影が落ちた夏

鈴井宗

今年も、また夏になった

 今年も夏がやってきた。刺すような日差しは肌を焦がし、湿気と気温が意識を茹で上げる。必死に鳴いている蝉の声にも耳を傾けてやる余裕はない。

 こんな季節なってくると思い出すことがある。あまりいい思い出とは言えないが、かといって忘れたい記憶というわけでもない。ただ思い出すたびに、こんなに暑く苦しい夏でも頭が冷め、意識が冴えていく。そんな記憶だ。



何年前かは忘れたが、あれはまだ俺が会社員をしていた頃だ。やりたくもない仕事、会いたくもない上司、週に二日の休日のために心を削り、平日に怯えて休日を過ごす。らしくもない気遣いと、やりがいの感じられない作業。それを一日8時間以上こなしていれば、吐き気を覚えたって仕方がない。


 この生活を何十年と続けられるのが一人前の人間で、自分もきっとそうなれるはずだと思い込んでいた。日々の息苦しさについては深く考えないように。ただ今日が終わるのを待ち、明日が始まるのを待っていた。なぜそれほどの苦しみに耐え続けていたのか、今にして思えば、自分がまともな人間ではないのだとわかってしまうことが怖かったのだろう。自分がではなく、周りに知られてしまうことが。普通じゃないことは、普通じゃないと思われることは、とても怖いことだから。


 そんな生活をしていたある日、俺は普段通りの力ない足取りでアパートに帰り、玄関のドアを開けた。すると見慣れたはずの玄関の光景が何かおかしかった。大きな変化ではないはずだが、どうにも違和感がある。俺は狭い玄関をぐるりと見渡してみた。ほとんど物が入っていない靴箱も、ほこりがたまった段差も、立てかけてある傘も、いつもと全く変わらない。今朝家を出た時のままだ。


「気のせいか」

 そういう勘違いや思い違いをするには十分すぎるほど疲れていた俺は、そう納得し玄関へ足を踏み入れようとした。だがしかし、踏み出した自分の足の目をやった時、俺は感じていた違和感の正体をやっと発見し、玄関へ入るのをやめた。


 そこには一足の靴があった。


 靴が玄関にあること自体は全く問題ない。むしろ玄関は靴のためにあるといってもいい。よほど几帳面なやつでなければ、帰宅したときに履いているもの以外の靴がいくつか玄関に並んでいても驚く者はいないだろう。そんなことはいくら疲れていても忘れたりしない。俺がやっとの思いでたどり着いた玄関に入るのを躊躇ったのは、今履いているのと「全く同じ靴」が並んでいたからだ。


 靴というものはただそこにあるだけで持ち主の存在を強く感じさせる。究極的にはただの物であるはずなのに、おいてあるだけで妙に生々しい気配を発し、脱ぎっぱなしの靴を見れば影も形もないはずの持ち主の姿が確かに見えてくる。


 道端に転がってるのならまだしも自宅の玄関に転がっていて、その上それが今朝この玄関で履き今も履いたままの靴なのだから、不気味さも数倍だった。つい数秒前まであれほど待ち望んでいた我が家に、恐怖で足を踏み入れられない。目の前の状況を飲み込むために、靴を脱いでから入る礼儀正しい空き巣と偶然趣味があっただけだとか、知らぬ間に記憶喪失やら認知症やらになってしまったとか、かなり無理やりな可能性まで考えてみたが、徒に恐怖と不気味さを盛り上げるだけだった。


 だがいつまでも玄関前で立ち往生しているわけにはいかない。どれほど睨みつけたところで靴は一歩も動きはしない。俺は意を決して玄関に入り、ようやくの帰宅を果たした。靴を脱いで中へ上がると、俺の関心は二足並んだ靴よりもむしろ部屋の中に引き寄せられた。物言わぬ靴よりも危険を感じさせるのは、その持ち主のほうだからだ。俺は慣れない戦闘態勢を保ったまま部屋に入り、まだ見ぬ侵入者を捜索した。いるかどうかもわからないが万が一にもいた場合、まともな奴ではないことは確実だ。


 しかしそんな警戒は空振りとなった。部屋の中には誰もいなかったのだ。荒らされたり、物色された後もなく、今朝家を出た時の状態が完璧に保たれていた。


 若干の肩透かし感はありつつも、ひとまず直接的な危険はないことが判明し、一応の安心は得られた。ひとまずリビングの椅子に腰かけながら改めて考える。


 しかしこれはこれで玄関の靴の謎が一層深まってしまった。いつ、だれが、なぜ、どのように靴を玄関に置いたのか全く見当もつかない。家中探し回ったが何のヒントも得られなかった。だが。


「誰が、か」


 「誰が」はわからなくとも「誰の」かには心当たりがある。あれは多分俺の靴だった。メーカーや形が同じというだけでない。汚れや傷のつき方、靴紐の結びまで同じに見えた。もう一度確認したい。それでなくても今回の異変の物的証拠はあの靴以外にないのだから、唯一のヒントとして今一度しっかりと観察する必要がある。俺はひとまずそう結論付け椅子から立ち上がった。さっきまでの警戒心はだいぶやわらぎ、ちょっとした謎解きに挑戦する気分で玄関に向かったのだが、そこで再び、今度は反対側から俺は玄関の手前で足を止める羽目になった。


 例の靴が消えていた。どう見ても靴は一足しかない。俺が脱いだ一足しか。俺が部屋の中の安全を確保し、一息つきながら推理ごっこを楽しんでいた数分の間に、謎の革靴は影も残さず消えてしまったのだ。


 次の朝はやけに早く目が覚めてしまった。靴の消失は、すでに疲れ切っていた俺の精神に止めを刺したと後は、せっかくだから昨日の事件について今一度考えてみようとも思ったがやめておいた。調査と考察は昨晩で完全に終了している。まだ体から抜けきっていない疲労感がその証拠だ。靴が消えた後、俺は再びかなり気合を入れて部屋中検めたが、結局のところ一連の謎に関して判明したことはゼロだった。一切の痕跡が残っていない。何も起こってないのとほとんど同じだ。一夜去ってみて本気で夢だったんじゃないかと疑い始めているくらいにはお手上げだった。


 できることならこのまま靴の謎の解決を目指したいところだが、そうはいかない。不本意ながらも社会人である俺は会社に行かなければならない。上司に昨夜のことを欠勤の理由として認めさせる方法が思いつかない以上、どうにもするわけにもいかないだろう。玄関を出る時、ドアを閉めるのを少しためらったが、サラリーマンに選択権はなかった。


 幸か不幸か、働いているうちは靴のことを考える暇もなかった。いつものように汗をかき、気を遣い、心も体もすり減らして働き、仕事が終わるころには昨日のことなんかすっかり忘れてしまっていて、家のドアの前についてところでやっと思い出したのだ。


 昨日はここでドアを開けたまま立ち尽くしていたが、今日はドアを開ける前から立ち尽くしている。別に靴のことを思い出したからじゃない。ドアを開けるまでもなく、昨日と同様に異変を感じたからだ。



 今回の異変は「音」だった。それも足音だ。昨日の靴なんか比にならないくらいに直接的に何者かの存在を主張していた。靴はあくまで何者かがそこにいた痕跡に過ぎなかったが、足音なんてものはもはや証拠不要の現行犯だ。二日連続でこんなことが起これば、幻覚や幻聴ということもあるまい。


 しかし今回はドアを開ける覚悟を決めるのにはそれほど時間はかからなかった。


 勿論恐怖も緊張も十二分に感じていた。部屋の中から聞こえる足音からは、生身の人間を鮮明に感じる。体格や体重、そして何より感情を。目を凝らせば表情まで見えてくる気がする。「いるかもしれない」ではない。確実にいる。明らかに昨日より危険だ。だが足音に気づいた時点で、俺はもう諦めがついていた。覚悟というのは諦めることで生まれるものだ。俺は既に尋常じゃないことに巻き込まれてしまっている。もうこの玄関先は日常の延長線上ではなくなってしまった。逃げることはできない。それは諦めるしかない。しかしだからこそ、戦う決心がついた。


 俺は昨日棒に振った闘争心を再び奮い立たせ、ドアを開ける。サラリーマンの帰宅にはおよそ似つかわしくない表情で、足を踏み出した。


 結果から言えば、部屋の中にはまたしても誰もいなかった。あれほど克明に想像できていた人影に、実像は伴っていなかったのだ。だが拍子抜けという感じはしない。肝心の足音は以前変わらず聞こえているからだ。音の発生源に近づいたからか、振動すら感じ取れるようになっている。姿は見えずとも、存在感はむしろ増している。そうなってから気づいたが、聞こえていたのは足音だけではなかったようだ。床からだけでなく壁やドアからも何かがぶつかる音がする。


 俺は部屋に上がり音の発生源を探してみることにした。といってもそれほど広い部屋ではないから、すぐに突き止めることができた。音の発生源は移動し続けていたのだ。廊下、洗面所、トイレ、リビング。足音は家中を歩きまわっていた。壁やドアの音も常に足音の近くから聞こえている。隣の部屋の生活音や自然現象では絶対にありえない。この時点で俺は「何か」がいるということを確信した。一応音のする近くで手を振り回してみたが、何の感触もない。姿もなければ形もない。音だけだ。だがしかし、確実に「何か」はいる。


 しばらく観察、もとい鑑賞してみたが足音は部屋を右往左往するだけで特に変化はなかった。足音にはある程度の意思を感じるが、こちらを認識している様子はない。同じような速度で同じような場所を移動し続けている。普通に歩くより少し遅く、よたよたとした感じで、風呂場からトイレへ、トイレから玄関へ、玄関からリビングへ、テレビの前や俺の腰かけるベットに近くを通り、また風呂場へ。このまま鑑賞を続けても、重要な情報は得られそうにない。一応昨日と同様に部屋の中を捜査してみたが、昨日と同様に音以外の身の危険と異変がないことが確認できただけだった。


 意気揚々と部屋に乗り込んで、早々にやることがなくなってしまった俺は、とりあえず腹ごしらえをすることにした。足音に対してこちらからの干渉が不可能な以上、俺にできるのはひたすら見を維持することのみである。今夜の決戦は長丁場になるだろうことが予想できた。


 晩飯を食っている間も足音に変化はなく、食い終わったら再び暇を持て余すことになった。得体のしれない客人がいる中で、リラックスすることもできない。せっかくだから、姿のない足音について何かしらの情報がないかネットを調べてみたが、ヒットしたのはありがちな怪談や怪奇現象についてのサイトのみだった。一応サイトをのぞいてみたが、載っていたのはだれでも知っているような情報と実話を自称するたいして面白くもない怪談のみであまり参考にはなりそうもなかった。


 怪奇現象に近いものだとは思うが、幽霊とか怨念が原因だとはあまり思えない。そういったものが原因だとしたら、あまりに主張がなさすぎる。死者の念というものは意思や目的はなくとも、感情だけはあるはずだ。その感情を伝えるためだけに、肉体を失ってなお現世にとどまっているのだから。そう考えると今回の足音はむしろ逆といえる。その規則性と人間味からは明らかな意思が読み取れるが、それがこちらに向く気配は全くない。この足音には感情と主張が感じられなかった。


 インターネットが敗れた以上、俺は別の手段で情報を集める必要があった。真っ先に思いついたのは文献を漁るか、あるいは専門家や有識者に直接話を聞くかだが、もうとっくに図書館は閉まっているし、こんな奇妙な現象に造詣の深い人間なんてそうそういない。ネットで調べて判らなかった途端に手詰まりというのは何とも情けない感じだが、それが現実であった。仕方がないので渋々足音の監視に戻ろうとしたその時。


「♬♪」


 突然、携帯の着信音が鳴った。テレビもつけずにあれこれ考え事をしていたから必要以上に驚いてしまったが、人工的な電子音を聞くのはずいぶん久しぶりな気がして、俺は少しだけ安心した。だが、画面に表示された発信者の名前を確認した瞬間にその安心は消え去ってしまった。


 瑞嶋は俺の甥にあたる。年は十七で関西の高校に通っていた。奴がどんな人間なのかといえば、なんてことはないろくでなしだ。家庭の事情で小中学は全国を転々としており、その先々で問題を起こしたために親しい友人はできたことが一度もない。気性が荒いわけではないが、人を歩く案山子くらいにしか考えていない。とにかく集団生活に向かない。わかりやすいくらいのはみ出し者だ。


 瑞島から連絡が来るときは大抵面倒ごとに巻き込まれる。それも明確な役割があって巻き込まれるわけじゃない。流れのままにトラブルに放り込まれ、散々振り回された挙句、振り返ってみれば自分がいる必要なんて全くなかったということばかりだった。


 瑞島が高校に入ってからは全く連絡が来なくなったおかげで忘れかけていたが、スマホに映った名前を見て奴との忌々しい記憶たちがよみがえった。


 しかし同時に、奴が奇妙な事件やうわさ話にやたらと詳しかったことも思い出した。体質的にそういうものを引き寄せているのか、彼が自ら近寄っていくのか。会うたびにそういう話を嬉々として聞かされていたことを覚えている。奴なら何か知っているかもしれないという期待も込めて俺は電話に出ることにした。


「もしもし?」


「やあ叔父さん、久しぶりですね、僕ですよ。」


「ああ、久しぶりだな。」


「あれ、元気がありませんね。もう少し明るく話したほうがいいんじゃないですか?サラリーマンなんですから。」


 高校生になり少しは成長しているのではないかと期待したが、たった10秒の会話でその期待は裏切られた。別に悔しくもないが。


「次からはそうするよ。それより何の用だ?こんな時間に電話なんかかけてきて。」


 聞きたい事だけさっさと聞いて電話切ってしまいたい一心で、俺は話を急かした。


「急かさないでください。少しは雑談を楽しみましょうよ。人間性ってのは雑談が養うもんですよ。」


「だとしたら雑談に励むべきなのはむしろお前のほうだろう。」


「ひどいこと言うなあ、かわいい甥っ子に。まあいいや。」


 叔父からの小言をさらりと受け流し、ふふん、と人を馬鹿にするように笑ってから、可愛くない甥っ子は本題を話し始めた。


「何の用ってこともありません、ただの野暮用ですよ。わざわざこんな時間に電話しなくても、いつでも済ませられる用事ですよ。」


「それじゃあ、なんでわざわざこんな時間に電話なんかかけてきたんだ?」


「さあ。なんとなく今電話したいと思ったんですよ。虫の知らせってやつですかね?別に好き好んでおじさんのくたびれた声を聴いてるわけじゃありませんよ。」


 とりあえず最後の一言は大人らしくスルーして。虫の知らせという言葉が気になった。さっき言った通りこいつはいわゆるそういう物や現象とひかれあう体質で、虫の知らせというのもあながち馬鹿にできない。どうやらその体質は今も健在らしいと知り、俺は一層期待を膨らませた。


「何かあったんじゃないですか?叔父さん。むしろ用事があるのはあなたのほうだと思っているんですけど。」


 自分の体質についてこいつ自身もある程度自覚があるらしかった。虫の知らせは今回が初めてではないのかもしれない。


「まあ、当たりだよ。ちょうどお前の知恵を借りたい状況なんだ。」 


 俺は昨夜からの体験を一通り説明した。


「無視して生活できるほど小さな足音でもないんだ。」


「か細いんですね神経が。」


 とりあえず、こいつには一度どこかでしっかり説教をしなければなるまい。子供向けではない、大人が大人を叱るときの愛なき説教を。社会で習得した数少ない技術のうちの一つをいつか存分に味わわせてやろうと俺は心に決めつつ、ひとまず話をつづけた。


「なんでもいいんだ。何かわからないか?」


「うーん、そうですねえ。」


 あまり興味をそそられなかったようで、つまらなそうな口調だったが、彼は話を始めた。


「おじさんはきっと影をみているんですよ」


「・・・影?」


「ええ。ちなみに言うまでもなく叔父さん自身の影ですよ。だから多分その足音だって、おじさんの普段の生活音だと思います。」


 言っている意味が全く分からない。俺の知っている影というものは黒一色で、平面で、音も出さない、今も部屋の明かりに照らされる俺の足元から床へ壁へと伸びているこれのことだ。昨日は靴も今日は足音も、どう考えても影とはかけ離れている。


「飲み込めないのも無理はないですがね。」


 俺の反応を察してか、彼はそういって解説を始めた。やはり面倒くさそうに。


「影っていうのは要するに、光が遮られた痕跡なわけです。影が地面に映るんじゃなくて、何も映し出されなかった場所こそが影になるんですよ。つまり影の正体というのは、遮られ、照らし出されないという『現象』の方にあるわけです。」


「・・・まあ、なんとなく意味はわかったが。だが俺が知りたいのは影とは何かとかじゃなくて、どうしてその影が靴やら足音やらに化けるのかってところなんだよ。」


「・・・」


 俺が文句を言うと、彼は少し間をおいてから、さっきまでと変わってあからさまに不愉快そうな態度で答えた。


「そんなことはわかってますよ。それを話す上で大事なところだからわざわざ説明しているんでしょう?叔父さんのために一からね。」


 ご機嫌を損ねてしまったらしい。およそ十七になる高校生がすることではない。しかし背に腹は代えられない。このままでは話が進まない上に今は教わる立場な以上、俺は仕方なく下手にでることにした。


「悪かった。わかってる。ありがたいよ。でも俺は不安なんだ。怖いんだよ。そりゃあ知識も経験もあるお前からしたら焦るようなことじゃないかもしれないが、俺はまるで素人なんだ。早く安心したくてつい先を急いじまっても仕方ないだろ?口を挟んだのはわるかった。何が起きてるのか続きを話してくれよ。頼む。」


「いいでしょう。高校生相手に迷わず遜るその素直さに免じて許してあげます。」


 意外と寛容で助かった。単純というべきかもしれないが。


「つまり何が言いたいかというと、影というのは何も光によってのみ生まれるものではないということです。照らすものと遮るものが揃えば自然と影はそこに生まれるんです。それが光ならば黒く姿が写りますが、光でないのなら写り方も当然変わります。」


「それが靴であり足音だと。」


「そのとおりです。」


「なるほどなぁ。」


 一応理解はできたが、話が唐突すぎてどうにも現実味がなかった。実際に起きてる以上認めるほかないが、やはりフィクションにしか聞こえない。しかし他ならぬ自分自身が証人では言い訳ができない。恐らくこいつの話は正しいのだろう。逃げないと決めたのだ。現実は現実として認め、現状を脱する術を探さなくてはならない。俺は改めて腹をくくり、話を進めた。


「・・・分かった。信じるよその話。」


「意外とすんなり納得しますね。」


「納得なんかできちゃいない。ただ身の安全の方が大事ってだけだ。」


「別に身の危険はないんじゃないですか?ただの影なんですから、意思はありませんし、触ることもできませんよ。」


「睡眠の妨げは立派な危機だよ。とにかく足音が影だってことはわかった。それでこの影を消すために俺はどうすればいいんだ?」


「さあ、知りません。」


「知らないのか。」


「はい。」


「影のことは知っているんだろ?」


「変わった影が現れたという話を知っているだけですよ。消し方までは知りません。ご自分で考えるしかありませんね。」


 一緒に考えるなどという発想が、こいつにあろうはずもなかった。


「考えるたって、俺はお前以上に何も知らないんだ。上手い方法が考え付くと思うか?」


「僕だって同じですよ。今話したこと以外は、大したことは知りません。むしろ実際に目の当たりにしている叔父さんの方が可能性はあると思いますよ?」


「そういうもんなのか」


「そういうもんです。」


 助言を出し惜しみするタイプではない。おそらく本当にこれ以上の情報はないのだろうとわかった。


 解決こそしなかったものの状況は進展したのだし、彼には深く感謝するべきだろう。しかし、これ以上話しても得るものがないとわかってしまったら、一刻も早くこいつと会話から解放されたくなってきた。


「わかったよ、そういうことなら仕方ない。後は自分で何とかしてみるよ。悪かったな、いろいろ助言してもらっちまって。」


「ええ。存分に感謝してください。」


「・・・ありがとな。」


 どういたしましてを待たずに俺は電話を切った。切ってから気づいたが、向こうの用件について全く忘れてしまっていた。どんな用件だったのか気にはなったが、もう一度電話する気力は残っていなかった。そんな気力があるのなら、この後の影退治のため温存しておかなくてはならなかったからだ。


 しかしその後、宣言通りに単身で影退治に挑んだ俺は己の素人度合いを痛感させられた。


 ベタに塩をまいたり、影ならばと部屋の明かりを消してみたり、瑞嶋に見せれば冷笑を買うだろう奮闘も空しく、午後零時を回っても影は元気に歩き回っていた。


 考えられることは全て試したが、手応えはなかった。この時点でひどくやる気を削がれていた俺は、一時休戦のつもりでベットに寝転がった。


 そしてに休憩がてらに視点を変えて、影を消す方法でなく、影がなぜ現れたのかについて少し考えてみた。


 そもそも俺は、つい一昨日まで何の変哲もない平和な日常を送っていたはずだった。幸せだったかどうかはともかく平和ではあった。そう一昨日だ。一昨日に何かあったことはまず間違いがない。そう思って俺は一昨日の家を出てから帰ってくるまでの記憶をたどることにした。


 そして、思い出そうとして初めて、憶えていることなどほとんどないことに気づいた。それは何も一昨日のことばかりではない。一昨日より前、昨日もことでさえ断片的な記憶しかない。昼に何を食べたとか、誰と会ったとかそれくらいをぼんやりと憶えているだけで、それだっていつ、どこかまではわからなかった。記憶喪失などではない。確実に日常を重ねてきたという実感はあった。実感だけがあり具体的な記憶が伴っていなかったのだ。必死に生きてきたはずだった。長く感じたはずだったのに。休まずに息を切らせて歩いてきた道のりに俺は見覚えがなかった。前も後ろも知らない道で、どこへ行きたかったかも忘れた。ながら見で見たテレビのように、俺はこの数年を、いつの間にか、知らぬ間に過ごしてしまっていたことに、この時初めて気づいた。


 これが今回の影と関係あるのかどうかはわからなかったが、それとは関係なく、ため息がでた。いったい俺は何をしているのだろう。もう二十数年も生きてきて、人生の短さぐらい学んでいるだろうに。今生きている時間の貴重さなんて少し考えればわかることなのに。いつの間にか無駄にしたこの数年には一体どれほどの価値があっただろうか。俺はそれを捨ててしまった。いや、捨てたことにも気づかなかった。何も考えていなかったのだ。足元ばかり見て、転ばないことに気を取られ、周りの景色もすれ違う人々にも目を向けてこなかったということだ。仕事に、自分の人生にどれほど興味がなかったというのか。自分がこの世で一番の馬鹿に思えた。


 作戦を練るつもりが、すっかり戦意を喪失してしまった。そしてベッドに倒れたまま、どうしようもない後悔にうなだれている内に俺はそのまま寝入ってしまった。

 

 次に目を覚ました時、外はまだ暗かった。とはいえ、時間について後から知ったことで、実際に窓の外を確認したわけではない。起きた時は、窓はおろか時計を見ることすら考えなかった。そんな暇もなかった。理由は俺が目を覚ました原因にあった。


 俺を起こしたのは、声だった。男がすすり泣いていたのだ。それも俺の隣で。


 俺はベッドに対して、横向きに座った状態から体を倒して寝ていた。つまり足を床に着けたままで、体を起こせばベッドに腰かけている状態になる。俺の横で泣きべそを外でいる男はまさにその恰好だった。


 男の存在に気づいた俺は声も出せず、ただベッドの上へ後ずさりをし、壁に背を付けて停止した。この上なく寝ざめの悪い起こされ方だった。さっきまで穏やかだった心臓が暴れるように跳ね、冷や汗が一気にふきでた。あまりの驚きで放心状態というか、状況を思い出すことにも手間取った。しかし、俺が頭を真っ白にしている間も男はただすすり泣くばかりで、俺を見向きもしなかった。声は出さずとも、どたばたと慌てふためいて、我ながら結構なリアクションをしていたはずなのに。


 この感じ、この完全に無視されている感覚で悟った。こいつは影だ。いままで靴と音しか見せなかった影が、どういうわけかいきなり全身を現したのだ。


 やっと姿を見せた怪人は、しかし見慣れた姿だった。俺のスーツ、俺の髪型、俺の声。瑞嶋の言う通りだったわけだ。影は確かに俺の姿をしていた。見慣れたといったが、自分の後ろ姿は初めて見た。録音した自分の声は気持ち悪く聞こえたりするが、それは鏡や映像ではない自分の姿についても同じだった。どこが間違っているわけではないのに、受け入れ難い違和感が拭えない。誰よりも知っているその姿に不信と不安を感じてしまう。


 正直言ってかなりビビっていた。今までと違い、少なくとも成人男性一人分の危険性を持っていることは固かったからだ。勿論幽霊みたいに触れはしない可能性もあったが、わざわざ確かめるのは気が引けた。今回の異変の核心に近づいていることは確かだったが、俺はうかつに動けずにいた。


 しかし次第に冷静になってくると、影がすすり泣きながら何か喋っていることに気がいた。押し殺すような泣き方で、絞り出すように小さく何かをつぶやいていた。


「・・・なんで、・・何がこんなに?・・・」


 かすれた声でうまく聞こえない。俺は危険を承知で影に近づき改めて耳を澄ませた。

「大丈夫なはずじゃないか。・・飯だって家だってあるじゃないか。みんなそれで十分なんだから俺だって十分なはずだろう?・・・なのにどうして、俺はこんなに!」


 なのにどうして、俺はこんなに泣きそうなのだろう。言葉にならない言葉の続きがその時の俺には分かった。


 必要なものはちゃんとある。世の中にはそれも満足に手に入らない人がいて、俺は恵まれている方なのだと知っている。このまま普通に働いて普通に生きていれば、不安も心配もありはしないのに。それなのに、何故かどうしようもなく居てもたってもいられない。ただ何となく、何かが不満で、何かが削れる感覚に我慢できずにいる。そんな気持ちがよくわかる。


 影が映すのは、姿ばかりではなかったらしい。


「俺にはもう何もできない。これ以上どこにも行けない。この先に何も残っちゃいないんだ。」


「・・・飽きちまっただけだろうが」


 腹が立った。気持ちが理解できる分、余計に我慢ができなかった。傍から見るとどれほど幼稚な愚痴なのか分かってしまい、それをいかにも悲劇的に吐き出している自分が恥ずかしくなったのだ。痴態をさらしている自分を見ていられなくなり、つい声を出してしまった。自分自身に、偉そうに。


「仕事も生活も、期待していたほど楽しくなかったってだけだろ。どっちも自分で選んだ癖に、お前の甘ったれた期待が裏切られたって話を、自己中心的に悲観してんじゃねえよ。」


 なぜだろうか。説教じみた言葉を口にする度に、自然と語気が強くなった。


「真剣じゃなかったんだよ、お前は。自分の将来について、考えたつもりになってただけなんだ。その怠けたツケが結果がこれだろ? 周りが平気そうに見えてるのは、真剣に考えて生きてるからだ。」


 影に意思などないのだから、こんな言葉に意味はない。鏡に向かって話しかけているようなものだ。どんな罵倒をしようとも返事は来ない。自問自答にすらならない、一方的な自己否定と憂さ晴らしに過ぎない。そう思っていた。


「・・・考えたよ。真剣に。」


 最初はまた独り言だと思った。影は以前下を向いていたし、泣き声と混じって聞き取りづらかったからだ。


「考えて選んだ未来だよ。俺が怠けたって?そんなわけないだろう?俺なりに一生懸命考えたよ。つもりなだけかどうかなんて、後からしかわからないじゃないか。」


 驚いたが、恐怖はもうなかった。自問自答が完成した。俺なりに、という言葉に自己陶酔が見え隠れし、また腹が立ったが、しかしやはり影の言葉にも一理ある。結局自分の考えなのだからそれも当然ではあるが。


 今の自分の行動や決断が正しいのかなんて、後から振り返ってみなければ分からないのだ。だから俺の言葉は結果論でしかない。影に腹が立つのも、自分が本気で考えた結果がこの惨めな嘆きだということを認めなくなかったからなのかもしれない。だから真剣でなかったということにして、自分の自尊心を守ろうとしたのだ。しかしかといって慰めてやろうという気にはならない。


「後からわかるだけマシじゃないか。確かに選んだときは真面目だったんだろうさ。全力だったんだろうさ。でも足りなかったんだよ。お前はもっと考えなくちゃならなかったんだよ。今分かったことだけど、今更分かったことだけど、でもそれが事実だろう? それが苦しい理由なんだよ。仕方ないじゃないか。」


「仕方ないだって? 冗談じゃない。足りないとわかっていればもっと考えたさ。でもわからなかった。俺は悪くないじゃないか、それこそ仕方のないことだ。やれるだけのことをやっても、それが正解を選べるかどうかは運次第だなんて。・・・こんな気持ちで、泣きそうなまま生きるのも仕方がないことなのか? そんなの・・・俺は耐えられない。」


「仕方がないんだよ。お前が耐えられるかどうかなんて関係ない。たとえ理不尽でも、それは認めなくちゃダメなんだ。」


 自問自答というものは、意外と重要なのかもしれないと俺は思った。頭の中だけでは、結論を出すのが早くなりすぎる。自分で抱えた問題や悩みを咀嚼し反芻することを怠ってしまい、すぐに頭の中で回答を出してしまう。しかし、頭の中で即答できるような結論では問題の解決には至らない。問題はもっと複雑で、理屈だけでなく感情も重要になる。だからこそ正しく問題を捉えるのには時間がかかる。自分自身のものでも、脳内だけでは感情はイメージしづらいものだ。それをこうして目の前で情緒たっぷりに吐露してくれると、解読と解釈に時間をかけ、言外の感情までも汲み取ることができる。


 そうしてようやく、言いたいことも見えてくる。


「だけどさ。今更になっちまったけど、間に合わなかったけど、わかってよかったじゃないか。お前は自分の間違いに今やっと気づけたんだ。そう思えばいいじゃないか」


「それを認めてどうなるっていうんだ。諦めがついてかえって清々するなんて、そんな風に思えるとでも考えてるのか?」


「考えねえよ、お前は。俺はそんな風に考えられない。諦めた分、ちゃんと傷つく。自信はなくなるし、間違え分の遅れは二度と取り返せない。間違えなかった奴らへの劣等感は一生消えないし、後悔だって残る。でもな、諦めなければ何とかなるなんて考えるほど馬鹿でもないだろ。諦めなきゃ前に進めないってことぐらいはわかるだろ?」


 いつの間にか影は、俺と目を合わせていた。頼りない目だった。俺はこんな顔をして生きていたのかと思った。毎日鏡を見ていても、ちっとも気づいてやれなかった。


「今から考えるしかないじゃないか。やり直すことはできないんだから、やり続けることしかないんだろ。仕事とか生き方とか、また考え続けて、また選び続けて。繰り返すたびに選択肢が減って、満足できるものに出会える可能性はどんどん少なっても、答えが見つかるまで諦め続けろよ。みっともないけど、情けないけど、その方がずっと生きる意味がある。たとえ最後まで満足のいく生き方が見つからないまま死んだとしても、その方がきっと、・・・きっと死にたくないって思える。それって、割と上等だろ?少なくとも今よりは。」


「でも、幸せかどうかはわからない。結局今の生活の方が幸せかもしれない。もしかしたら食うことにすら困るようになるかもしれない。そもそも満足できる生活なんてないかもしれない。どんな生き方をしたところで、俺が期待してる楽しさとか、生きる意味とかなんてありはしないかもしれない。それは、・・・やっぱり怖い。」


 会話が成立していても影に意思はない。だからこそ、その言葉は疑いようもない本音だった。怯えているのも、怖気づいているのも本音だった。むしろ嘘をついているのは俺の方だった。怖がる本心を希望的観測と理想論でごまかしていた。


 しかし、それが悪いこととは思わない。何かに騙されでもしない限り、行動できない人間はいる。騙されようが騙そうが、それで何かが変わるなら悪くない。


「俺も怖いよ。先がわからなくなるのは怖い。でも、苦しくはなくなる。」


「・・・お前にできるか?」


「・・・やるよ。俺は。」


 できるとは言えなかった。まだ怯えたままだったから。しかし、それでもやると言えたのは、目の前で泣いている自分に見せた強がりだったかもしれない。説教をしていたつもりが、いつの間にか俺の方が説得されていた。


黙ったまま下を向いている影を、俺も黙って見つめていた。


 すると影の顔に日の光が差した。ふと窓の外を見るとが夜明けが近づいていた。なんだか夢からいきなり現実に戻された気分だった。


 窓に顔を向けたのは一瞬だった。しかしその一瞬の間に影は消えていた。窓から視線を戻すと、さっきまで影がいた場所を朝陽が明るく照らしていただけだった。


 その後、俺はしばらくして会社を辞めた。今の仕事については説明が少し複雑なので省くが、あれ以来影が現れないところを見ると、それなりに満足しているのだと思う。


 ちなみに後から分かったことだが、影の現れた日はあの年で一番気温の高い日だったらしい。もしかしたら突然影が現れた理由はそのあたりにあるのではないか。


 あいつが影といったからすっかり影のつもりでいたが、あれは影と呼ぶにはあまりに鮮明すぎる。輪郭しか映さないはずの影に、顔や声までトレースできたとは考えづらい。自分の姿を自問自答ができるほど鮮明に映し出す。その特性はむしろ鏡に近い。

 真夏に現れる鏡像、あれはおそらく蜃気楼のようなものだったのじゃないのか。照りつける太陽が生む光の屈折。その幻に俺はまんまと化かされただけなのかもしれない。


とはいっても、今さら真相など分かるわけもなく、知りたいとも思わない。それほど大事な思い出とも思っていない。


ただ強いて、こんな思い出からも何かを学ぼうというのなら、一つだけ。自問自答は一人でするべきだということだけ覚えておけばいいだろう。


夏が来るたび思い出し、夏が過ぎるたび忘れ去る。大した教訓なんてない、憶えてるだけの記憶だけれど。多分俺は人生最後の夏にだって、この思い出を思い出す。なんとなくそんな気がする。これは、ただそれだけの話だ。

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