買いましょうか」ととても素晴らしい提案をした。
結局私たちはキャラメルポップコーンのペアセットを注文した。あれほど寒いと言っていた陽太はアイスのオレンジジュースを選び、私は冬らしく暖かい紅茶にした。「あんなに寒いと言っていたのに、飲み物は冷たいものを選ぶのね」と私が疑問を伝えると陽太は「映画館はストローの飲み物が飲みたくなるじゃないですか」と答えた。その自信満々な考え方がなぜかしっくりきて不思議に私は誇らしい気分になった。
ポップコーンを買い終えるといよいよ入場した。よく映画を見に来るという陽太はどうやら事前にネット注文でチケットを予約したらしく、素早くそれを印刷した。渡されたチケットによるとスクリーン1のH列。私は13番で陽太は14番の席だった。まだ予告も始まる前で席にはまばらに人が座っていた。やはり慣れたようにポップコーンを膝の上に載せる。
映画は今はやりのアニメの映画だった。少年誌の人気漫画の、子供から海外の人にまで老若男女に人気のそれで、彼はその作品だ好きなようだった。漏れることなくやっぱり私も好きな作品だ。すごく楽しみにしていた映画だったが、私には少し不安があった。待ち合わせの時点で浮かれていた私が、隣の席に彼がいる状態できちんと映画に集中できるだろうか。
そんなことを思っていたがそれは杞憂だった。映画はあっという間に終わってしまったし、隣の人を気にする間もないくらい、どうやら私は作品に集中していたようだった。おかげで感想を聞かれて困ることはないと思うが、それはそれでもったいなくも思ってしまう。こんなに近くで横顔を眺める機会などそうそうないからだ。
映画を見終わった頃にはちょうど空が暗くなり始めていた。先に自動ドアをくぐった陽太は、どうやら風に吹かれたようでさむっと咄嗟に呟いた。
今日の約束は「映画を見る」ことで、もう用事は済んでしまった。このまま別れてしまってもおかしくは無いのだが、私は名残惜しく陽太を夕食に誘った。その誘いを陽太は快く飲んでくれたので私は寒さを忘れて微笑む。何を食べようかと地図アプリを起動した私の手元を彼は覗き込む。私たちは至っ大学生らしく近くのファミレスに向かうことにした。
目的地のファミレスは10数分歩いた辺りにあるらしい。最近自覚したが私はすぐ迷子になるらしいので、地図アプリを起動したままスマホを陽太に託し、すんなりと進んでいく陽太に私はついて行くことにした。
途中で霜を踏んでみたりもしたし、凍った地面を踏まない様にと注意もしながら私は歩いた。なんの代わり映えのない道であるからなおさら、この道を忘れてしまわぬように慎重に。陽太と歩いたこの時を鮮明に記憶に残して置けるようにしっかりと観察した。あんなにも気を張っていたはずなのに数分のその道のりは、私にとってもきっかり数分で、ずっと続いてしまえばいいと思っていた私の思いはかなわなかった。体感ですらもきっかり数分の道を歩いてたどり着いたのは、素晴らしいほどにイメージ通りのファミリーレストランであった。「ここ初めて入ります」と少しばかり陽太の声は弾んでいるように思えた。
すっかり空も暗くなった屋外にまで暖色の照明の光は溶けて溢れており、とても暖かそうだ。たった数分外を歩いただけなのにすっかり体は冷めてしまったようで、早くその温かさに浸ってしまいたい。レンガ造り風の階段を三段ほど上った先の入口のドアに手をかけた陽太は「どうぞ」と私をくぐらせる。こういうことをしてしまうからこの人はモテてしまうのだ。私は「ありがとう」とだけ伝え店内に入る。中は思っていた通り柔らかく、凍えていた私の皮膚たちは一気に溶けた。とても暖かいのもそうだが何より、店内の空気に染み付いたお料理の香りが幸福感をあおる。
後から入った陽太もこの暖かさを感じたようで「あったけえ」と気の抜けたような声を漏らす。陽太のほうを振り返ると「あったかいけど寒いですね」とそんなことを言うので、おかしくて私は笑う。ただ「そうね」と返事をして。
店内に入ったときは丁度夕食時で少し込み合っていた。颯爽とウェイティングシートに名前を書く陽太はやっぱりきれいな字を書く。あと三組っすねと顔を上げた陽太にありがとうと簡潔なお礼を伝え、待合のソファに座る。テーブル席では対面で座ることになると思うが、わたしは横並びにすわる座り方がとても好きだ。嫌いな人なら顔を見なくて済むし、好きな人なら顔を見られなくてすむ。対面で座るよりもずっと距離が近いように思えてとてもよくできた座り方だと思って私は好きだ。
呼ばれるまでの時間には映画の感想を言い合った。あのキャラクターがかっこよかったとかいろいろ。もちろん、3組ばかりの待ち時間では話きりはしないので、ほんの数分で呼ばれてしまい、私たちは席に移動した。話も1時中断し、席に着いたら何を食べようかと話し合う。「やっぱ肉がいいっすね」と笑う陽太がとても野性的に思いとても微笑ましい。彼は和風のステーキ定食を頼み私は魚介のスープパスタにした。友達に教えてもらってからとても好んでよく食べている、赤色のよく目立つスープパスタだ。
私と陽太は飲食店でアルバイトをしているが、お店の雰囲気もメニューの内容もまるで違い興味深く思う。こんなにいろんな種類があったら覚えるのも大変だね。とかでもタブレットでオーダーできるなんていいっすね。とかそんな会話をして、ある程度そんな話が終わったら今度はもう一度映画の感想を言い合った。
マジョリカ 國﨑本井 @kunisaki1374
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